19,3 忘却の海 Undine


 「F.A.B.関東支部」の施設から脱出するのは拍子抜けするほど簡単だった。

 試験官B114は青年D616に植え付けられた「D616とI666を全力で見逃す」、というミームに従い、自動警備システムを解除した。

 部下にも二人の脱出を見逃すよう指示を出していたのだった。


 こうして二人は外の世界に出た。


「……とはいえ、この格好では目立つな」


 人前を歩くとアイの半透明の身体は目立つ。

 服を着ているとはいえ、髪や顔、手足は隠せない。

 最悪、見栄えは悪いが布切れとか新聞紙でも被せるか……。

 そう思っていたところに、D616の目に飛び込んできたのは小さな個人経営の古着屋だった。


「よし」


 D616はさっそく古着屋に入った。予想通り人が少ない、店主の中年女性一人で店番をしている。

 レジの奥で椅子に座って読書している女性にズカズカ近づくと、大胆にもその肩に手を触れて言った。


「あんたはオレたちを気にしなくなる」

「あたしは……あんたたちを気にしない」

「そうだ。金は置いていくから損はしない」


 ぼーっとして焦点が定まらなくなった女店主を背に、「アイ、こっちだ」と青年は少女を店内に引き入れた。


『ドロボウ、ダメだよ?』

「ドロボウじゃない。服を拝借して金を置いていくだけだ」

『よかった。キミには悪いヒトになって欲しくないから』


 アイは微笑んだ。

 ドキリ、としてしまう。相手は人間じゃない。そもそもそう見えるだけで少女ですらない。

 自分よりもずっと永い時を生きている超自然的存在だというのに。


「アイが外の世界のルールを気にするなんてな」

『郷に入っては郷に従え、ダヨ?』

「ことわざぁ? いつのまにオレより賢くなったんだよ」

『これもキミが教えてくれたコトバ。キミはいつも大切なコト、教えてくれる』

「そいつはどうも」


 二人、顔を見合わせて笑った。

 こうして古着を漁る。

 とにかくファウンダリの作業着はまずいと思い、D616は適当に古着を数点ひっつかんだ。


「うわっ」


 鏡をみて思わず声が漏れる。

 上半身は作務衣さむえ、下半身はジーンズ。あまり服装は気にしないとはいえ、チグハグすぎる格好になってしまった。

 これはさすがにダサいか、と思い別の服を探そうと思ったその時。

 袖をちょいちょいとひっぱったアイがこうささやいた。


『カッコいいよ』

「……なら、いいか」


 アイに褒められていい気になったD616はこのチグハグな服装で納得することにした。

 さて、アイの服を選ぶ番になったが……。

 そういえばこいつ、人によって姿の見え方が違うのか……?

