第10話-4

 六回表、いきなりツーベースヒットを許したところからリズムが狂った。


 もしかするとあの一年生のピッチングを見せつけられた時点で狂っていたのかもしれないし、そもそもこれが、光葉の現在地だったのかもしれない。


 どんなに厳しいところに投げて虚を突いても、凄まじいスイングスピードで対応される。三連打で二点を失い、焦って頼ったスクリューが僅かに高めに浮いて、痛恨のタイムリースリーベースを献上。その後はどうにか三つのアウトをもぎ取るも、敬遠や不破のエラーもあり、この回だけで五失点。


「すまん一条、ボールが思ったより跳ねなくてよ……」


 長い長い守備を終えてベンチに戻る途中、走り寄ってきた不破が頭を下げてきたのに対し、夏生は恐縮して首を振った。夏生は性格的に、味方のエラーで苛立つタイプではない。だが逆に、どんな失点も自分の責任に感じてしまう。塁とは違う意味で、打たれ弱い性格だ。この回の後半は構えたところからボールがズレることが多かった。あの正確無比なコントロールは、少しの気の乱れでも狂うほど繊細なもののようだった。


 ようやく回ってきた光葉の攻撃は、対照的に短かった。二番から始まる好打順でありながら、選球眼の良い加賀美には力勝負、悪球打ちの不破には全球ボール球で凡打に打ち取り、続く塁には――初球いきなり、おちょくるような超スローカーブ。


「ぶっ……殺す……!」


 頭に血が上った塁は、二球目、外の同じ球に無理やり手を出し、サードライナー。「クソが!」とバットを叩きつける塁を、既にベンチへ歩き出していた二階堂が無感動に一瞥した。


 光葉が誇る強打者たちが、いとも簡単に料理されていく。打者一人一人の弱点を見事に突かれている感覚。試合の中で分析され、対応されているのだ。要はベンチで、爪が食い込むほど拳を握った。これが常勝、桜火の強さなのか――


「……ねぇ、そろそろ代わってあげようか」


 七回の守備につくというとき、マウンドに向かおうとした夏生を、塁が呼び止めた。全員が息を呑んで足を止め、やり取りを見守る。


「どこに投げてもバカスカ打たれて嫌になるでしょ。辛いでしょ。もう僕が投げてあげるよ」


 打席でたまったストレスを投球で晴らそうとでも思ったのだろうか。ボールを奪い取ろうとする塁の手から、夏生はグローブを引っ込めた。


「大丈夫です。確かに辛いし苦しいけど」


 汗まみれの顔で、夏生は花が咲くように笑った。


「すっっっごく、楽しいですから!」


 危うい色をしていた塁の目が、大きく開く。


「打たれて、楽しい……? 馬鹿じゃないの?」


「楽しいです。キャッチャーが打ち取る案を考えてくれる。バックの皆さんが一生懸命守ってくれる。どんなに打たれても盛り立ててくれる。投げていいんだって、皆がここに立たせてくれているんだって思うと、幸せな気持ちになるんです。ボクはまだ、あの打線を抑えられるような投手じゃないけど……一人じゃない限り、いつまでも立っていられます!」


 その小さな体から溢れ出る輝きに、エースがたたらを踏む。


「練習試合なんだから、守備練習のためにももっと打たれまくっていいんだよ。ボールたくさん飛んでくる方が楽しいし」「そうそう、ガンガン打たせろ! エラーしまくってる俺が言うのもあれだけど」「センターに打たせろ! ファインプレー見せてやっから! 熱盛ィッ!」「夏生は俺が守る」―—ナインに囲まれて対応に追われる夏生の困ったような笑顔を、塁は立ち尽くして見つめていた。


 塁を除いて、守備に向かうナインの足取りは、まだ決して重くなかった。試合の三分の二を終えて四対十。序盤のリードは一瞬でひっくり返され、以降開き続ける点差。こちらの守備は一向に終わらず、攻撃は一瞬。とっくに切れていてもおかしくない集中を、辛うじて繋ぎとめているのが夏生の存在だった。


