第16話-2

 西の動きが止まり、小悪党のように飛びあがる。なおも、施錠された扉は大砲でも飛んできたように激しく揺れて、メキメキメキ……とひび割れていく。


 三度目の大砲で、老朽化した扉はぶち破られた。


 大破した扉の亀裂から風の如く乗り込んできた人影は、西が立ち上がるより早く躍りかかり、決して小さくない西の体を人形のように吹き飛ばした。西が机の山に叩きつけられて潰れた悲鳴を漏らす間に、もう彼は夏生の元に駆け付け、悲壮な顔で夏生を覗き込んでいた。


「……かな、め……」


 深く自分を責めているような顔で、要が目を伏せる。そこで西が呻きながら起き上がると、痛ましげだった要の目が、途端に光を消した。


「いってぇぇ……お、王城……? なんでここが……違うんだよ、これは――」


 唸りを上げた鉄拳が、西の鳩尾に食い込んだ。くの字に体を曲げた西が、奇声を上げて要にしがみつくも、要は西の髪の毛を片手で掴むや、勢いよく打ち落として鼻っ面に膝を叩きこんだ。ぐしゃっ、と壮絶な音で西の顔面が潰れる。


「死ね」


 吐き捨てた要の右足が、一切の手加減なく西の顎を蹴り上げた。かち上げられたあと膝から崩れ落ち、白目を剥いて失神した西を雑に蹴飛ばすと、要は自分の夏服を脱いでインナー一枚になり、夏生の体を隠すようにかぶせて、ひざまずいた。


「悪い、夏生……遅くなって。本当に」


 今さら震えが止まらなくなって、言葉の出し方も忘れてしまっていた。ボロボロ泣きながら首を振り通しの夏生にかける言葉を探すも、全く見つからない様子で要は硬直していた。すすり泣く夏生に、やがて、温かい毛布のように優しい声で、包み込むようにたった一言。


「触れてもいいか」


 びっくりしてから、夏生はやがて、かすかに頷いた。

 要は床を滑るように寄ってきて、夏生の頭に手を添え、抱き寄せた。


「……怖くないか」


 確認する要に、夏生は彼に分かるよう、彼の胸に額を押し当てて頷いた。長い間、そうしていた。汚された部分が、要で消毒されていくみたいに感じた。


「ボク……どうして女に生まれたんだろう」


 やがて、嗚咽交じりの震えた声で、やっと絞り出した。


 ピルを飲んでいたのは、月経周期をコントロールするためだ。


 女である夏生には、毎月、生理がやってくる。下腹部の痛み、倦怠感、貧血、ホルモンバランスの乱れによる言葉にできない不安感――病気と区別がつかない苦痛を、人生の何割か、毎月受け続ける。大切な夏の試合が生理と重なるのは、夏生にとって何か月も前から不安の種だった。このストレスや焦燥感、精神の不安定さは、要や爽介たちでもきっと理解してもらえない。唯一、気兼ねなく相談できた相手が紫乃だった。それで紫乃が、教えてくれたのだ。「欧米の女性アスリートは低用量ピルで月経をコントロールする人が多い」と。


 男に生まれていれば楽だったかもしれない、というのは、考えまいとしてもしばしば頭を過ぎることだった。男には男で、夏生の知らない苦労があるに違いない。そう分かっていても、男に混じって野球をしていると、隣の芝生が強烈に青く見える。


 男に生まれていたら、なめられることも、不必要に注目されることも、体づくりに苦労することも、涙を武器にしてしまうことも、消費されることも、押さえつけられることも、レイプされそうになることも……なかったんじゃないか。


「夏生は、男に生まれたかったのか」


 要の問いに、夏生は首をどちらにも振れず、じっと考えた。


「俺は、そうは感じなかった。夏生は自分が女であることにも、誇りを持ってたと思う。『男に勝ちたい』ってのは、そのプライドがなきゃ、持てない夢だから。だから俺は、あの日、お前をかっこいいって思ったんだ。眩しいと思った。それから……守りたいとも思った」


 脈打つ要の体温を、肌で感じる。夏生は泣き腫らした目で彼を見上げた。


「あの時の俺は、腐りきってた。全部失って自暴自棄になって。どんな恩師の言葉でも、どんな仲間の励ましでも、アキラさんの声でも、凍ったみたいに心が動かなかった。そんな俺を、どうして、その日初めて会ったお前だけが溶かせたのか、ずっと不思議だったんだよ」


 それは、夏生も疑問に思っていたことだった。顔つきを見るに、要はその答えを得たらしい。


「勇気を出して俺を野球に誘ってくれた、泣き虫で、弱くて、でも支えたくなる奴で、すげえ能力を持ってて、かっこよくて、眩しくて、自分の夢を語ってくれて、俺にあたらしい夢までくれて――そして、『女の子』だった一条夏生に、あの日、俺は惚れたんだと思う」


 心に決めた相棒の口から紡がれたそれは、まるで愛の告白のように聞こえた。もちろんそんなことはありえないから、脳が致命的なバグを起こして、体がオーバーヒートする。


「俺は女として生まれた、今のお前が好きだ。――それじゃ、駄目か?」


 温水のような感情が、ひび割れた心に満たされていく。傷口に沁みるみたいに、胸が熱い。涙が溢れて喉が詰まる。勘違いでもいい。どんなに尊厳を踏みにじられても、この人ただ一人が、ありのままの、生まれたままの自分を好きだと言ってくれるなら、これ以上何も要らない。


「……もう一回、言って……」


 今だけは、涙を武器にできる自分に感謝した。要は少し声を詰まらせて、もう一度「好きだ」と繰り返した。夏生は耐えかねて、要の胸に顔をうずめた。


「お前はどうなんだ」


 要は逃がしてくれなかった。要がきっと、ついさっき、自分の気持ちを自覚したように。夏生もたった今、自らが抱えていた要への想いの大きさに戸惑っていた。


 初めて出会ったとき。素人でありながら、凄まじい自信と能力で夏生を引っ張る要に、強烈に憧れた。春。本当に要が長野にやってきて、同じクラスになって、一緒に野球ができるようになった。小躍りするほど嬉しかった。くじけそうなとき、潰れそうなとき、いつもそばに要がいた。素晴らしい戦友だった。飽くなき向上心、貪欲に他人から学ぼうとする姿勢、揺るがない心の強さ。人として、誰よりも、要を尊敬していた。


 純粋なリスペクトだったはずだ。その気持ちが、どうしてこんなにも、突然変異してしまったか。要に触れたい。触れてもらいたい。好きだと言ってもらいたい。誰にも、渡したくない。夏生はぱっと顔を上げ、涙をいっぱいに溜めた目で要を見上げた。


「ボクも、好きです……要のことが大好き……!」


 要はなぜか、刃物で刺されたようによろめいて、両手で夏生を抱き寄せた。強い力なのに、全く怖くない。幸せでどうしようもない。夏生は金輪際、自分が女に生まれたことを、呪わないだろうと思った。

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