 今更D616はそのことを思い出した。

 確か、E083やB114は彼女のことを「人魚の化け物」と言っていた。

 半透明の身体をしているのは同じだが、今目の前にいる美少女の姿は自分以外には見えていないのだ。たとえ服を着せようがそこは隠しようがない。

 だが、同時に青年は気付いた。


「なぁ、アイ。お前って自分の姿を固定することはできるのか?」


 ふと、そう訊いてみた。

 そうだ。人魚の化け物という共通認識を持っていた人々がいる以上、アイのイメージはある程度固定することが可能なのではないだろうか。

 それに、水槽から出た時にアイは自身の両足を実体化した。今歩いて移動できているのはそのためだ。

 ならば、アイ自身が自分の姿を固定することもできるハズ……。


『できる……と思う』

「あいまいだな」

『ニンゲンの目にワタシがどう映ってるのか、わからないから』

「そりゃあ、そうか。でもまあやってみてくれよ。オレの手のひらからイメージを伝える。肌の色とか体型とか……オレから見えてるイメージを再現してみてくれ」

『うん、わかった』


 アイと手を強くつなぐ。

 彼女の身体が一瞬光ったかと思うと、そこにはこれまでの半透明美少女に似た――確かな実体を持った少女に変わっていた。

 空色に乱反射する大きな瞳が特徴的な、絵画のように整った顔立ち。

 華奢な身体には人間の肌色と質感が備わっている。

 唯一髪の毛だけは再現できなかったのか、一見水色がかった銀髪のように見えるが、よく見ると透き通っているのだった。


「っ……」

『エヘヘ、どう……かな?』

「どうって……」


 その姿は人間そのものだった。いや、やりすぎ・・・・かもしれない。

 こんな理想的な美しさで造形された人間なんて実在しない。


「すげぇキレイだ……と、思う」

『うん、ウレシイ。キミに褒められるの、一番ウレシイよ』

「そ、それはどうも……」


 アイの姿を直視するとどうにも歯切れが悪くなってしまう。

 バツの悪さをごまかすように、彼女に合うサイズの服を探した。


『どう、似合う?』

「め、めちゃくちゃ似合う。可愛いよ」

『エヘヘ』


 アイは柔らかに笑った。肌の色が人間に近くなったからだろうか。

 こころなしか、表情そのものが人間らしくなってきているように感じた。

 ファウンダリの制服から彼女が着替えたのは、白のワンピースだった。

 特徴的な半透明の髪を隠すために白い帽子とセットで身につけると、どこか深窓の令嬢といった高貴な風格さえ感じさせる。


「よし、行くか」

『うん!』


 レジに代金を置いて、二人は手を繋いで店を出た。

 ここからはもう外の世界だ。

 ファウンダリの服と一緒に、名前もここで捨てていこう。青年はそう決意した。

 D616とI666はここまでで終わり。


 ここからは、黒咲とアイ。

 外のセカイでの二人の物語が始まる――。




   ☆   ☆   ☆




「黒咲くん、ウチらこのあとカラオケなんだけど一緒にいかねー?」


 今日も仕事バイトが終わり、帰路につく時間になった。

 そんなタイミングで派手な髪色とアクセサリが特徴の女子大生が声をかけてくる。


「黒咲くんカッコいいし、来てくれたらアガるっしょー」

「い、いやぁオレ、家でメシ作ってもらってるんで」

「えぇ、黒咲くんってケッコンしてんの!?」

「いや、そういうワケじゃないんスけど……」

「もしかしてコレ・・かぁー、スミにおけないヤツ!」


 小指をたててからかってくる女子大生、名前は幸田こうだ

 彼女はいわゆるギャルという人種らしかった。

 バイト先の同僚で良くしてくれているが、よくこうしてちょっかいをかけられる。

 外の世界での経験が浅い黒咲からすれば、どうあしらっていいものかわからない。

 善意で遊びにさそってくれているのはわかるが、家に帰らなければならない理由がある。

 しょうがない――黒咲は幸田の手を握る。


「さそってくれたのは嬉しいけどオレ、どうしても行けない事情があるんで。だからって幸田さんのこと嫌いとかじゃないんで誤解しないでください」

「え、ああ……ウチこそひきとめてごめんネ。気をつけて帰って」

「ではお先に失礼します。お疲れ様でした」


 身元が不明瞭な人間でも雇ってくれるような、採用条件のゆるい職場は貴重だ。

 もちろん能力を使えばもっと高待遇な会社にでも潜り込めるし、他人から金をまきあげることもできるが……あまり派手に能力を使えば足がつく。欲をかいてファウンダリに見つかっては本末転倒だ。

 だから身を隠しつつ、最低限の生活費を稼げるゆるい職場で働き続けるのがベストだと黒咲は判断していた。

 その生活を維持するため、黒咲はなぜだかたびたび誘ってくる同僚の幸田にのみ、能力を行使していた。彼女の誘いを断っても嫌われないように。揉め事にならないように。あくまで目立たずに仕事を続けられるように。

