Case.4-3 猫の爪とぎ
結局、僕は中学を卒業して、働き始めた。
新しい役所の担当は年配の女の人だった。正直、名前は覚えていない。そのおばさんが手続きをして、僕は仕事をしながら定時制高校に通うようになった。
最初就いた仕事は、宅配便の仕分け作業だった。
「色んな技を使って見つけて来たのよ。頑張って働いてね」とそのおばさんが言った。
仕分け作業は頭を無にして没頭できた。
同じラインにいる人の中で僕のスピードが圧倒的に速く、所長に何度も褒められた。
数ヶ月後、陰湿ないじめが始まった。
ロッカーに入れていた靴に落書きをされたり、帽子がなくなったり、ついには、誰かが起こしたミスを僕のせいにされた。
「違う。僕じゃない」と最初は抵抗したが、数の論理で負けた。するとあれだけ優しかった所長も「嘘をつくのは一番駄目なんだよ。やっぱり育ちだな」と言い放った。
それからは、職を転々とした。
だが、それなりに器用にこなす僕はある日を境に疎ましがれ、そして攻撃された。
父が死んだと連絡が入ったのは、今の浅日ベーカリーに務め始めたばかりの頃だった。
浅日ベーカリーの居間に設置された黒電話が鳴って、浅日さんがこわばった表情で僕を呼びに来た。
受話器を持つ手が一度だけ震えたが、「あ、そうですか。ありがとうございました」と言って電話を切った。
余りにも無表情な僕に、「すぐに病院に行け。ほらこれ、タクシーで行けよ」と一万円を握らせた浅日さんはとても哀しそうな目をしていた。
あれから既に三年が経つ。
僕が一つの職場でこれだけ長く続いているのは初めてだった。
何よりここ浅日ベーカリーのパンはお世辞抜きで美味しいかった。優しい味とそして勇気を貰えるような味もした。
みんなここのパンがとても好きだった。そんなお客さんのことを僕もだんだん好きになっていった。
「友輔、今日は俺の秘伝を伝授するぞ」
浅日さんはそういうと僕を手招きした。
「えっ、どうしたんですか?」
「浅日クリームパンのレシピをお前に教えるからよく見ておけ」
浅日さんはそういうと厨房に入っていった。
「あの、浅日さん。クリームパンはここの看板メニューだし、僕なんかよそ者に教えるなんて…」
僕は、久しぶりにうろたえていた。
何でだろう?もしかして、これは嫌がらせなのだろうか?これが出来ないやつは必要無いなど言われるのではないだろうか?
僕の爪が少し表に出たとき、浅日さんの隣にいた教子さんが言った。
「友輔君。うちの人、口下手だから上手く言えないんだけど、この店を友輔君に継いでもらいたいということなのよ」
「えっ!!!!」
「こら、教子そんなにストレートに言うんじゃないよ。俺がゆっくりと説明しようと思ってたのによ」
「あなた絶対、無理じゃない。ふふふ。私達には子どもがいないの。だから、このままだと、この店、そしてこの味は私達の代で終わりってわけ」
僕は、気づかないうちに大声を出していた。
「嫌です。もう、一人は嫌です。二人ともいつまでも長生きしてください。僕が大好きな浅日ベーカリーをずっと続けてください」
いつのまにか涙が頬を伝っていた。
いつからなんだろう?あれだけ自分を守る為に爪を研いでいたはずなのに、もうそんなものは一つも必要なかった。
浅日さんの温かくて大きな手が頭を撫でる。
「お前じゃないとこんなことは言わないさ。俺と教子とお前とでこの浅日ベーカリーをしっかりと守って行こうぜ。そして、俺が引退したらお前がこの店とこの味を守っていくんだ。いいな」
いいも悪いもないに決まってるよ。
僕は、本当に久しぶりに声を出して浅日さんの胸に顔を埋めて泣いていた。
それから少しずつ浅日ベーカリーの主力商品を任されて、そこに自分なりのアレンジも加えて自分でもいうのもなんだが、お客様が前より多くなっているような気がした。
「おはようございます!!」
「あっ、おはようございます。今日は寒いですね〜」
「そうなんですよ。余りにも寒いんで、布団から出れなくて。このままだと遅刻しちゃうかもです」
「…って、いいんですか?急がないと!!」
「だって、毎朝、こうして友輔さんの作るパンを買うのが私の幸せだから」
「えっ」
「いや、今のなし!なし!じゃあ、これ下さい〜!」
彼女は、教子さんに助けを求めるようにレジにパンを持っていく。
教子さんもそして、ちょっと奥にいた浅日さんまで、僕の方を見てにやにやしている。
「友輔さん、また明日!」
「ありがとうございます!また、明日、お待ちしてます!!」
Case.4 猫の爪とぎ
終わり
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