疾走

 ホームから飛び降りて逃げ込んだ暗い林の中、チカチカと視界の先に小さな光点が三回またたいた。

 そして、それよりすこし長い点滅も三回。

 世界で一番簡潔な「助けて」のしるし。SOSのモールス信号だ。

 

 フォンファ!

 

 あの光の先にはフォンファがいる。

 それだけで私はとても嬉しかった。信じられないほどほっとした。

 あそこに行けば私の『安全』がある。

 銃をビニール袋に戻し、線路を横切り、フェンスの隙間から林に駈け込んでいく。

 走る私。そこに少しずつ近づいてくる灯り。

 そしてそれは、懐中電灯を手に持った小太りの中年女の姿になった。


「フォンファ!」

「ちゃんとできたみたいだね」

「ええ。恐怖には飛び込んでいけ。貴方の言うとおりにした」


 まだ震えている私の指先を、フォンファがマッサージしてくれる。


「上出来だ」


 薄闇の中、フォンファが笑った気配がした。


「さて、ここからは少しルートが変わる。ナビをダミアヌスに頼んだもんでね」

「ダミアヌス……イカ屋さん?」

「違う。エビ屋」

「あ、ごめんなさい。でも、いいの? 『なんでも屋』はたどりつけた人間にしか手を貸さないってあなたは言ってたけど」

「今回はあたしが頼んだからいいのさ。それに、あれをあしらうのに慣れてるのはダミアヌスだ。正直言うとね……私もあれを相手にするのは初めてなんだよ。暁財団なんて化物はね」


 フォンファが私の手を取って歩き出した。

 カサ、カサと足元では積もった枯葉を踏みしだく音。

 なんだか、全てが悪い夢だったような気がする。

 こうやって普通に、怯えることもなく歩いていると。


「暁財団、あんたも聞いたことはないかい?」

「あるけど……私の知ってる暁財団とあなたのいう暁財団は別物だと思うけど……」

「なんでだい」

「だって、私の知ってる暁財団は悪い団体じゃないから。私も何度か、財団の募金箱に募金したこともあるし……」


 私の知っている暁財団は、アフリカの子供から国内の恵まれない人まで、多岐に渡る活動をしてる慈善団体だ。大学時代、財団の奨学金が取れたと喜んでいた人を見たこともある。あまりそういうことに興味のない私でも財団のマークがわかるくらい、街中には財団が施設に寄付した車両が走っていたり、子どもたちが募金箱を抱えて立っていたりする。

 そんな立派な団体が、こんなわけのわからない、だけど悪意に満ちたことを始めたりするだろうか? するわけがない。

 けれどフォンファは、間違い探しの間違いを見つけたときみたいに、にやりと笑った。


「いいや、その暁財団だよ。あいつらは悪魔さ」


 なんでもないことのように言われ、私の頭は混乱をきたす。

 慈善団体。有名。慈善というのは優しいということ。でも私を追う鬼。あの宮野でさえも沈黙するくらいの組織。

 いくら考えても、なに一つ意味が繋がらない。


「あんたみたいな顔をした人間は何人も見てきたよ。足元がグラグラする気がして堪らないんだろう?だがね、常識なんて砂糖菓子さ。脆い上にすぐに砕ける」

「じゃあ、どうしてそんな団体が私を……?」

「さあね。ただあんたは選ばれちまった。あいつらの鬼ごっこの標的に」


 フォンファが、ぐい、と私の手を引く。


「ほら、足を速めるんだ。ダミアヌスの車までついたらもっと詳しくあいつらの本性を話してやるから」


 半分駆け足になりながら、私の頭の中で知りたい気持ちと知りたくない気持ちがぐるぐると廻る。

 これ以上知って、私はどこまでいけばいいんだろう?

 そのとき、私の動きを手で制し、し、とフォンファが唇に指を当てた。


「枝の折れる音がした。誰かがいる、ここに」


 ここまで読まれてたのか……そう、聞こえないくらい小さな声でつぶやいて、フォンファは肩に下げていた、おばさんらしい地味なトートバッグから、私のものとは比べ物にないほど大きい銃を取り出した。

 その光景は、顔も体型も服装も平凡な中年女のフォンファからしたらとてもアンバランスで、だからこそ、奇妙なリアルさがあった。


「念のため武器を持ってきてよかったよ」

「でも、ここ、真っ暗で……!」

「暗視スコープがついてる。これくらいの暗闇、なんでもない。

 安心しな。これさえありゃ、あんたをちゃんとダミアヌスの所まで送ってやれる」


 フォンファがそうかすかに笑ったとき、林が発光した。

 ……ううん、これはいくつものサーチライトの光だ!

