第四話・ダブルワーカー 井和屋さとる

『ピンポーン』



 夕方の団地に響くチャイムの音。切れかけて点滅する電灯が狭い通路をぼんやりと照らしている。



『ピンポーン』



 反応はない。

 背広姿の三人は、顔を見合わせて首を傾げた。事前調査によれば、この時間帯には家主は帰宅しているはずだ。諦めて帰ろうとした時、後ろの階段を上ってくる足音が聞こえてきた。


「あれ、もしかしてウチに用?」


 姿を現したのは二十歳くらいの青年だった。ヨレたパーカーに色あせたジーンズ。髪は短く刈られ、活発そうな印象を受ける。手にはスーパーのビニール袋を持っている。


「はい、井和屋いわやあやこさんに用があったのですが……お留守のようなので、また明日にでも出直します」


 年配の男がそう言うと、パーカーの青年が鼻で笑った。手に持ったキーホルダーをくるくると回しながら近付き、三人の間をするりと抜けてドアの前に立つ。


「あー、出直しても無駄無駄」

「そうなんですか。これくらいの時間なら、お仕事も終わって帰ってくる頃かと思ったのですが」

「今頃どっかで飲んでるか、オトコのとこだよ」


 三人はまた顔を見合わせた。調査書と違う。想定外の事態だ。


「もしかして役所の人? やべ、なんか支払い忘れてたかな。それならオレが聞くけど」

「え、君が?」

「そう。──で、話ってナニ?」


 混乱したまま三人は部屋の中へと通された。青年はこの部屋の鍵を持っていた。調査書によれば、井和屋あやこの息子は二人。上の息子は家を出ている。別で暮らしているとはいっても、この団地は実家だ。出入りするのはおかしい話ではない。


「ええと、君はご長男の井和屋さとる君だね?」

「うん、そう。あ、オレはここに住んでるわけじゃないよ。近くのアパートで一人暮らししてる」


 これは調査書通りだ。

 この青年、さとるは二十歳。高校卒業と同時に家を出て近所で一人暮らしを始めた。一定以上稼ぐようになると母子家庭の手当が出なくなる。その為、就職を機に世帯分離をしたのだろう。


 さとるはキッチンの水切りカゴからプラスチック製のコップが三つ取り出し、居間に座る三人の前に置いて冷たい麦茶を注いだ。


「茶菓子はないんだけど」

「いやいや、気持ちだけで。お茶いただきますね」


 見た目や喋り方に反して随分と礼儀正しい。急な来客だが迷惑がる事もなく、もてなす気まであるようだ。


「えー、私達は県の保護政策推進課の者です。税金の取り立てなどではありませんのでご安心を」

「ほんと? ……良かった〜!今月マジ金なくて」


 隣の寝室に部屋干ししてあった洗濯物を手早く取り込みながら、さとるはホッと安堵の息をついた。

 もてなそうとしたのは、少しでも印象を良くして支払い期限の延長をねだるつもりだったのかと年配の職員は納得した。


「中学生の弟さんがいますよね。こんな時間だけどまだ帰ってないのかな」

「あー、みつる最近塾に通い始めたんだ。駅前の塾で夜八時まで勉強してる」


 若い職員がちらりと壁掛け時計に目を向けた。今は夜七時を過ぎたばかり。弟、みつるの帰宅はまだ先だ。


 さとるの話によれば、母親のあやこは奔放な生活をしているらしい。事前にパート先の勤務状況や自宅の電気や水道の使用時間などから在宅時間を割り出し、確実に在宅していると踏んで訪れたのだが。聞き込み調査は周囲の人間に怪しまれるから実行していない。それが裏目に出てしまった。


「オレが昼間の仕事終わってから買い物してウチ寄って、みつるの晩飯を作ってるんだ。その間に洗濯したりとか」


 あやこではなく、さとるが来ていたから電気のメーターが動いていたというわけだ。


「お母さんの代わりに、さとる君がみつる君の面倒を見ているんだね」

「そうなるかな。みつる、育ち盛りだしさ、買ってきた弁当だけじゃ栄養偏るし」


 スーパーの袋の中身は夕食の材料だ。


「さとる君は弟さん思いなんだね。……お母さんも、お子さんに関心があると思っていたんけど」

「あー、やたらPTAの役員とかやりたがるし、学校行事にも全部顔出すからな。外ヅラだけはいいんだよ。……で? 税金の督促じゃないなら、オジサン達は何しに来たの?」


 三人は再び顔を見合わせた。

 さとるの話は嘘ではなさそうだ。それはつまり、あやこに例の話をするべきではないということだ。本来ならば、みつるを保護する代わりに協力を要請するつもりだった。だが、日頃から家事育児をしておらず、世帯分離をした上の息子に任せきり。命を賭して我が子を助けるために働くとは思えない。


真栄島まえじまさん、無理ですよ」

「帰りましょう」


 若い男女がそう訴える。真栄島と呼ばれた年配の男も、この家庭は対象外であると思い始めていた。前提条件が覆ってしまった以上、話を進めるわけにはいかない。


「なんだよ。用があるんだろ?」


 息子のさとると話が出来たのは運が良かった。おかげで上辺だけの調査では分からない部分が見えた。ここから先は子供にするような話ではない。


 だが何もしなければ、かもしれない。


「……さとる君。みつる君のことが好きかい?」

「は? そりゃ勿論」


 真栄島が尋ねると、さとるは迷いなくそう答えた。日々の献身は全て歳の離れた弟のため。この兄弟愛は間違いなく条件に合致している。


「さとる君。これは、あやこさんではなく君にする大事な話だ。聞いてくれるかい?」

「さっさと話せよ。最初からそう言ってんじゃん」


 改めて自己紹介して名刺を渡し、資料を見せる。


「本来なら、君の母親である井和屋あやこさんにすべき話でしたが……」


 そう前置きをして年配の職員、真栄島は話し始めた。

戦争が間近に迫っていること。シェルターに入るには一人五百万円かかること。敵対国の軍事施設を破壊する作戦に参加すれば、優先枠で一人シェルターで保護すること等を手短に説明した。


