08 不安で、不安で、不安で

「なんやえらいカビくさいなあ」


 洋館の廊下を、静かに、確かめるように歩いている。

 みやもとなえとりのりまきさぶろうの三人が、蝋燭をイメージさせるほのかに赤い電灯に照らされながら。


「ここへ来たうちの職員は、合鍵を持ってるぼくが初めてで、所長は仕事以外に誰との付き合いもない人だから掃除する必要がなかったんだろうね。……でも、まあ仮に掃除したくとも、こんな屋敷に一人じゃあ手が行き届かないよね」


 典牧青年は、ははっと笑った。


「せやけど、掃除ロボがあるやろ? この時代、そんな高くないで」


 早苗が買えるかは別として、世間一般的に確かにその通りだ。


「いや、だから、綺麗にする必要がないんだよ」

「はあ、ややわあムサいオッサンは。って、ちゃ、ちゃうで小取、お前のおとんがムサいとかちゃうで。あ、いや、そういってもうたわけやけど、そもそもうち見たことも会ったこともあらへんし」


 早苗が、前に出した両手あたふた動かして、滑らせてしまった口へのいいわけをしている。

 これまでには見られなかった言動であり、美夜子との関係性が良好になりつつあるということだろう。


「気にしないでよ、早苗ちゃん。こんな埃が積もって汚いたままで平気な人なんだから、きっと身なりだってムサ苦しいんだよ」


 美夜子は苦笑した。


「いや、しま所長はかなりオシャレで、スタイルも顔もよくて、女性職員からの人気も高いんだよ。性格は……没頭すると、なんにも見えなくなるところがあるけど」

「ふえ……」


 美夜子は驚きのあまり間抜けな声を出して、きょとんとした顔になってしまった。自分の父親がかっこよくて女性にモテるだなんて、とても信じられなくって。

 幼少の時以来まったく会ったこともないばかりか写真すら見たことなく容姿を知らないのに、モテるはずがないと決めつけるのもなんではあるが。


「この家って、お父さん個人の研究所なんだよね?」


 肉親の容姿の話などちょっと気恥ずかしくて、美夜子は話題を変えた。


「ぼくはそう聞いているよ。一人で研究をしたい時や、集中して論文をまとめたい時のための別宅だって」

「一人暮らしだったのにね」


 本宅にも独りなのに、別に持つ必要があるのか、と思ったのである。


「まあ、そういう気持ちの切り替え方もあると思うよ。もう一つ家を買うまではいかなくとも、部屋を借りる人はいるでしょ?」

「ああ、いわれればそうだね」


 などと会話をしながら歩く三人であるが、一番後ろの早苗がふと周囲を気にするようにきょろきょろ首や視線を回し出す。


「早苗ちゃん、どうかした?」


 典牧青年が気付いて尋ねる。


「どうもこうもないやろ。いつまたあいつから攻撃を受けるか、分からへんのやで。用心しとるだけや」

「だあいじょうぶだってえ、あたしがズバーンとやっつけちゃうからあ」


 美夜子は、公園の井戸端会議で「そうなのよお」とかいっている奥様みたく、笑顔で手首ぱたぱた縦に振っている。

 なんだか妙に落ち着いて、というよりも楽観している様子だ。

 そのことに、早苗も気が付いたのだろう。


「小取、お前なんや様子おかしいで」


 ぽそっ、と指摘したその瞬間に早苗は、美夜子に肩を強く掴まれていた。


「そんなことない! どこが? どこが? ねえ、あたしのどこがおかしいんだよお」


 美夜子は朗らか一転、不機嫌そうな顔になって早苗へと噛み付いたのである。


「なんやワレえ! 酔っとるんか!」


 態度の豹変としつこさとに腹を立て、思わず声を荒らげる早苗であるが、典牧青年に軽く肩を叩かれると、はっと気が付いたように口を閉ざしてしまった。


「変なの」


 激怒から一転おとなしくなった早苗へと、美夜子は容赦なく追撃の言葉を浴びせる。


 早苗と青年の二人は美夜子に気を使ったちょっと気まずそうな顔のまま、美夜子は美夜子でテンション定まらぬちょっと奇妙な状態のまま、蝋燭に似た揺らめく赤い灯りに照らされて廊下を歩き続ける。


「ごめんね、早苗ちゃん」


 不意に、美夜子がぼそりと声を出す。

 それは謝罪の言葉だった。


「なんか……怖くて、気持ちがどうしようもなくなっちゃって……」


 いなくなった早苗を追って来てみたら、そこは自分の父親の屋敷だった。

 早苗の安否を心配する気持ちで一杯だった時はよかったが、いざ合流を果たして無事を確認すると、あと残るは自分の父親のことなのだ。


 父親の手が掛かっているおそらくめかまじょが、この、父親の屋敷にいた。

 それは何故なのか。

 どういうことなのか。

 もっとなにか、秘密がありそうで。

 それはおそらく、自分にも関係がありそうで。

 それが怖くて、不安で。

 不安で、不安で。

 おかしなテンションで、早苗に絡んでしまったのである。


「うちかて悪かった。ごめんな。小取の気持ち、なんとなく分かるんやけど、どこか他人事やったわ」

「ありがとう……」

「礼いわれることやないわ」


 微笑みながら早苗は、右腕を差し出した。


 美夜子はその手を取ると、しっかりと握った。


 ここへと来て美夜子が得たもの、それは怖い、辛い、といった負のものだけではなかった。

 こうして早苗が自分を心配して、手を取り微笑み掛けてくれたのだから。

 ありがとう。

 美夜子はもう一度、今度は胸の中でお礼をいった。


 だが、心は全然強くなってなどいなかった。

 むしろ、ひびの入ったガラス細工の状態であったのだが、現在の美夜子が知る由もなかった。

 美夜子の長い夜。

 すべては、これからだったのである。

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