3-2
*****
正体不明のご
正直、こんなに長い期間一緒にいることになるなんて、誰が想像できただろう。
取り憑かれて間もない頃は、記憶障害を起こしている彼女に婚約破棄された相手と間違われて、『
彼女に言わせると、僕は
乙女心を養うために恋愛小説を読んでみてはどうかと
だいぶ前に、アリーシャが読んでいるという本を読んでみたことはあるものの、その時は何が
僕の中にいる彼女によると、それこそが乙女心をわかっていない
そして今、僕はなぜだか鏡に向かって
「本当にアリーシャもこんなことをされたいと思っているのですか?」
半信半疑で尋ねれば、彼女はなぜだかとても自信満々に頷いた。その自信はどこからくるんだろうと思いながら、全身が映る鏡に手をついて、彼女の指示のままに小説の一文を口にする。
「【
『……っ』
僕の中にいる彼女が息をのむのがわかった。今のは
「あの……?」
『あ、いえ、ものすごい
「…………これ、本当にアリーシャにも効果があるのですか?」
思わず口を
今度は違うシチュエーションでやってみましょうと言われ振り返ったところで、少し開いたままになっていたドアの
「っっっ! チャーリー!? いつからそこに!?」
(いや、そもそもどこから見られていた!?)
慌てて言い訳を探したけど、いかんせんテンパりすぎて考えがまとまらない。
言い訳が思い浮かばずに身動きできずにいると、チャーリーがゆっくりとした動作でドアを開けて手紙を差し出してきた。
「申し訳ございません。
なんだろう、眼差しがとても生暖かい気がする。これは全部見られていたと思っていいだろう。もはやどんな言い訳をしても
「ジルベルト様。そんなに気負わなくても自然体でいいのですよ」
それだけ言い残して、部屋のドアが閉じられる。
今度こそちゃんとドアが閉まったかを確認してから、ボスンとベッドに
(…………
ごろりと体を転がして
『さすがチャーリーさん。ご年配の方がおっしゃると説得力がありますわね』
「…………はぁ、もう絶対壁ドンなんてやりませんからね」
『あら、残念。効果絶大だと思いましたのに──でも、確かにチャーリーさんの言う通り、ジルベルト様はもっと自然体なアプローチでいいのかもしれませんわね』
僕の中にいる彼女はチャーリーの意見を取り入れて、次なるアプローチの方法をあれやこれやと考え始めている。
方法はともかく、あからさまに協力的になった彼女の様子に
「あの、聞いてもいいですか?」
『なんですか?』
「どうして僕とアリーシャのことを気にかけてくれるのですか?」
『えっと……』
彼女から答えに困っているような空気を感じて、ベッドを起き出して机に移動する。
机の上に手を組んだまま顔を上げて、窓ガラスに映る自分の姿を観察してみる。どこをどう見たって自分にしか見えないのに、なぜだか少し戸惑っているように見えた。
彼女は何度か口をもごもごさせてから、思い切ったように口を開いた。
『────生前の、お話を少ししてもよろしいですか?』
生前の話。彼女からこんな話をしてくるのは初めてだった。
「何か思い出したのですか!?」
忘れていたことを思い出したのかどうか尋ねれば、彼女は『す、少しだけ、ですが』と言葉を
『……わたくし、婚約者がいましたの。わたくしにはもったいないくらいとても素敵な人で……親同士が決めた結婚でしたけど、せっかく結婚するなら相手の方にもわたくしのことを好きになっていただけたらと思っていました』
「…………」
『────でも、ちょっとしたすれ違いからお
「…………それはなんというか……災難でしたね」
『でしょう!? まいってしまいますわよね、こちらは結婚する気満々でしたのに!』
やけに明るい
「…………それで、出会った頃に僕のことを裏切り者と言っていたんですね」
『あはは、その節は本当に申し訳ありませんでした────でも、本当は違いましたの』
明るかった声のトーンが下がった。
『本当はずっとわたくしだけを見てくださっていた。わたくし、それを死んでから知りましたの。だからでしょうか、些細なことですれ違っているあなたたちを見ていたら、生前のわたくしと重なって見えてしまって……あなたたちにはわたくしのように
「それで最近やけにアリーシャとの仲を取り持ってくれるようになったんですか?」
『────もしかして、バレバレでした?』
「バレバレでしたよ。あからさますぎて、何か裏があるのかと
『ふふっ、それは申し訳ないことをしてしまいました』
窓ガラスに映っているのは自分のはずなのに、なぜだか僕には彼女が困った顔をして笑っているように見えた。上がっていた口角が下がり、彼女が口を開いた。
『わたくしと今のあなたたちは違うとちゃんとわかっています。その上で、あなたたちが仲良くなるお手伝いをわたくしにさせてはいただけないでしょうか?』
少し寂しそうな声音になった彼女は、一度口を結んだあと口元に小さな笑みを浮かべた。
その表情に、なぜだかきゅっと胸が
「──でしたら、僕もあなたが
『え?』
