樹海の子

「ねぇ、一番近い樹海の出口はどこかなぁ」


 少年は周りの木々に声をかける。その時…ざわざわざわっと四方の木々が揺れた。

(い、今のは…風が吹いただけだよな? 流石に偶然だよな…?)

 男がそう思いながら、周囲の木々の反応に驚いた様子で辺りを見渡していると…少年がこちらを振り返って言う。

「こっち。付いてきて」

 男は今の一連の流れに唖然としていたが、慌てて少年の後を追う。



 二人はしばらくの間、樹海を歩き続ける。どこも似たような景色が続く樹海の中にも関わらず、少年は足を止めることなく、迷わず歩いてゆく。


「うん、もうちょっとで出られるはず」

 少年が辺りの景色を見渡しながらそう言った、ちょうどその時…遥か前方に小さな光が見えた。


「ほら、あそこから外に出られるよ!」

 少年は嬉しそうに言うと、男の手を取り、光に向かって歩いてゆく。男は少年の小さな手の感触から、サウスの街に置いてきた愛息子のことをふと思い出す。

(…ここで死んでいたら、息子にはもう二度と会えなかったのか…。…死ななくてよかった。私の、死にたいという一時いっときの感情を思いとどまらせてくれた、この少年に感謝しないとな)

 男は少年の小さな背中を見て、そんなことを思った。



 二人は樹海を抜けて、外に出る。外は真昼で、太陽が眩しく輝いていた。樹海の中にいる時は常に薄暗かったので、男は外の世界のその光景が信じられない思いだった。


 樹海の外に出たところで、少年がこちらを振り返って言う。

「じゃあね、おじさん。寄り道しないで、早く家族の元に帰ってあげてね」

「ああ…。その、本当に…ありがとう」

 男がそう言うと、少年はにんまりと笑う。

「どういたしまして。あ、もし感謝してくれて…僕に何かお礼がしたいときは、樹海の出口の近くに何か置いといてくれたら取りに行くから、余裕ができたらいつか来てよ。でも、もう樹海の中には入っちゃダメだからね」

 そう言われて、男は頷く。

「ああ、わかった…。あ、そうだ」


 男は持っていたかばんの中をごそごそと漁り、銀紙に包まれた板状のチョコレートを取り出す。

「これで良かったら…今、あげるよ。ここまで案内してくれてありがとう」

 少年はそれを見て目を輝かせる。

「うわぁ! チョコレートだ…! 甘いものなんて久しぶりだよ! ありがとう! おじさん!」

 少年はチョコレートを受け取るとそれを高く掲げ、嬉しさのあまり頬を紅潮させる。

「どういたしまして。息子が好きで、いつもかばんに入れていたんでね…そんなに喜んでくれるのなら持っていて良かったよ。でもこれ一つだけじゃ恩を返したことにはならないだろうし、また礼をしに来るよ。いつか必ず…生活が落ち着いたらね」

「うん。まあ気が向いたらでいいよ。それより、これからは家族と一緒に頑張ってね。じゃあね」


 少年はそう言うと、男の手を離し、軽い足取りで樹海の方に戻ってゆく。男はその小さな背中を見て…思わず呼び止める。

「君は…ずっとここで暮らしていくつもりなのか?」

 少年はぴたりと足を止め、こちらを振り返る。

「…それでいいのか? いつか外に出たいという思いはないのか? 今は…正直私も余裕がないが、もしまたここに来れたら、その時は君のことを、私がなんとか…」

 男の言葉に、少年は首を横に振り、笑みを見せる。

「ううん、おじさんに迷惑かけられないよ。それに、ここにいることが…僕の役目だから。樹海に僕がいないと、みんな道に迷っちゃうでしょ?」

 男はそれを聞いても納得できず…先ほど樹海の中で聞いた、少年の言葉を口にする。

「でも、君さっき…『こんなところに置き去りにされたくなかった』って…」

 少年はそれを聞いて目を見開いた後、苦笑いをする。

「ああ…聞こえてたの。それ、もう昔の話だよ。僕、今はこの樹海が好きだし…この役目にもやりがいだってあるしね」

 少年はそう言うと、樹海を眺める。少年がどこか愛おし気に樹海を見ているように思えた男は、少年のその表情を見てようやく納得したのか…ゆっくりと頷く。

「君がいいなら…それでいい。君の選んだ生き方だからね」

「うん。だから、僕のことは心配しないで」

 少年はそう言うと、男を樹海から離すようにぐいぐいと後ろから押す。

「もう行きなよ。おじさんの気が変わらないうちに」

「はは…私も、もう大丈夫だよ。少年のおかげでね」

 男はそう言って笑う。少年もにっこりと笑みを見せる。

「良かった。じゃあ、今度こそお別れだね。元気でね、おじさん!」

「ああ、色々ありがとう。また…何か持ってここに来るよ。少年も元気でな」

 男はそう言うと、少年に背を向け、歩き出す。


 そうして少し進んだ後、ふと少年の様子が気になった男は、樹海の方を振り返る。すると、目の前には樹海が広がっているだけで…少年の姿はもうどこにもなかった。

(あれ? まだそんなに時間は経ってないはずなのに…)

