第63話 こんなことばかりを覚えている

 私も妻の顔を覗き込んだ。

 生きているときとさほど変わらない、青白い顔をしていた。なにやら不機嫌そうに眉をひそめている。官能的な表情にさえ見えた。甘ったるい百合の香りが、頭を鈍くさせた。

 義兄に促され、棺に花を入れた。彼女は花を嫌っていたのを思い出した。

「花が美しい」なんてのは、男のロマンチシズムでしかないのだろうか?

 特に家の中に入れようものなら「虫が入るじゃない!」とヒステリックに喚いたものだ。(誕生日に花束をプレゼントしたときのことだった)

 こんなことばかりを覚えている。


 私は、彼女の額にかかった髪をかきあげてやった。目の下の縫い目が見えた。私の頬に涙が伝った。

 冷たい涙だ。

 涙した私に、親族がぽつりぽつりと励ましの声をかけた。

 ちょっと待ってくれ。違うんだ。これは、彼女の死を悼む涙じゃない。

 そう叫びたかったけどできなかった。

 この傷の感覚しか、私の指先に残っていないのだ。

 そのことが妙に虚しかった。

 こんなことを伝えたところで、私の気は晴れても、誰も得をしないだろうが。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る