第104話 その目をやめろ!
俺とティルノアだけを乗せた馬車が、ゆっくりと正門を潜る。
時刻は早朝。ようやく昇りはじめた朝陽を仰ぎながら、かぽかぽと馬がなだらかな地面を歩く。遠ざかっていく王都の外壁をちらりと見て、欠片ほどの寂しさを覚えた。
そんな俺の肩に、華奢で小さな手が置かれる。
「もう帰りたくなったのですか? 無理をしなくても、今からならすぐに街へ戻れますよ?」
ティルノアからの提案は、まるで悪魔の囁きのようでもあった。
おまえにはまだ早い。さっさと荷台から降りて帰れば間に合う。今なら騒動にもならない。いつもどおりの日常が待っている。
それら強い誘惑を振り払い、確固たる意思で彼女の言葉を否定する。
「いや、平気だよ。今さら戻ったりしない。それに、永遠の別れじゃないんだ。夏休みが終わるまでの間くらい、この寂しさには耐えられる。あんまり子供扱いしないでくれ、ティルノア」
「……失礼しました。もしかすると本当に帰りたいと思っていたのは、マリウス様ではなく私のほうかもしれませんね」
「ティルノアは帰ってもいいんだよ? 仕事をサボってるじゃん。怒られるよ」
「問題ありません。マリウス様の世話こそが私の仕事。こうしてマリウス様についていかないほうが怒られます。それに……」
スッと、今度は手だけじゃない、全身で俺の体を優しく包む。背後から甘い匂いが鼻腔をくすぐり、しかしどこか懐かしい匂いに緊張が緩む。
背中に当たる柔らかい感触さえなければ、一生このままでもいいくらいの心地よさだ。
「今のマリウス様を、如何なる理由でもひとりにはしたくありません。一度でも手を離したら……いなくなってしまいそうです」
「ティルノアは繊細だねぇ……。俺はマリウス・グレイロードだよ? 記憶が消えてもそれは変わらない。俺の帰るべき場所は、最初からひとつだけだ」
「本当に?」
「本当に」
そう言って俺も腕を伸ばす。
背後にいるティルノアの頭に触れると、数回、彼女の髪を梳く。サラサラの細長い髪が指にまとわりつき、ややひんやりとした感触を楽しむ。
「でしたら……ひとつだけぶしつけながらお願いをしても?」
「お願い? 俺に叶えられる範囲でならいいよ」
不思議と柔らかくなった声色で、ほんの僅かに間をあけて彼女は言った。つまづいた言葉は、恥ずかしさに堪えるようだ。
「その……なんというか……ティル、と。そうお呼びください……」
「え……」
意外なお願いがきた。
まだ俺が、マリウスとしての記憶を持っていた頃。メイドの彼女をそう呼んでいたらしい。
付き合いが長いのだからそれくらいは普通かと思ったが、次に目覚めた俺には簡単なことではなかった。なんせ記憶がない。言ってしまえば今の俺は完全初見状態だ。そんな状態で二回目の人生も長らく? 童貞を貫いてる俺に、メイドとはいえ異性を愛称で呼ぶなど……うん、難しい。
でも確かに今なら呼べそうだ。目覚めてからそれなりに日にちは経ってる。
ごくりと一度だけ喉を鳴らし、覚悟を決めて俺は口を開いた。震えるように、掠れながらもその名を呟く。
「……ティル」
「はい」
「これからも、よろしく頼む」
「はい……! マリウス様の世話は、私にお任せください。他の誰にも、譲るつもりはありません」
大袈裟な奴だった。けど、それがすんなりと心の奥に届くくらいには、俺も彼女を信用していた。それが今の俺の気持ちなのか、これまでのマリウスとの実績なのかは……よくわからない。わからなくていい。
とうとう景色の奥に消えてしまった王都から視線を離し、左右を挟む森林たちを一瞥したあと、腕の拘束を解いたティルと向き合う。
なんだろう。ほんの少しだけ気まずかった。
▼
王都の正門から出発した馬車は、勾配の緩い街道をのんびり進む。
途中、森の中からゴブリンやら狼やらの魔物が姿を現したが、同行してる冒険者の方々が無理なく討伐してくれたので、これといった問題を抱えることなく旅は順調だった。
——いや。
ひとつだけ訂正しよう。被害は皆無で穏やかな時間を過ごしてはいるが、その全てが受け入れられるものではなかった。なぜなら、俺たちと馬車を護衛してくれる冒険者の目が、なんていうか……生暖かいのだ。
理由? 簡単だ。王都を出てから始まった俺とティルのやり取りを見ていたのだ。客は俺たちだけだから油断していた。そりゃあ荷台でワーワー騒いでたら彼らにも聞こえる。
おかげでカップルだと誤解されたのか、一定の距離を開けてずっとニコニコ俺らを楽しそうに眺めてくる。
その視線の鬱陶しさといったら……。
「なんだか面倒なことになりましたね! 冒険者の方々の視線が刺さって辛いです」
「そのわりには笑顔だが……実はおまえ、この状況を楽しんでたりしないか?」
「うえっ!? そ、ソンナマサカ……ありえませんよ!」
「目を輝かせながらそう言われても、全然説得力がない……」
ほぼほぼ間違いなくティルは楽しんでいた。さすがの俺も彼女から伝わる好意に気付かないほど鈍感じゃない。メイドの瞳の中に、リリア達と同じ色の感情が窺えた。
しかし、それを正面から受け止めるほどの覚悟はない。今の俺は、あくまでマリウスという皮を被った他人。本来の彼ではないのだ。いくら中身も外見も一致しようと、記憶の有無が全てを否定する。だから手を伸ばせない。彼女たちの気持ちに、いまは答えられない。
そのもどかしさに小さく震え、俺は俺で卑怯な道に逃げる。逸らした視線の先、鬱蒼と生い茂る自然を見ていると、不思議と心が安らいだ。魔物さえ出てこなければ、こういう何もない森の中も散策してみたいところだ。
……いや、俺は騎士団長の息子でそれなりに戦えるらしい。その記憶も曖昧なので自信はないが、そういう経験もこの夏休みの間に体験してみようかな? 悪くない。
俺の旅は続く。
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