僕にそんな提案をされるなんて思っていなかったのか、彼女がポカンと口を開けた。自分の間の抜けた顔を眺めつつ話を続ける。
「別におかしな話じゃないでしょう? あなたが僕たちのことを手伝ってくださるのなら、お返しに何かして差し上げたいと思うのは普通のことだと思うのですが」
『わ、わたくしなんかのためにお時間を使うのであれば、もっとアリーシャとのお時間にあててください』
「僕のアリーシャはそんなに心の
きっぱり断言すると、なぜだか僕の中にいる彼女が買いかぶりすぎだと
「どうしてあなたが謙遜するんですか?」
ジトリとした視線をガラス
僕とアリーシャが仲良くすることが成仏に
それからというもの、僕の中にいる彼女は時折僕には思いもつかないような提案をしてくるようになった。
ある日、きらりと目を輝かせた彼女は『アリーシャをデートにお誘いしてはいかがですか?』と言ってきた。僕が普段からどれだけアリーシャと一緒に出かけたいと思っているか知りもしないで、いとも簡単に言ってくれる。正直、可能であるならもっと
けれど、僕はアリーシャと一緒にいると彼女のことで頭がいっぱいになってしまって気の
記念すべき初めてのデートの日、緊張しすぎた僕は動物園で回る順番を忘れて上手く彼女をエスコートすることができなかった。未だにあの日のことがトラウマになっていて、アリーシャとデートするときは入念に下調べをして計画を立てないと安心できないのだ。
アリーシャの誕生日のように放課後ちょっとお茶しに行くのとはわけが違う。彼女の一日を預かるのだから責任重大である。おいそれと気軽に行けるわけがない。
しかし、仲良くなるためには二人で出かけるのも必要だという彼女の意見は的を射ている。僕は気合を入れて机に向かってペンを
「…………」
まずはどこがいいだろう? メインはオペラかコンサートにするとして、その近辺にあるバラ園も気にはなる。お昼とお茶はどこがいいだろうか。西側のメイン通りにできたお店は女性に人気があると言っていたし、前に行った南通りのカフェはアリーシャが気に入っていた。お昼のあとは公園に行って……。
ぱらぱらと思いつくままに候補を紙の上に書き出していく。タイムスケジュールを組むべく、左側に時間を書き込んでいると、今まで
『それ、細かすぎませんか?』
「え? いつもこんな感じですけど?」
『いつもこんな感じで計画を立てていましたの!?』
「そうですね。あとは計画書の時間通りに動けるかどうかを入念に検証します。アリーシャを誘うのはそれからです」
そう答えると、長いため息が返ってきた。
『……学園中の女子の視線をさらうほどすべてにおいて
「なっ……!?」
『計画を立てることは大事なのかもしれませんけど、完璧を求めて回数が少なくなるより、不完全でもそのぶん数多く楽しんだほうがよくありませんか?』
完璧を求めて回数が少なくなるより、不完全でもそのぶん数多く、か。なるほどと思う反面、失敗した時のことを考えてしまって、なかなか意見に同調することができない。
僕が黙り込んでいると、彼女は『でしたら、ものは
『そうですわねぇ…………あ! 本屋
「本屋巡り!? ちょっと待ってください! デートですよね!?」
『デートでしてよ?』
「アリーシャが読書好きなのは知っていますが、何
思わずツッコミを入れると、彼女は口元に笑みをたたえたままで『
『アリーシャですから何ら問題ありませんわ。きっとすぐに色よい返事がもらえると思います』
「だから、どうしてそんなに自信満々なんですか! 誘うのは僕なんですよ!?」
『ぜったい、ぜーったい大丈夫ですって。明日お誘いしてみてください』
やけに自信満々な彼女の様子に
なんだか早まったかもしれない。
そんなことを考えながら
半信半疑のままアリーシャを本屋巡りに誘ってみると、僕の中にいる彼女の言う通り、アリーシャは二つ返事で僕の提案を受け入れてくれた。
*****
読書が好きなのは知っていたけど、一日に何軒も本屋をはしごするなんて、さすがのアリーシャでも飽きてしまうのではないかと、出かけるまでは不安で仕方がなかった。けど、アリーシャの顔を見たらすぐに杞憂だとわかった。
アリーシャは本棚を前に目をキラキラさせて、僕の手を思わず引いた。引いてから、はっと我に返ってはしたないことをしてしまったという感じでそっと手をひっこめた。
はにかむように笑った顔に目が釘付けになる。
(ああ、僕のアリーシャがめちゃくちゃ可愛い……!)
本棚を前に背表紙を指で追う彼女に見とれていると、先日乙女心を勉強するために読んだ教本──もとい恋愛小説のタイトルが目に入った。
何冊か置いてあるのを見るに、結構売れているようだ。どうやら二巻も出ているらしいと続刊を手に取ってみると、それに気づいたアリーシャが「それ」と声をかけてきた。
「ジル様も読んでいらっしゃるのですか?」
「え? ええ。まだ一巻の
「まぁ! 一巻のどのあたりまで読みました!?」
「ええと、主人公が家を追い出されて
「ああ、あのあたりですね!