 暗がりに隠れる私たちをあぶり出すように、いくつものそれはゆっくりと旋回していた。


「出てくるんだよ、フォンファ、井原キカ!」


 拡声器を通しているらしいその声は、まだ若い女のものだった。


「フォンファ! あたしたちとあんたには不可侵の条約がある。その女を渡せばあんたには危害は加えない!」


 その声の方を暗視スコープでじっと見ていたフォンファが、かすかに歯噛みする。


「中垣ノゾミ……あのキチガイ女まで乗り出してきたのか……」

「大丈夫?」

「あたしは『なんでも屋』だよ。売ると約束したものは必ず売る。それもできなきゃあたしになんの価値がある」


 そして、フォンファが当たり前のように、声のする方へ銃の引き金を引いた。警告も何もなく。

 映画なんかで聞いていたのよりかは幾分軽いタタタンという音。そして、闇の中に光る銃口の火花。


「どうだい! 何人かには当たったかい! こいつはあたしの客だ。不可侵を守るならこいつにも手を出すんじゃないよ!」

「こちらにも事情があってね! 井原はもうあたしたちの客なのさ! ノゾミさんが「そう」決めたから「そう」なんだよ!」


 そして、声のする方向から、タン、タン、タンとパソコンのエンターキーを押すような規則正しい音が聞こえた。


「伏せな! ライフルでこっちに狙いをつけてやがる!」


 フォンファが私の体をぐいと引き倒した。

 そのときツンと鼻についた、こどもの頃にした花火のようなにおい。

 え、いま、私たち、撃たれてるの?


「呆けた顔をするんじゃないよ!」


 フォンファの手が私の頬を強く打つ。


「だって、だって、こんなの……!」


 おかしい。信じられない。フォンファについていけば安全じゃなかったの? なんでみんな普通に銃なんて持ってるの?

 変、変、こんなの絶対、変……。

 いくら覚悟を決めたつもりでも、突然の銃撃戦に頭がついて行けない。だってそんなもの、今まではモニターの向こう側にしかなかった。それがこんなリアルに。

 嘘でしょ?


「言ったろ! あたしらが相手にしてる暁財団は化物だって! いいか! このまままっすぐ走れ! 林を抜ければダミアヌスがいる! あたしの指示はここまでだ! あとはダミアヌスに従いな!」

「でも、フォンファ、あなたは?!」

「聞いてなかったのかい? 相手の欲しいものを売れないあたしに価値はない。あたしはあんたに絶対に『自由』を売りつけてやる!」


 その合間にも、タンタン、という音。それは少しずつ近づいてくる。


「いいか、体を下げて、できるだけ静かに、でも早く行くんだ。大丈夫。あんたならできる。その間はあたしが囮になってあいつらを引きつけといてやるよ」

「でも……!」


 それじゃ、あなたが危ない。そう言おうとしたとき、私はまたフォンファに頬を打たれた。


「生きたいか、死にたいかどっちなんだ!」

「生きたいに決まってる!」

「そうだ、そうだろう? なら走れ。ほら、早く行け! いざってときのために、銃を袋から出しておくのを忘れるんじゃないよ!」


 フォンファのてのひらが、私の体を押すようにぐっと背に触れる。


「約束だ。走り始めたら振り向くんじゃないよ。絶対に」


 フォンファが言う。それは、妙に静かな声だった。

 私は、フォンファの言いたいことが何かわかった気がして頷く。


「よし」


 スコープからは目を離さないから眼の表情は見えないけれど、唇を見ればフォンファが満足げに微笑んでいるのがわかる。

 それを合図にしたように、私は林を駈けはじめる。

 背後の音はますます激しく、サーチライトは丸く闇を切り取り続けていた。

 そのとき、ひときわ大きな音がした。

 風が私の背を押す。それと一緒に閃光が私の前を横切った気さえした。

 びたびたと、湿ったようなものが地面に落ちる嫌な音も。

 でも……私は、振り向かなかった。

 フォンファはいつでも正しかった。私がここまで逃げられたのもフォンファの指示通りに動いたおかげ。

 だから、どんな嫌な予感が胸をよぎっても、彼女との約束は破ってはいけないような気がしたのだ。


 私は、まだ見たことがないダミアヌスに向かって闇の中をひたすらに走っていた。

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