くらげの足跡は瑠璃色の空へと続く。 第4話
潮の香りをたっぷりと含んだ風が肌を撫でる。
岩を打ち付ける波の音が鼓膜に触れる。
林を抜けた先にある切り立った崖の上に僕たちは立っていた。そう、海月と最後に過ごしたあの場所だ。眼下に広がる海は絶え間なく揺らぎ、空を抱き締められる程に広い。果ての先では空と海との境界線を作り出しているかのようだった。
この場所は、いつ来ても全てがあの頃のままだ。
でも、一つだけ違う部分がある。
地面から膝下程の高さまで何段にも積み上げられた平らな石は、潮風を受け止めてゆらゆらと揺れている。
海月が僕たちの前を去った翌年に、この積み重ねられた石の塔のようなものを三人で建てた。最後に四人で幸せを分かち合ったこの日だけは四人で過ごせるようにと、そんな想いを込めて。
「夕陽綺麗だね。」
静香はそうぽつりと溢すと、腰を落とし、花束をその石の塔の前にそっと添えた。
拓真はその姿を後ろからみながら「毎年この日だけはちゃんと晴れてくれるってことは海月も喜んでくれてるのかもな。」と笑みを浮かべる。
二人に視線を配らせていると、僕はとてつもなく深い悲しみとそれでいて何故か安堵のような気持ちに包まれた。
この場所で、彼女は逝った。その事実が僕をそんな不思議な気持ちにさせるのかもしれない。
僕は二人の間を縫うようにして石の塔の前に立ち、手に携えていた花束をそっと添えた。赤や黄色に紫と色とりどりの花に囲まれると、途端にその周りが明るく灯されたように感じた。潮風で石が揺れる。ゆらゆらと揺れ動くそれをみていると、風でなびく彼女の髪を、後ろ姿を思い出す。
「海月、今年も来たよ。」
喉元から放った消え入るような声は、すぐに波の狭間に溶けていった。僕は石の塔に手を添え、心の中でぽつりぽつりと声を落とした。
毎年訪れる僕の誕生日を、君の前で迎えるのは恐らく今年が最後になると思う。
誰も口にはしないけど、いつかはそうしなければならないということを全員が心の中で分かっていたから。
どうか分かって欲しい。
僕達は君を忘れようとしてる訳じゃないということを。
いや、忘れることなんか出来るはずないんだ。
あの濃密な日々を、どうしようもないくらいくだらない日々が馬鹿みたいに色付いた日々を。
いつかまた、僕達が前に向かって進むことが出来るようになったら、また君に会いにくるよ。
だから、その時まで。
さようなら。
心の中で言い終えてから、二人に気付かれないように目元を拭った。この場所に来るまでに覚悟をしてきたことだったのに、いざ実際に目の前にすると否が応でも悲しみに押し潰されそうになる。
「さぁ、じゃあやるか!」
僕がそんな気持ちに駆られていることなど知る由もなく、石の塔の前に一つの炭酸ジュースをそっと置いた拓馬が溌剌とした声をあげた。
静香もそれに続くように笑顔を咲かせ、少し遅れてから僕も精一杯の笑顔を作った。
「せーのっ!!響、誕生日おめでとう!!」
僕たち三人の高らかに合わさった声は放たれると、波の音と混じり合い、溶けていった。少し遅れて空気の抜けるような音と共に、プルタブの開く音が鼓膜に触れる。
僕は炭酸水と共に弾けた泡を喉の奥へと落とし込み、視線を水平線へと向けた。燃えたぎるような光を放ちながら、ゆっくりと海の中に溶けるように陽が沈み始めていた。
「じゃあ、誰からいく?」
拓馬が鞄の中から取り出したお菓子の袋を両手で摘みながらぽつりと言った。
僕たち三人はこの一年にあったこと、そして先の未来についてを、この日に一人ずつ打ち明けるというのが、いつからか毎年の恒例行事になっていた。
拓馬から始まり、静香が言い終えると、僕の隣にすっと腰を下ろした。
「じゃあ、次は響ね?」
僕は静香の目をみて小さく頷いたあと、立ちあがった。
「この一年で、たぶん僕は大きく変わったと思う。やっと夢が出来たんだ!」
「まじかよ?」
「本当に?おめでとう!」
僕の口にした言葉に、途端に二人の表情が明るくなる。この三年の間、夢を持てなかった僕のことを二人はずっと応援してくれていたから。
「で、どんな夢なの?」
目を輝かせて尋ねてきた静香と拓馬の顔に交互に視線を配らせた。
「僕は医者になるよ!今の医療じゃ助かる見込みがないと言われている人達を、その家族を、僕は一人でも多く救いたい。僕たちのように大切な人に残されて悲しみに暮れる人が一人でも少なくなるように。だから、僕は今の大学を辞めて医大を受け直すことにするよ。」
潮風が髪を撫でる。沈み始めた陽の光が、僕の身体を真っ赤に照らす。まるで僕の胸に秘めた意思の強さを表すかのように。
「そっか‥。響らしいよ。俺、ずっと応援してるからな!」
「ほんとだね、私も応援してるから。」
二人とも目元を拭い、声は潤み始めていた。
僕はそんな二人をみて笑顔を溢したのと同時に、ある決意をする。
これは、今年に入ってからずっと考えていたことだった。言い出すべきなのかずっと迷っていたが、今日この場所にきて、やっと言う決心がついた。
