第71話 適切なものを、適切なぶんだけ

 電話を切り、医者を部屋に呼んだ。

 彼は息まいた様子の私を見て、面倒くさそうに眉根をひそめた。

 医者の両肩を掴み、顔を近づけた。分厚く醜い肉が、彼の身体を包んでいる。

「六日後だ。どうにか、試合に出られるようにしてくれ」

 彼はとぼけた表情で頷いた。

「試合?」

「そうだ」

「あぁ、ホットドッグの大食いか何か? ま、ピーナツバターばかりよりは健康的でしょう」

「しらばっくれるな。先発登板するんだ」

「無茶言わないでくださいよ。ぼくだって、医者なんです。ここで止めるくらいの良識はありますって。今は恐らく、三球投げるだけで肩が悲鳴を上げるでしょうね。ま、そもそもキャッチャーまで届くかどうか」

「そういうのは、もう少しまともな薬を出してから言え!」

 大きな声を出すことでしか、不安は拭えなかった。

 先発どころか、一球投げて、そのままうずくまりながらマウンドを降りる。必死にそのイメージを振り払った。

「出していますよ。適切なものを、適切なぶんだけね」

「回復する気配すらないじゃないか!」

 肩は毎日同じように痛み、同じように疼いた。いつかのしゃっくりが止まらない男を思い出した。ずっと、か。

「投げられるのは、早くても来シーズンの頭です。それでも、早すぎるくらいだ」

「……今年で引退するんだ。これ以上老醜を晒すことはできないんだよ」

「誰の入れ知恵ですか? あのね、あんたの選手生命はぼくが握ってるの。わかる?」

「わかるさ。お前の意見は、医学的にはきっと正しいことなんだろう」

「正しいんですよ。医学的にも倫理的にも世間的にも。日暮れて道遠しって言うでしょう? あるいは、年よりの冷や水」

「正しくなくてもいいんだ。今しかできないことをしたい」

「そういう青春ごっこはね、二十二年前に済ませておくべきだったんです。まぁ、青春の良さに気付けないことこそが、青春そのものなんでしょうがね」

「頼むよ。一試合だ。痛み止めでもなんでも打ってくれよ」

「痛みは止まるでしょうがね。キャッチボールすら、二度とできなくなっても構わないなら」

 部屋をぐるりと見回した。だぶついた顎が窮屈そうじゃないか。

「別にね、ぼくはあんたがどうなろうと困らない。ま、一晩ゆっくり眠ってみて下さいよ。自分が間違ってたって気付きますから。なんなら、ぼくのいきつけの店のコール・ガールでも呼びましょうか? 溜っているんですよ。そういうときは、よからぬことばかり頭に浮かぶんだ」

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