 夏生が登板してから、守備中の声かけが倍増した。単に塁とは守備機会が比べ物にならないというのもあるが、見るからにいっぱいいっぱいの顔をしながら、どれだけ打たれても腐らず、何度もナインに謝って、ひたむきに投げ続ける夏生の姿は、ナインに庇護欲のようなものを掻き立てる。守備陣は、最後まで声を上げて夏生を盛り立てた。


 しかし――


 弾ける快音。面白いように飛んでいく打球の嵐。鳴りやまない相手ベンチの歓声。夏生と要は、一つのアウトも取れずに打たれ続けた。心が折れるまで、徹底的に。


 桜火の一年生投手、二階堂に完璧なタイムリーを打たれ、この回五連打四失点となったところで、佐藤の判断で夏生は降板した。塁にマウンドを譲り、空いたライトに入る。同じタイミングで要も佐藤に捕手位置を明け渡し、ガチガチに緊張している山路に代わって戦線から退いた。


 プロテクターを外し、ベンチに座るまでのことは、ほとんど覚えていない。


 要と夏生で、たった六つのアウトを取るまでに奪われた得点は九。炎上どころの話ではない。こんな屈辱は初めてだった。ハンドボールの試合でも負けることはもちろんあった。だが、要はチームのエース。負ければ要の責任だった。その苦さなら、飲み下せた。


 ――何も……できなかった……!


 要の肩は警戒されて、盗塁を仕掛けないのは勿論リードも相当小さく修正された。肩を封じられた要には、できることが何一つなかった。相手が右でも左でも迷ったらとりあえずインコース。一番有効な武器であるあまり、無意識に多投させるスライダー。自分の配球の引き出しの無さに愕然とした。


 塁はライトの守備位置から、すれ違う夏生に一言もかけず、黙ってマウンドに上がった。うつむき加減の表情は野球帽に隠れて、よく見えない。七回表の攻撃が始まって、もう三十分近く経っていた。スコアは四対一四――そのうえまだノーアウト。塁の気持ちは、とっくに切れてしまっているだろう。


 悪い夢から覚めるような、爆音が弾けた。


 時が止まる。空気が逆流する。佐藤のミットと、塁の投げたボールが衝突した音だった。三番打者が豪快に空振りして、ヘルメットをずり落とす。それをマウンドで見下ろす、姫宮塁の形相は、見る者を委縮させるほどの迫力があった。


「……ムカつくよ、あの一年。弱いくせに、僕にマウンド譲らないなんて」


 ワンアウトランナー二塁となって、打席には主砲、駒場宗親。


 宿敵との最終勝負にも力感なく、エースは桜色の瞳でちらとだけ、ライトの夏生を一瞥すると、ゆっくりと、ダイナミックに振りかぶった。


「でもさぁ――」


 その右腕から放たれた瞬間、白球は竜巻のごとく唸りながら驀進し、佐藤のミットを弾き飛ばした。


「っ!?」


 ボールの遥か下を空振りした主砲の目が狼狽える。あわや後ろに反らしかけた佐藤が、ミットを頭上に掲げたまま球威に押されて尻餅をつく。


「なんか、腹立つから――アイツ泣かすなよ」


 瞳の中で静絶に燃える炎。要は、夏生がライトの守備位置で、今にもうずくまってしまいそうなくらいに泣き続けていることに、要はそこで初めて気づいた。


 浮き上がっていると錯覚するほど威力の籠もったエースの豪速球は、ここまで二本塁打の主砲にかすりもさせなかった。外野でしばらく休んだとはいえ、回復どころか初回より球威が上がっている。四番五番を連続三振に切って取り、エースは無表情でベンチに戻ってきた。それが、塁のこの試合最後の投球になった。


 裏の攻撃で一点も取れず、七回終わって四対十四。強制終了コールドゲームだ。


 練習試合なのだから九回まで続行することも可能だったが、光葉はベンチメンバーを使い切り、エースのスタミナにも不安が残る。実は田中も肩の状態が万全ではなく登板を回避していた。佐藤の方から、相手監督に試合終了を提案した。


 事実上の降伏宣言。どれほど悔しかったか、頭を下げる佐藤の握り拳が物語っていた。

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