 幸田から自身への印象が下がらないように操作していたのだ。


「〜♪」


 鼻歌交じりで歩く。

 労働終わりの疲労の中、帰路につく黒咲の足取りは軽かった。

 古く小さなアパートの階段を上がり、二階角部屋の扉を開く。

 そう、家に帰れば――。


『おかえりなさい、黒咲クン』

「ただいま、アイ。すまん、少し遅れた」

『ううん、黒咲クンのこと考えてたらすぐだったよ』


 ――「おかえり」を言ってくれる人がいるから。


 帰って来る時間を待って、扉の前に待機していたのだろう。

 帰宅したとたん出迎えてくれたエプロン姿の美少女が抱きついてくる。

 触れ合わなければ意思疎通できないのだから仕方がないのだが。


 帰りをエプロン姿で待ってくれて、「ただいま」をいえば「おかえり」を返してくれて、仕事で疲れた身体を抱きしめてくれて。


 幸田の言う通り、「夫婦みたいだな」と黒咲は思った。

 するとアイの頬がみるみる赤くなっって、


『く、黒咲クン! いま、フウフみたいって……!』

「え、ウソ!? オレ、声に出してた!?」

『手のひらから伝わってきたよ、もぉ! 急に恥ずかしいこと言わないで!』


 赤くなった頬を膨らませてプンプン怒るアイ。

 え、オレと夫婦扱いされるの嫌なのかと思った矢先、今度は目をそらして。


『う、ウレシイけど……ワタシたちにはまだ早いよぉ……!』


 顔を耳まで真っ赤にして照れるアイ。

 組織から脱走して数ヶ月が経っていた。そのあいだにアイの表情はますます多彩になった。

 肌の質感や身体の肉感も以前より向上している。感情表現として頬に赤みがさすようになったのもその影響だろう。

 その理由は黒咲のイメージを読み取って人間らしさを増しているだけではないと思われた。

 外のセカイで、たとえばこのアパートの部屋に置かれたテレビを観たり。黒咲が仕事に行っている間に家事をしたり、料理を作ったり。

 そういう経験が彼女をさらに人間らしく成長させているのだと感じた。


『黒咲クン、ご飯できてるから食べよっ』

「ああ、頼む」


 食卓につくと、立派な夕食が並べられていた。

 最初は肉を焼くことしかできなかったアイだが、今は肉じゃがまで作れるようになった。

 感慨深いモノだ。

 箸でホクホクのじゃがいもを割って口に運ぶ。


「うん、うまい」


 食卓の正面で、アイはニコニコと黒咲の顔を見つめていた。

 彼女の側には食べ物は置かれていない。水の入ったコップだけだ。

 そう、B114がかつていった通り、アイに食事は必要なかった。

 人間のように食事から生存エネルギーを摂取しなければならない生き物とは、根本的に違う。生まれながらに不死。無限の生命力が保証される存在。

 それが”ウンディーネ”という種族なのだ。


 アイは唯一水分だけは摂取するが、それも生きるために必須というわけではない。

 単に身体を構成する水分が、そのままだと蒸発していって体格が小さくなってしまうから、体格を保つために定期的に水分摂取しているだけだ。

 仮に全身の水分が蒸発しても、水蒸気の身体となって生きていけるだろう。


「なぁ、メシ作ってもらってなんだけど……ちょっとくらい食ってみないか? 美味しいとか不味いって感じるだけでも違うと思うんだ」


 一人だけ食べているのが気まずくなって、アイを誘う。

 彼女は微笑み、小さく首を横にふる。

 このやりとりも初めてではない。こういうときアイは決まってこう言うのだ。


『黒咲クンの美味しそうな顔を見てるだけで、ワタシは満たされるから』


 と。

 このやり取りをする時、黒咲は少し悲しくなる。

 彼女は食事をとらない。根本的に人間とは違う存在なのだ。

 いくら感情を持っているように見えても、それは魂を持つ生物たる人間が生み出した感情とは違う。

 魂のない”ウンディーネ”の示す感情らしきものは、全てが”反応”にすぎない。

 黒咲が感じているだけの、ただの錯覚にすぎないのだと。B114の言葉が心の奥深くに棘のように食い込んで、いまもズキズキと小さな痛みを残していた。




   ☆   ☆   ☆




