3章 アリーシャの誕生日
3-1
それから二か月ほど
この
この日は、町で買い物がしたいというジル様にくっついて小さな雑貨屋に来ていた。
ジル様は雑貨屋の店内をぐるりと見て回ると、今度はアクセサリー店に立ち寄った。
周囲に
「女性って、どんなものを
『…………はい?』
何の
(ん? 女性が贈られたら嬉しいもの?)
きょとんとしてしまったわたくしの反応に、説明が足りなかったと思ったのかジル様が
「アリーシャの誕生日プレゼントなんですけど……」
『アリーシャの、誕生日プレゼント……』
意外な内容に思わずジル様の言葉を
言われてみれば、もうすぐわたくしの誕生日がきますわね。
ジル様は学園卒業という節目の年に何を贈るかを決めかねているという。何を贈ったら喜んでもらえるだろうと
贈られる相手が過去の自分ということもあって、多少なりとも力になれる自信があった。要は自分がもらって嬉しいと思うものを教えればいいのだもの。
ほしいもの。ジル様からもらって嬉しいもの──自分が喜びそうなものを
ほしいものはいろいろあった気がするけれど、プレゼントでもらいたいというほどのものではなくて、これといったものが思い浮かばない。
急に聞かれると、ほしいものって案外思い浮かばないものですわね。
何か参考にできるものはないかと、今までジル様からいただいたプレゼントはどうだったかしらと
ジル様がどんなふうにプレゼントを選んでくれたのかを見てみたくて、わたくしはジル様に任せてみることにした。
『ジルベルト様が選んだものでしたら、どんなものでも喜んでもらえると思いますわ』
自信をもって好きに選んでくださいと伝えると、ジル様は店内をぐるりと見回したあと、大きなハート形をした髪飾りを手に取った。
(それ!? よりにもよって、それですの!?)
「これくらい大きなハートなら、僕の気持ちも伝わるでしょうか?」
『…………』
ジル様ははにかむように口元を
(…………これ、主張が強すぎてお洋服に合わせるのが大変そうですわね)
もらったからにはちゃんとつけたいので、できればもう少し
参考までに今までどうやって選んでいたのかを尋ねると、店員さんから人気の商品を
せっかくジル様が選んでくださったのに、別のものを選び直したほうがいいとは言い出しにくい。これはもうアリーシャに髪飾りに合うお洋服を探してもらうしかないだろう。
そんなことを思っていると、ジル様の視線が別の髪飾りに
四つ葉のクローバーとジル様の
(──これ、前にジル様からいただいたものですわ)
ジル様は手にしていたハートの髪飾りを置いて、四つ葉のクローバーの髪飾りをすくい上げると、店員さんに声をかけて代金を
以前わたくしがもらった髪飾りも、こうやってジル様が選んでくださったのかしら?
先ほどのジル様と同じように真剣にプレゼント選びをしていたかもしれない当時のジル様を想像して、わたくしはくすりと口元を
昔の思い出をそっと胸にしまって大通りを歩いていけば、わたくしが生前よく通っていた本屋さんが目に入った。
店の中に一歩足を
(懐かしい……)
ジル様に
『ああ! 前に買い
大量の本を前にわくわくが止まらない。ジル様がふっと笑った。
「どれがいいですか?」
『え?』
「相談にのっていただいたお礼に一冊プレゼントさせてください」
『よろしいのですか!?』
「ええ。あなたのおかげで僕もいいものが買えましたし、そのお礼です」
『えっと、えっと……』
どれにしましょう……。買い損ねた本にするか、前に読んでいた本の続刊にするか……
「あなたは、どんな本が好きなんですか?」
『えっと、そうですわね……いろいろ好きですけど、恋愛小説ですと……一番下の左から二番目の【ななつのお願い】とか、上から三段目にある【
一番好きな本は──。
わたくしはジル様に二つ先の本棚に移動してもらって、その視界から目的の本を探した。
『……下から三段目の右から五番目の本』
「【アーティアス聖戦】?」
『ジル様。わたくし、この本がいいです』
ずいぶん前に刊行されたその本は、買われずに長いことそこにあったせいか背表紙が少し
わたくしは少し色褪せてしまった本を見つめて小さく
『わたくしの一番好きな本なんです』
久しぶりに読みたいと思っていたし、それに何よりジル様と
お気に入りの本を買ってもらって
(そういえば、どうして四つ葉のクローバーに変えたのかしら?)