アリーシャがやってしまったとばかりに自分の口元を押さえた。
普段学園では見られない彼女の一面が見れたのが嬉しくて、もっと彼女と話したいと話を続ける。
「アリーシャは最近どんな本を読むのですか?」
「そうですわねぇ……」
アリーシャは一度僕から視線をそらして本棚に向けると、何冊か背表紙を指さして本のタイトルを教えてくれた。恋愛小説だけでなく、伝記ものや
今日の行き先はざっくりと本屋と決まっているため、開演時間が決まっている演劇やコンサートと違って時間に
さすがに歩き回るのは疲れるので、調べてきたカフェで
先日のパンケーキを食べさせあったのが忘れられず、今日もできないかとメニュー表に視線を落とした。女性に人気のお店だけあってケーキの種類が多い。
どれを選ぶのが正解なのか悩みに悩んだ末、僕はアリーシャにどれを頼むか尋ねた後、他に気になっているものを教えてもらい、それを頼むことにした。彼女に僕のを食べてみたいと思わせないとこの作戦は成功しないのだから、多少
なんとなく僕の中にいる彼女から
ケーキを食べ終えたアリーシャは、ティーカップに角砂糖を入れてかき混ぜながら思い出したように口を開いた。
「そういえば、最近不思議な夢を見ますの」
「不思議な夢、ですか?」
「見たこともない部屋で手紙を書いていたり、苦手なはずの数学の問題が簡単に解けたり、ジル様とデー……」
言いかけて慌てて言葉を切る。
「僕とデー?」
「デー、デー、デ……デザートを食べる夢だったり」
手紙を書いたり、数学の問題を解いたり、デザートを食べる夢……どのあたりが不思議な夢なんだろうと思っていると、アリーシャは補足するようにどの夢にも【僕】が出てくることを付け加えた。
「不思議なことに、どの夢でもジル様の声はするのに近くにお姿は見えなくて……」
「確かに不思議な夢ですね……でも、あなたが僕のことを夢に見てくれるのは嬉しいです」
「そ、そうですか?」
話していて
もったいない。その恥ずかしがってる顔がもっと見たいのに。
こういう時、思いきって彼女の
そんなことを考えていると知られたら引かれてしまいそうだとこっそり
こうして、最初こそ心配しかなかったデートは無事成功に終わった。
「ジル様、今日はとってもとーっても楽しかったです!」
別れ際、アリーシャは弾けるような笑顔で「またお誘いいただけたら嬉しいです」と言ってくれた。いつもは社交辞令だと思っていた言葉を、今日は不思議とすんなり受け取ることができた。
アリーシャをメイベル家の屋敷まで送り届けた後、僕は一人になった馬車の中で、デートの間ずっと黙っていてくれた僕の中にいる彼女に話しかけた。
「──今日はありがとうございました……あなたのおかげで時間に
僕の言葉に反応して口元が
『楽しそうで何よりでしたわ……ふふっ、共通の話題があると話が盛り上がるものでしょう? 幸いなことにわたくしあの子が好きな本は熟知していますから、よければ本選びにお付き合いできますわよ』
なるほど、共通の話題か。確かに今までの僕はアリーシャの話を聞くばかりで、あまり自分から話を広げようとはしてこなかった気がする。彼女の言うことも一理あるかもしれないと思った僕は、助言に従って、屋敷に帰る前にもう一軒だけ本屋に寄っていくことにした。
アリーシャとの会話を思い返しながら恋愛小説コーナーまでやってきた僕は、彼女が話していたお勧めの本を探してみることにした。
『何をお探しですか?』
周囲に誰もいないせいか、彼女が話しかけてきた。
「アリーシャに勧められた本を買おうと思いまして」
本棚を眺めながら小声で答える。
背表紙を指で追いながら、ほどなくして見つかった本を手に取ると、またしても口が勝手に動いた。
『う……そちらの本ですか?』
「そうですけど、どうかしましたか?」
『ええと……その、できたら別の本にされたほうがいいかと……』
「どうして?」
『えっとですね、詳しくは言いませんけど結末がちょっと……』
結末の後味の悪さを理由に読まないほうがいいと言われたけど、それでもアリーシャに勧められたものだからと
好きな作家さんの新刊だから期待していましたのに、と肩を落とすアリーシャの言葉に引っかかりを覚えた。
──好きな作家さんの新刊だから期待していましたのに──
今月出版されたばかりだというのに、なぜ僕の中にいる彼女はこの小説の結末を知っていたんだろう。
いや、それだけじゃない。
何より、どうしてこんなにもアリーシャのことに詳しいのだろう。しゃべり方も、不思議とアリーシャと被ることが多いのが今になって気になった。
忘れたと言って
あなたは、一体……?
なぜだか聞いてはいけないことのような気がして、僕は喉元まで出かかった言葉を
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