「っ――」


 ハッっとする。考え事をしていたらしい。黒咲は周囲を見回す。

 そうだ、今はバイト中だった。品出しのためバックヤードから

 黒咲の目の前には、何段にも積まれた段ボールが崩れそうな光景が広がっていた。

 そして今まさに、同僚のギャルこと幸田がその下敷きになりそうになっている。


「危ない!」


 すんでのところで段ボールの雪崩から幸田をかばうことができた。


「あ、ありがと、黒咲くん……」

「い、いや、気づくのがおくれてすみません。幸田さん大丈夫ですか?」

「ホントにありがと! ウチ、ボーっとしちゃってて!」

「無事だったらいいんです。よかった、幸田さんに目の前で怪我されたら、オレ……」


 この言葉はまぎれもない黒咲の本心だった。

 彼は平穏に暮らしたかった。アイとの暮らしをできるだけ長く続けたかった。

 だからアパートから近いこのバイト先は絶好の職場なのだ。

 万が一トラブルを起こして”ファウンダリ”に尻尾を掴まれたら困る。

 そういう意図で出た言葉だったが、幸田の耳には違うように聞こえていた。


「黒咲くん、それってウチのこと……」

「え、何?」

「い、いや! なんでもないヨ! 仕事終ったらジュースでもおごるね!」

「は、はぁ……」


 仕事終わり。

 幸田は約束通りジュースをおごるといって黒咲の帰路についてきた。

 黒咲のアパートまでの道を並んで歩き、途中の自動販売機で幸田が2人分の缶ジュースを買う。


「ねぇ、黒咲くんてさ。今いくつなんだっけ?」

「……たぶん、18くらいっス」

「たぶん?」

「誕生日……忘れちまったんすよ。祝ってくれる人とかいなかったから」

「そう、なんだ……」


 なんとなく気まずい距離感のまま、歩きながらの会話が続いた。


「カノジョさんはさ、誕生日祝ってくれないの?」

「え……?」

「黒咲くん、いつもウチらとつるまずに定時帰りしてるよね。あれって同棲してるカノジョさんのため? ソクバク厳しぃんじゃないの?」

「あ、いや。彼女とか束縛とかじゃなくて……」

「ウチならそんな思いさせないのに」

「え、幸田さん何言って……?」

「黒咲くん、自分では気づいてないかもだけどさ。最近つらそうじゃん。そりゃ、最初は幸せそうだから入り込めないなって諦めてたけど……今は義務感持って家に帰ってるみたいで…‥見てらんないよ」

「オレが……そんな……」


 初めてだった。

 外のセカイに出て、アイと二人で暮らし続けて。

 他人から見た自分がどんな風に見えているのか。アイ以外の意見を聞くのは初めてだった。

 義務感。

 幸田はそう言った。

 そうなのか? 本当に?


「ね、ウチじゃダメ?」


 アパートの近くの歩道まで来た時に。

 幸田は立ち止まって言った。


「ウチじゃダメかな。カノジョさん、黒咲くんの重荷になってない? ウチは……ほら、こんなチャラチャラした見た目してるし。軽い女・・・だと思っていいから……飽きたらいつでも捨てていいし……二番目でいいから……だから、ね――」


 「ウチのこと――見て」幸田はそう言った。


「最近さ、黒咲くんのこと見てるとぼーっとして、感情グチャグチャになって。これってなんなんだろうって思って、悩んで……たぶん、これが恋なんだって気付いた。黒咲くんは、こんなウチじゃダメかな……?」


 その幸田の告白を聞いて、最初は困惑していた黒咲も気付いた。

 これは――能力の副作用だ。

 黒咲は幸田の手を時々握り、自分に不利な感情を持たないよう操作していた。

 感情の細かなバランスを操るように能力を何度も重ねて使った結果、彼女の中では黒咲への好意だけが異常に蓄積される結果となったのだ。

 つまり幸田が自分に向けるこの熱烈なまでの恋心は……黒咲が作り出した”錯覚”にすぎない。


「違う……その気持ちは……違うんだ、オレが……オレが」

「勘違いさせるようなコトしちゃったからって? 黒咲くんがウチに優しかったのはホントじゃん。ウチのこの感情はホンモノ……誰がなんと言おうと、ウチが今感じてるこの想いは……なかったコトになんてできない!」

