第16話-1
「――あれ……ない」
翌朝、始業前。いつも机の中に入れているポーチを覗き込んで、夏生が眉根を寄せた。
「なに探してんだ? 薬か?」
「あ、やっぱり気づいてたんだ」と、夏生は妙にバツが悪い顔をした。
「昨日までこのポーチに入れてたのに、中身がなくなってるんだよ。変だなぁ……」
「ストックが切れたとか?」
「ううん、もらったばっかりだもん」
「……やっぱりどっか悪いのか?」
夏生は気まずそうに目をそらす。
「詮索はしないけど。普通に心配だろ。ほら……次の試合、俺たちバッテリー組むんだし」
口に出すだけで妙にくすぐったくなる。二人は今や、正式に認められたバッテリーなのだ。夏生もはにかんで、初めて少しだけ表情が明るくなる。
「そうだよね。病気とかじゃないから! ほんとに! 心配しないで」
始業のベルが鳴り、夏生はそのまま前を向いてしまった。
午前の授業が終わり、昼食時となっても、夏生は落ち着かないままだった。結局薬は見つかっていない。いつもなら一緒にご飯を食べる要は、先生に呼ばれて職員室に行ってしまった。憂鬱な気持ちで弁当の包みを開いたとき、
「一条さん、ちょっといい?」
同じクラスの、西という少年が声をかけてきた。たぶん、今までちゃんと話したことはない。
「うん、どうしたの?」
「聞きたいことがあってさ。ここじゃなんだから」
不思議に思いつつ、夏生は西に連れられて教室を出た。
迷いのない足取りが、廊下の突き当り、教職員にさえ忘れられたような古びた教室の前で止まる。鍵は開いていた。「入って」とうながされ、その場で「なんの話?」と尋ねたが、回答は得られず、半ば強引に教室へ押し込まれた。
「ねえ、ここ入っていいの……?」
薄暗く埃っぽい教室の中を見回して、不安が顔に出始める。この学校は年々生徒数が減っており、使われなくなった空き教室が点在しているが、生徒の入室は当然禁止されていた。
「もう戻らないと、ご飯食べる時間が」
「――これ、一条さんのでしょ?」
夏生の言葉をぶった切り、見慣れたケースを銃口のように突きつけた西の顔は、豹変していた。口角は上がっているのに、目は血走って、全く笑っていない。
それは、夏生の探していた、薬の袋だった。
「これさぁ、『ピル』だよね?」
西の目が、夏生の目、口、胸元、スカートへと、這うように泳ぐ。背筋にただならぬ悪寒が走った。彼が今、どんなことを想像しているのか、考えただけで気持ち悪くて、胃が重たい。
「毎日何飲んでるのか気になって、もしかしたら重い病気なのかもとか心配したのにさぁ。清楚系のフリして超遊んでんじゃん。幻滅したわぁ。王城とやりまくってんでしょ? あ、それとももう野球部は全員食っちゃった感じ?」
ガチャリ、と後ろ手で内鍵をかけた西が、呼吸を少しずつ荒げながら、夏生に一歩詰め寄る。幻滅したと言いながら、いっそ全身で悦んでいるように見えた。彼の手が伸びてくるのに、夏生の体は麻痺したみたいになって、声すら出せない。
「はは、大丈夫だって。このことはまだ俺しか知らないから。誰にも言わないからさ……だからさぁ、いいだろ? ――一回くらい、俺の相手もしてくれたって」
獣のように飛びかかられ、抱きつかれ、叫ぶ間もなく口を乱暴にふさがれる。倒れ込んだ拍子に強く頭を床に打ちつけ、意識が飛びかけた。「叫ぶなよ、慣れてんだろ」と、馬乗りになった西が囁く。痛くて怖くて、暗くて寒い。体験したことのない恐怖が体を縛る。上手く動かない手足で必死に抵抗しても、夏生の力では、運動部の男子に叶わなかった。
「もったいぶんなよ、ヤリマンのくせに……マジ、どうしてくれんの……? ピル見つけてからさぁ、もう毎晩あんたのことしか考えられなくなっちゃったんだけどぉ……!」
両腕を掴まれ、組み伏せられて、肩や肘の関節が悲鳴を上げる。ようやく脳が感情に追いついて、涙が溢れた。その時、初めて声が出た。
「やめて!! 左腕に触らないで!!」
西は異国語を聞いたように首を傾げた。言葉も通じないようだった。
「泣き顔もマジ可愛いなぁ……野球なんてもったいねえよ」
虫唾が走る。見下すな、批評するな。お前の何が、ボクより偉い? どうしてお前なんかが、ボクの人生に口を出せる。近づくな、消えろ、死ね――どれほど屈辱に頭が煮えようと、夏生には西をどうにもできない。なぜ神は、女と男に腕力の差をつくったのか。太古の昔から男が実権を握ったのは、ただ唯一、男の方が、戦が強かったからに過ぎない。
服の上から胸を弄ばれた後、セーラー服のボタンが弾けた。スポーツブラ一枚に包まれた、最近また少しだけ大きくなった二つの膨らみを凝視して、西が息を呑む。この身体は、決して、男を悦ばせるためのものじゃない。野球のために、自分のためにのみある身体だ。
こんな当たり前の権利さえ軽んじられて、声も出ない。悔しい。死にたい。乱暴に肩紐を一つ外されたとき、夏生の心に二度と癒えない亀裂が走った。
轟音を上げ、木製のスライドドアが悲鳴を上げた。
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