 少年が忽然こつぜんと姿を消したように見えて、男は驚きのあまり目を見開き…しばらくの間、呆然とした様子で樹海を眺めていた。




 それから長い旅路を経て、南大陸のサウスの街に辿り着いた男は、真っ先に家族の待つ家へと戻った。妻は涙を流し…戻ってきてくれて本当に良かった、と何度もこぼしていた。小さな息子は、パパどこ行ってたのー? としきりに尋ね…男の足にまとわりついて離れなかった。 


 その後、男は家族とともに妻の両親に会いに行き、この度失踪して心配をかけたこと、そしてこれまでの非礼を土下座して詫びた。

 妻の両親は渋い顔をしていたが、愛娘が久方ぶりに帰ってきたことや、初めて見せた孫の可愛さのためか…そして男がつまらないプライドを捨て、初めて歩み寄ったからだろうか…これまでの様々なことを許してくれ、和解することができた。


 そして妻が頼んでくれたこともあって、妻の両親の持つ小さな土地を貸してもらえることになり、男の一家はサウスの街から南にある村に移り住み、農作業を生業なりわいにするようになる(それによって妻の両親には今まで以上に頭が上がらない状態にはなったが、それを素直に認めることで、意地を張っていた頃よりも随分気が楽になったな…と男は思った)。


 農作業は性に合っていたようで、男はこれまでの仕事よりも熱心に、のめり込むように仕事に励んでいった。

 日々の天気によって農作物の出来が左右されたり、育てたものを全て駄目にしてしまったり…度々苦労も味わったが、種の状態から手塩にかけて育てて、美味しい野菜を収穫できた時の喜びはひとしおだった。



 しばらくして、ようやく生活も落ち着いた頃、男は妻に畑を任せ(必ず帰ってくること…という条件付きではあったが、妻は快く引き受けてくれた)、サウスの街の港に停まっていた船に飛び乗り…一人北大陸を目指す。

 行き先はあの時と同じ樹海だったが、男の心模様はあの頃とはまるっきり違っていた。



 男は南大陸から長い時をかけて、北大陸に広がる樹海の入り口になんとか辿り着くと、手塩にかけて育てた農作物のうち、日持ちしそうな芋などを選り分けて入れた麻の袋を…そしてその上には、少年が前に喜んでくれたチョコレートの束を、樹海の入り口の木陰に置く。


(直接会ってあの時の礼を言いたいが…樹海に入ると戻って来られないかもしれないからな)

 男はそう思った後、森の入り口からあの時の少年に呼びかけようとするが、その時、少年の名前を聞いていなかったこと…そして、こちらも名乗っていなかったことに気が付く。

(なんてこった。これじゃあ呼びかけようがないな)

 男はそう思いつつも…少し言葉を考えた後、樹海に向けて大声で呼びかける。

「あの時は道案内ありがとう、少年。こっちは元気でやっているよ。あれから畑仕事に精を出すようになったんだ。うちの畑で採れたものと…君の好きだったチョコレートを置いておくから、食べて欲しい」

(まあ、これでいいか。誰のものかわからなくても、ここに置いておけばじきに少年が取りに来てくれるだろう)

 男はそう思って樹海から離れようとするが、ふと立ち止まって樹海の方を振り返る。

(そういえばあの子、別れ際で姿を消したような気がしたんだよな。もしかして…人間の子供じゃなくて、人間の姿をした森の精霊か何かだったのか…?)

 男は、自分が当時、自ら命を絶つことを望むような異常な精神状態だったことを考えると、何かおかしなものを見たとしても不思議ではないなと考え、苦笑する。

(それか、幽霊でも見たのかな…)

 男はそんなことを思いながら、樹海に背を向け、その場を去ろうとする。


 ガサガサッ。


 後ろから物音がして男はドキリとし、恐る恐る振り返る。そうして目にしたものに、男は衝撃を受け…目を丸くした後、満面の笑みを見せた。







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樹海の子 ほのなえ @honokanaeko

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