「あ、あぁ……」


 そうだ。

 圧倒されていた。初めて叩きつけられた、暴力的なまでの恋情。

 感情だ。人間の感情。何より大切なモノ。


(それをオレは――軽々しくコントロールしようとした……できると思い込んだ)


 幸田の感情は、能力を使ったにせよ黒咲の行動と言葉の結果だ。

 ならば、それは、アイが自分に向ける”感情”と同じなんじゃないのか?

 B114はアイの感情を黒咲の行動や言葉に対する”反応”に過ぎないと言った。

 幸田とアイの持つ感情にどんな違いがあるんだ?


「黒咲くん……」


 幸田は黒咲の肩に手を置いて、背伸びして顔を近づける。

 目を閉じ、唇と唇で触れ合おうとする。

 女性経験の乏しい黒咲にもわかった。キス、しようとしているのだ。


(今なら手のひらで触れて、なかったこと・・・・・・にできる。幸田さんのオレへの感情を消しさってしまえる。だけど――)


 黒咲は迷った。

 それをすれば――アイがオレに向けるあの笑顔も否定することになるんじゃないのか?

 あの感情が”錯覚”だというB114の言葉を認めることになるんじゃないのか?

 

(ああ、オレは、なんて……)


 そして黒咲は何も抵抗せず、目の前の女性の唇を受け入れた。

 唇と唇が重なる。

 その瞬間――。


「っ――!?」


 背中に刺すような重圧プレッシャーを感じた。

 わけもわからず反射的に幸田を突き飛ばす。


「ご、ごめんねヘンなこと言って。困らせちゃったね……じゃあね黒咲くん!」


 拒絶されたと思ったのか、幸田はすぐに走り去ってしまった。

 そのまぶたから涙がこぼれているのが見えた。

 だけど今は気にしている場合じゃない。黒咲は振り返り、周囲を見回す。


(なんだ、今の感覚。背中から何か妙な気配が……一瞬、殺気なのか……いや。もっとどす黒い、憎悪を煮詰めたような……不気味な感覚だ)


 黒咲がすぐに思い至ったのは、”ファウンダリ”からの追っ手だった。

 しかしすぐに気配は消えた。今は隙だらけだった。本当に追っ手ならば、今の一瞬で背後から仕留められていてもおかしくないにも関わらず。

 追っ手ではない?

 

(ならば、まさか……)


 歩道から斜め上。

 アパートの二階の窓を見る。

 そうだ。角部屋の窓側は道路に面していて、ちょうどこの歩道が見える。

 だけどアイと自身の部屋の窓はカーテンで固く閉ざされている。

 それはそうだ。”ファウンダリ”に見つからないよう、カーテンは開けないようアイに言い聞かせてあるのだ。

 見ていたはずがない。よりによってアイが……。


「気のせいか……そもそもあんな怖い気配、アイなワケねェよな……」


 はからずも幸田を拒絶した形となったが、これで良かったんだと思う。

 自分にはアイがいるからだ。

 アイを裏切りたくない。アイとは恋人とか、まだ全然そういう関係じゃないけど。

 それでも黒咲にとって、アイ以外の女性と――という未来は考えたくもなかった。


 だから気づかなかったのだ。

 人間は見たいものをみてしまうから。

 見たくないものは見えないのだから。

 固く閉ざされていた窓のカーテンが……。


 ついさっきまで動いていたかのように。

 ゆらゆらと、小さく揺れていたことに。


 幸せかと思われた二人の生活に、綻びが出ていたことに。

 終わり・・・の足音が少しずつ、たしかに近づいてきていたことに。


 彼はまだ――気づけなかった。

 気づきたく、なかった。

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