「なぁ、僕の誕生日にこの場所で集まるのは、もう今年で最後にしないか?」
二人は目元を拭っていた手を同時に止めた。怪訝な表情を浮かべ、真っ直ぐに僕をみつめる。
「えっ?」
「響…お前、何言ってんだよ?」
僕は大きく息を吸い込んで、潮の香りで満ちた空気をゆっくりと吐き出した。
「二人だって思ってただろ?僕たちは毎年この場所で過ごしている限り、一向に前に進めない。だから、もう終わりにしよう。」
そう、これはずっと思っていたことだった。いや、僕だけじゃないはずだ。二人も同じ考えを持っていたが、言い出すことが出来なかっただけなんだと思う。
海月が僕たちの前を去ったあの日から時が経つにつれ悲しみは薄くなり、時の流れに身を任せてさえいれば肉体だけは前に進むことが出来た。
でも、心は、あの日のあの瞬間で、時を止めたまま進むことはなかった。それは、僕たちが幸せを分かち合ったあの瞬間に、過去に、しがみついている限り、二度と進むことがないものなんだと思う。
恐らく二人は同じことを感じていたが、僕のことを想って、それが言い出せなかったのだろう。
だから。
「きっと海月もそれを望んでるよ。いつか、僕たちが前に進めたと思えるようになるまで、もうここには来ない。」
僕がこの言葉を口にするしかないと思った。
「本当に…いいのか?」
二人は唐突に僕が発した言葉に動揺を隠せない様子で、拓馬は途切れ途切れになりながら僕に問い掛け、静香は両手で顔を覆い、小さく肩を震わせていた。
「あぁ、これが僕たちにとっても、海月にとっても最善だと思うんだ!海月はきっとこれを望んでいただろうから。二人とも、僕にずっと気を遣ってくれてたんだろ?ありがとうな!」
そう言い切った瞬間、突然立ち上がった静香が僕の身体を包み込んだ。
「バカ…。響のバカ。辛いのに、辛くないフリなんかしないでよ!」
静香の頬を伝った涙が、僕の肩を少しずつ湿らせた。その涙は、すぐに僕の心の中まで染み渡り、鼻の奥が痺れる感覚がしたのと同時に、目元から涙が溢れた。
「で…でも、こうするしか…ないん…だ。」
「うん…。分かってる。分かっ…てるからバカって言ってんの…。」
肩を寄せ合い悲しみを分け合うかのように抱き締めあっていた僕と静香の身体を、包み込むようにして拓馬がそっと寄せた。
どれくらいの時間そうしていたのだろうか。
涙が枯れるまで泣き続け、気付いた頃には海の中に陽は溶けていた。それを見ながら、僕たち三人は無言のままにただ潮風を身体で受け止めた。
その時だった。
「ねぇ、みて!あの時と全く一緒の空だ。」
うっすらと暗くなり始めた辺り一面を灯すような静香の声が響き、僕と拓馬は静香が指を指す方向に視線を向けた。
僕はその頭上に広がる景色をみて思わず息を呑んだ。そこには、静香が言うように海月が僕たちの前を去った日と全く同じ空が姿を現していたのだ。
青よりも深みのかかった青が紫と入り交じる空が、瑠璃色の空が、僕たちを包み込むようにして頭上に広がっていた。
「ねぇ、なんかさ海月が私はずっとみんなの傍にいるよって言ってくれてるみたいじゃない?」
その空を見上げていた静香が、ぽつりと呟いた。僕と拓馬は一瞬顔を見合わせて、ゆっくりと頷く。
「あぁ、きっとそうだよ。海月は俺たちの傍にいる。ずっと。」
この五年で僕は思ったことがある。
僕たちは、脆く、弱い生き物だ。
所詮は七十億分の一に過ぎないちっぽけな存在なのだ。
同じ時を過ごすことが当たり前だと思っていた大切な人を亡くした時、一瞬にして絶望の淵に叩き落とされ悲しみに暮れてしまう。
でも、同時に僕たちは、人は、強い生き物でもある。どんなに辛いことがあろうとも、悲しみに打ちひしがれようとも、必ず立ち上がる。その力を秘めている。
時が解決するのか、誰かから差し伸べられた手を掴むのか、それは人によって違う。
でも、その大切な人の分まで、泣いて、笑って、怒って、生きるために食べて。目の前に溢れた日常の欠片に必死に手を伸ばしてる内に、いつしか悲しみを生きる糧にすることが出来るようになるのだと思う。
なぁ海月、天国はきっとそう遠くない場所にあるって君が言った時、僕にはよく分からなかったんだ。
触れ合える距離にいなくなるなのに、手の届かない場所に行ってしまうのに、何故近いと言えるんだと、僕は疑問に思ってしまった。
でも、今なら分かるよ。
君は、今も僕たちの胸の中で生きてるんだ。
ずっと見守っててよ。
いつか僕がそっちに行った時に、君が誇りに思ってくれるような人生を全うしてみせるよ。
海月への思いを馳せて、手をかざす。瑠璃色の空に。それを目を細めてみつめ、二人に聞こえない程の小さな声で、波の音に溶けるような声で言った。
「君がくれた、この色付いた世界で僕は生きていくよ。歩み始めた道が違うだけ、ただそれだけなんだと思う。いつか、その道が交わる時を楽しみにしてるよ。なぁ海月、本当にありがとう。」
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