あんなに気に入っていたハート形の髪飾りを手放した理由を、今聞いたら教えてくれるでしょうかと、ドキドキしながらジル様に声をかけてみる。
『あの、一つ聞いてもよろしいですか?』
「なんです?」
『どうしてそれをお選びになりましたの?』
ジル様は
「僕にとってはアリーシャとの大事な思い出、だから……かな」
『アリーシャとの、思い出……ですか』
そういえば、アリーシャの手紙が保管されていた引き出しの中に
けれど、わたくしにはどうしても自分と四つ葉のクローバーを結びつけられずにいた。
一体いつ、どこで?
子どもの頃ならいざ知らず、ジル様と出会った頃はすでに野原でクローバーを探すような
「思い出とはいっても、彼女は忘れていますからこれは僕の自己満足ですね」
『忘れてる……?』
「もうずっと昔のことですし、アリーシャが覚えていなくても仕方がないんです。思い出すきっかけになってくれたらと思うあたり、ちょっと
『ちょ、ちょっと待ってください!』
「ん?」
『そ、そのお話、くわしく聞かせていただけませんか!?』
このままだと話が終わってしまうと思って、わたくしは慌ててジル様を引き留めた。
なんとしても
ジル様から小さく笑うような気配が伝わってくる。
「そんな大層な話じゃありませんよ?」
『それでもいいです! 聞かせてください!』
わたくしが重ねてお願いすると、ジル様はプレゼントをしまった引き出しとは別の引き出しを開けて、中から四つ葉のクローバーのペーパーウェイトを取り出した。樹脂でできた小さなそれを夕日にかざしたジル様は、昔を懐かしむように話しだした。
「あれは僕が七歳の頃、母に連れられてレイ家のお茶会に行ったときのことです。母たちと座っているのに
『七歳……』
そういえば、確かわたくしもお母様に連れられて何度かどこかのお
お茶会に飽きてしまうと、お母様たちから中庭で遊んでおいでと言われて、人様のお屋敷の庭で当時友人たちの間で
どうやらジル様はそんな折に幼いわたくしと出会ったようだ。
思い返してみれば、確かに一緒に花冠を作ってくれた男の子がいたような気がする。
(もしかして、それがジル様でしたの……?)
わたくしはジル様のお話からさらにヒントを得ようと耳を
「上手くできないと泣いている彼女の姿が妹に重なって、なんだか放っておけなくて一緒に作ることになったんです。アリーシャは何度も失敗しながらも最後まで
『…………』
「その頃に比べたら、ずいぶん器用になったと思いませんか?」
ジル様はペーパーウェイトを引き出しの中に戻して、今度はその
『そんなに前から、ずっと……?』
思いもよらなかった昔話に声が
信じられない思いで尋ねれば、ジル様は目を閉じて小さく頷いた。その
「ええ、あの頃からずっと想い続けてきました。学園に入ってアリーシャと再会した時、彼女が僕のことを覚えていなかったのはショックでしたが、彼女は変わらずに努力家で
『で……では、わたく……アリーシャとは政略
「そうですよ。もちろん、親を
当時のことを話すジル様は楽しそうだ。けれど、わたくしはその真実を知って
(わたくし、ずっとジル様との結婚は家同士が決めたことだと思っていましたわ……)
『どうして、それをあの子に伝えてあげませんの? あの子はあなたとの結婚を家同士が決めたものだと思っていますのよ』
「…………何度か伝えようとしました。でも、昔の話をしてアリーシャが思い出してくれなかったらと思ったら、
『それは……』
「婚約してから仲を深めていけばいいと思っていたけど、アリーシャが僕を好意的に見てくれるのは僕が婚約者だからで──僕はずっとアリーシャを好きだったけど、彼女はそうじゃない。それがわかるからこそ、時々お
『そんな! わたくし引いたりなんかしませんわ!』
ジル様が言い終わる前に反論する。びっくりするとは思うけど、絶対に引いたりしないって断言できる。
「あなたが引かないからといって、アリーシャが引かない確証はないじゃないですか」
言い返されてぐっと押し黙る。
確証ならある。だって、アリーシャはわたくしだもの。