 さとるは神妙な顔つきで、茶化すことなく最後まで話を聞いた。地図と航空写真を見比べ、大きく息を吐く。


「オレが協力したら弟は助かるんすよね?」

「そういうことです」

「じゃ参加で」


 あまりにも早い返事に三人は目を見開いた。生きて帰れないかもしれないと伝えたにも関わらず、さとるが即答したからだ。


「あの、いいのかい? こちらから申し出ておいてなんだけど怖くはないの?」

「正直、話自体に現実味ないけど、オジサン達が冗談でこんな話するわけないじゃん。こんな資料や調査書まで用意してさ。多分これ協力者にノルマあるでしょ。ウチが断ったら困るんじゃない?」


 鋭い、と真栄島は唸った。

 確かにある程度の数を集めるよう上から指示が出されている。条件に合致する中で、話をするまでに至らない場合が大半。直接説明しても信じない人もいる。混乱して返事が貰えないまま終わった候補者もいる。思っていた以上に人数が集まっていないのが現状だ。


「みつるはオレと違って出来がいいから期待してるんだ。良い高校行けそうだし。あ、戦争になったら受験どころじゃないか? でもまあ、勉強出来て損する事はないから」


 頭をかきながら、さとるは笑った。


「あ、すんません。オレ晩飯作らねーと。あと三十分で弟が帰ってきちまう」

「こちらこそ、突然お邪魔して済まなかった」

「いえ、オレがいる時で良かった。母さんがコレ聞いたら、多分オレを差し出して自分だけシェルターに入れるようにしてたと思う」


 母親の話をする時だけ顔付きが険しい。母親は留守がちなだけではなく、他にも色々と問題がありそうだ。


 三人が帰ってから、さとるは置きっ放しにしていたスーパーの袋から夕食の材料を取り出し、慣れた手付きで調理を始めた。

 八時を少し過ぎた頃、みつるが帰ってきた。玄関に兄の靴を見つけ、嬉しそうに顔を綻ばせる。


「にいちゃん、ただいまー」

「おう、おかえり。メシ出来てるぞ」

「腹減った〜。いい匂い〜。今日なに?」

「焼きそば」

「やった、にいちゃんの焼きそば大好き!」


 居間のちゃぶ台に向かい合わせに座り、二人で夕食を食べる。余程空腹だったのか、みつるは皿を抱えてがっついている。さとるは自分の皿から少し分けてやった。喜ぶ弟の顔を見て、さとるも笑った。


「にいちゃん今日泊まれる?」

「いや、この後バイト」

「ええ〜……」


 朝から夕方まで郊外の工場で働き、一旦実家であるアパートに寄って弟の夕食を作る。その後飲み屋のバイトで深夜まで働く。さとるの一日は大体こんな感じだ。

 母親は明け方にならないと帰ってこない。世帯分離しなければ母子家庭の様々な恩恵が受けられなくなる。だから一人暮らしを始めたが、自分が居なければみつるの生活が成り立たない。放ってはおけず、こうして毎日様子を見に来ている。


「それより塾はどうだ。慣れたか」

「うん、みんなレベル高いよ。でも楽しい。それに友達も出来たんだ」

「そうか。良かったな」


 みつるに塾を勧めたのはさとるだ。塾代も全て出している。夜のバイトを始めたのもその為だ。体は少し辛いが大した苦労ではない。生まれや親のせいで将来を制限されるのは自分だけで十分だと、さとるはそう考えていた。


「じゃあな。朝メシ冷蔵庫にあるから」

「うん、バイト頑張って」

「早く寝ろよ」

「にいちゃんに言われたくなーい!」




 夜の繁華街。

 掛け持ち先の居酒屋の裏口から店に入ろうとしたさとるに何者かが声を掛けて呼び止めた。三十半ばの女だ。髪も服も地味だが、口紅だけが濃い。


「遅いじゃん、待ったんだけどォ」

「……シフト九時からだし。みつるに晩飯食わせてたんだよ」

「あっそ。もう中学生なんだから、お金あげときゃ自分で何とかするでしょ」


 その金すら渡してない癖に、とさとるは内心憤った。

 女は兄弟の母親、あやこだ。地味な見た目は周りの目を欺く為。実際は子供を放ったらかしにして夜な夜な飲み歩く無責任な女だ。

 さとるは視線を合わさぬよう顔をそらした。


「で、なに? これからバイトなんだけど」

「いま手持ちなくってさァ、幾らか融通してよ」

「……オレも余裕ねーんだけど」

「は? じゃあバイト代前借りしたら? あたしから店長サンに頼もっか?」


 あやこはさとるに歩み寄り、居酒屋を指差した。

 バイト先に親が金の無心にくるなんて悪夢だ。さとるは舌打ちしたい気持ちを必死に抑え込んだ。斜めがけカバンから財布を出し、そこから札を一枚抜く。


「……五千円コレしかねぇから」

「なぁんだ、あるんじゃん!」


 差し出された金をひったくり、あやこはひらひらと手を振って夜の街へと消えていった。あの様子では今夜も家に帰りそうにない。


「くそ、……」


 さとるは悔しさと情けなさで泣きそうになるのをぐっと堪え、雑居ビルの壁を殴った。

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