けれど、ジル様はわたくしがアリーシャだということを知らない。そんなわたくしが断言したところで信じてもらえるはずがない。
なにか……何かないかしら。何かアリーシャの気持ちを伝える方法は──。
ふとジル様の手の中にあるハンカチの刺繡に目が行った。少し
『────その刺繡……』
「刺繡?」
『ナズナとブルースターというお花なんです』
「ナズナとブルースター……?」
『花言葉は【あなたにわたくしのすべてを捧げます】それから【幸福な愛】、【信じ合う心】──アリーシャはたしかにあなたとの結婚は家同士が決めたものだと思っています。けれど、結婚をきっかけに愛し合えるような
「そうだといいのですが……」
『このわたくしが言うのですから間違いありませんわ!』
力強く断言すれば、ジル様がくすりと笑った。
「あなたのその自信はどこから来るんですか」
『だってそれは……!』
わたくしがアリーシャだから──そう言いそうになって慌てて口を閉じた。危ない危ない。まだジル様に正体を知られるわけにはいきませんもの。
「それは?」と首を
そのあと、ジル様は学園で再会してからのわたくしとの思い出を話してくれた。
わたくしも覚えているものからすでに忘れてしまった
この時間に戻ってきてからずっと
ジル様は間違いなくコーデリア様と浮気なんてしていなかった。
…………では、なぜ? どうしてわたくしはジル様から
*****
ジル様がクローバーの髪飾りを買って一週間。とうとうアリーシャの誕生日がやってきた。といっても、平日なので
ジル様はいつも通り制服に
今日は放課後に町に出てパンケーキを食べに行く約束をしている。
ジル様的には
そんなジル様ですが、一見
いつも以上にアリーシャのことを
こんなに可愛らしい人だったなんて、前は全然気がつきませんでしたわ。
わたくしはそんなジル様の様子を
放課後。
ジル様とアリーシャは真新しいカフェにやってきた。最近できたばかりだというカフェは、クラスの女の子たちの間で話題になっていて、ファンシーな感じにまとめられた店内は明るくて可愛らしい印象を受けた。
「可愛らしいお店ですね」
テーブルを
できたばかりのお店だから心配していたけれど
気に入ってもらえてよかったと胸をなでおろしながら、向かいに座るアリーシャの様子をうかがってみる。彼女は店内の観察を終えると、テーブルの上に置かれたメニュー表に視線を落とした。ジル様はテーブルに
ジル様、どれだけアリーシャが好きなのかしら。
というか、わたくしもわたくしですわ。こんなに熱い視線を送られておきながら、なぜ全く気がつかないのかしら。
こうして第三者側に回ると周りの
ジル様が一向に下を向いてくれないせいで手元にあるメニュー表が見えず、仕方なくアリーシャが見ているものを反対側から
ふと、ジル様がアリーシャに尋ねた。
「アリーシャは何にします?」
「え? ええと、そうですわね……どれも
メニュー表の
彼女が選んだのはわたくしが一番食べたいものだった。好みが一緒だから選ぶものも
「ジル様は?」と聞き返されて、ジル様の視線が手元のメニュー表に落ちる。ドリンクのラインナップを一通り見た後、ジル様が「僕はコーヒーだけで」と答えたのを聞いて耳を疑った。
(コーヒーだけ!? せっかくこんなに可愛らしいお店に来たのに、コーヒーだけとかどんな
パンケーキが食べたい一心で
『──コーヒーだけと思いましたが、やっぱりこのスフレ
「まぁ! ジル様もやっぱり気になりました!?」
わたくしが二番目に気になったスフレ生地のパンケーキを頼もうとしているのを知って、アリーシャは胸の前で手を合わせて興奮気味に声を上げた。
スフレ生地に食いつくとは、さすがはわたくし。
アリーシャのキラキラした
そうして運ばれてきたパンケーキはどちらもなかなかのインパクトだった。
色とりどりのベリーがたくさんのったアリーシャのパンケーキは、四段に重ねられた
「んー! 美味しいですね、ジル様!」
一口食べたアリーシャが
一方のジル様も厚めのスフレ生地のパンケーキが二枚重なったものをナイフで切り分けて口元に運んだ。口に入れた瞬間、シュワッと
(んー! 味は薄いけど十分美味しいですわ!)
久しぶりのパンケーキの味に幸せを
何かしら? と思って視線を追ってみれば、彼女の視線はジル様の食べているパンケーキに注がれていた。それだけでわたくしには彼女がどうしたいのかわかってしまった。
アリーシャの前で勝手にしゃべらないでほしいとは言われているけど、ほんの少し彼女の気持ちを代弁するだけと思って口を開く。
『アリーシャ、食べたいのですか?』
ジル様の口を借りてアリーシャの言いたいことを代弁すると、彼女ははしたないと思ったのか顔を真っ赤に染めて首を左右に振った。
(ふふ、図星ですか。そうですか、食べたいですか。というかですね、アリーシャ。わたくしもあなたの食べているパンケーキが食べたいのですが)
どうしたら食べさせてくれるかしらと次なる言葉を
『僕もアリーシャのを食べてみたいのですが、一口
「なっ!?」
「ふぇっ!?」
ジル様とアリーシャが全く同じ反応をして固まった。ジル様はそこで反応してはダメでしょう。
今だけは
『すみません。あなたがあまりにも美味しそうに食べているものだから……いえ、ダメなら仕方な──』
「ダメじゃないです! わわ、わたくしもジル様のものを食べてみたかったので、よろしければ交換していただけると嬉しいですわ!」
ダメ元での発言にいい返事をしてくれるかどうかは五分五分でしたが、なんとかいい返事を引き出すことに成功したようだ。
(やりましたわ! ジル様、あとは
「では、わたくしから……ジル様、どうぞ」
耳まで赤く染めたアリーシャがパンケーキの
「い、いただきます……」
やや緊張気味にジル様が口を開くと、アリーシャが座っていた
ほのかなベリー風味くらいしかわからなかったけど、それでも一口なのが
わたくしが嚙みしめるように味わっていると、ジル様がアリーシャに食べさせるためのパンケーキを切りにかかった。それを同じようにアリーシャの口に運んであげると、彼女は目を
「んっ! やっぱりこちらも美味しいです! 一口なのが惜しいくらいですわ」
「でしたら、もう一口どうぞ」
「わ、わたくし、そんなつもりじゃ──」
ねだるつもりじゃなかったと顔を真っ赤に染めてわたわたするアリーシャに、ジル様がもう一口分切り分けたパンケーキを差し出す。引っ込みがつかなくなったアリーシャがもう一口食べて、ジル様とはにかむように笑いあう。
ああ、なんて素敵な日……。
わたくしも一歩踏み出していたら、ジル様とこんな未来があったのかしら?
少しだけ切なく
楽しい時間はあっという間に過ぎて、わたくしたちを乗せた馬車はメイベル家のお屋敷に
ジル様が先に外に出て、中にいるアリーシャに向かって手を
「キャッ!」
「アリーシャ!」
ジル様が重ねたままになっていたアリーシャの手をとっさに
どちらからともなく
「す、すみません!」
「いえ、こちらこそ……
「はい、ジル様が抱きとめてくださったおかげでなんともありませんでしたわ」
くるりとターンして怪我がないことをアピールするアリーシャに、ジル様の頰が緩む。
「よかった────あ、そうだ。
はっとなったジル様が一度馬車の中に入っていき、小さな箱を手に戻ってくる。
手のひらに収まるくらいの小さな箱は、アリーシャに今日渡すはずだった誕生日プレゼントだった。
「改めて、誕生日おめでとうございます。アリーシャ」
「わぁ! ありがとうございます! ────開けてみてもいいですか?」
「どうぞ。気に入っていただけるといいのですが……」
ジル様が緊張しているのが伝わってくる。
リボンがほどかれ、小箱の
「とっても素敵です! 大切にしますね! せっかくですから今つけてもいいですか?」
「僕がつけますよ────うん、よく似合ってます」
「ふふっ、ありがとうございます」
ジル様につけてもらった髪飾りをそっと指で触れて、アリーシャがはにかむように笑いかけてくる。
生前のわたくしもおそらく目の前のアリーシャと全く同じ反応をしたはずだ。
やはり四つ葉のクローバーの思い出話に触れられることはない。
それはつまり、目の前のアリーシャも幼い頃のことを思い出さなかったということを意味していた。
気づかれない程度にジル様の
わたくしが何かきっかけを作ってあげられたらよかったのだが、先日ジル様から思い出話を聞いてもぼんやりとしか思い出せなかった。きっと少しヒントを出したくらいでは思い出すことは不可能だろうと思い、あえて何も言わずに二人を見守るだけにとどめた。
アリーシャと別れた後の馬車の中はとても静かだった。
馬車の小窓に映るジル様の顔はどこか
アリーシャが覚えていない分、代わりにわたくしが覚えているから……だからジル様、そんなにがっかりしないで。
ねぇ、ジル様。ずっと気づかなくてごめんなさい。
浮気してるなんて疑ってごめんなさい。
わたくし、こんなにあなたから
たくさんの言葉が浮かんでは消えていく。
こんなに想ってくださる方と結婚できていたらどんな未来になっていただろう。
時を
過ぎ去ったあの日、どうして婚約破棄を言い渡されたのかは
けれど、もし婚約破棄されなかったら──?
わたくしはその先の未来を見てみたいと思ってしまった。
この日、わたくしは二人が別れる未来ではなく、婚約破棄されない未来を
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