くらげの足跡は瑠璃色の空へと続く。
ドリンクホルダーに置いた炭酸水が陽の光を受け止めて輝きを放ってる。ペットボトルの底から浮かぶ気泡は小さな光の輪っかのようにみえた。
そのペットボトルを手にした僕は、弾けた泡と共に炭酸水を喉の奥へと流し込んだ。
新幹線の窓の向こうでは、数時間前までみえていたコンクリートで出来たビル群から移り変わり、田んぼやあぜ道が姿を現すようになっていた。地面から湧き立つ入道雲が、更にその奥に広がっている。
僕は窓辺に腕を立てて頬杖をつき、その移り変わる景色をぼぅっと眺めていた。今年も夏が来たことを再認識しながら。
そうしている内に、冷却装置で冷えた車内に差し込む陽の光が肌寒くすら感じた身体を温めてくれて、その心地よさに次第に睡んできた。
完全に意識を手放してしまうと降りる駅を逃してしまう為、瞼だけを降ろした僕はまだ色あせてすらないあの日々の記憶に思いを馳せた。
あれから五年の月日が経った。
僕は流れゆく時の流れに身を任せ、ただ毎日を忙しなく過ごすことにした。そうでなければ、自分を見失ってしまいそうだったからだ。
毎日、学校の宿題とは別に自分で課題を作り、答えを求めて勉強に明け暮れた。
必然的に拓馬と静香と過ごせる時間は少なくなったが、それでも僕たちの関係値が変わることがなかった。いや、それ以上になったのかもしれない。学年が上がるにつれて、将来のことを考える時間が増えたことで、二人は二人なりに自分の未来の為に時間を費やしていたことも理由の一つにあると思う。
でも一番の理由は、一度壊れかけた僕たちの絆が修復されたことで、より強固なものになったからだろう。
海月が崖から飛び降りたあと、僕たちは震える手で警察、救急車と順に連絡をした。
颯爽と到着した警察官と救急隊員に、自分達がみたものを全て話した。海月の能力については伏せて。話したところで大人は到底信じではくれないだろうと思ったからだ。
数時間後にはダイバーが海月の飛んだ海の中へと放たれた。だが、海月の遺体が見つかることはなかった。海月の思い描いていた通り、痕跡すら残さずにこの世から消えた。そう、海月は本当にくらげになったのだ。
心の中に大きく空いた穴が塞がることがないまま、夏休みは開けた。始業式から二日後、学校では海月の件について学年集会が開かれることになった。
僕たち三人は海月とあまりにも近すぎた為に、まるで腫れ物を扱うかのように学校では浮いた存在となった。本来であればその間も、三人で悲しみを乗り越えることが出来たら良かったのだろうが、二人は僕の前から去っていった。それは、絆が壊れかけた瞬間だった。後から聞いた話しだが、二人は僕のことを許せない気持ちと、僕の気持ちも分かるという考えがせめぎ合い、どうすることも出来ないもどかしさを整理する為にも一度僕から距離を取る選択をしたそうだ。
当然のことだろうと思った。
僕は結果的に、二人から海月を奪ってしまったのだから。
僕が勉強に明け暮れるようになったのも、その辺りからだったと思う。毎日どうやって夜を超えるかを考えた。朝から晩まで自分に課題を課し、分単位のスケジュールを作り、身体を疲弊させた。そうすることで、ようやく眠りにつくことが出来た。
それでも眠れない時は、瞼を閉じれば海月の姿が浮かび、悲しみで押し潰されそうになった。無意味にロープで輪っかを作ってみたり、翌朝目の前を過ぎ去る電車をみては、馬鹿なことを考えた。
この頃の僕は、人形のようになっていたと思う。毎日逃げるように眠り、起きてからは眠る為に、身体を疲弊させる。感情なんてこれっぽっちもない、木造りの人形のようだった。
海月と別れを告げてから九つの夜を越えた頃、僕は閑静な住宅街の中でもひと際洗練された建物の前に立っていた。
僕は、謝らなければならなかった。
必ず連れて帰ると約束した海月のお母さんに。
風の噂で、海月のご両親は未だに捜索願を出し続けたままだということを聞いた。
遺体も見つかっておらず、海月が崖の上から飛び降りた瞬間をみたのが、まだ未成年だった僕たち三人だけだったこともあり、警察は捜索は打ち切ってからも、未だに捜索願を受理したままだそうだ。
僕は、海月のご両親が前に進む為にも全てを話すべきだと決心した。
「…これが…あの日に起きた真実です。僕は…約束を破ってしまいました。本当に申し訳ありま…せん。」
革製のソファーに腰を掛け、海月のお母さんに全てを話した。警察官や救急隊員に話した内容とは違い、文字通り全てを話した。海月の未来をみることが出来る力や何もかもを。
海月のお母さんには知る権利があり、僕には話さなければならない義務があると思ったからだ。
「そうだったんですね…。話して下さりありがとうござい…ました。」
僕は海月のお母さんの平然とした態度や表情に目を丸くしてしまった。テーブルの上に置かれたカップに手をかけるその仕草でさえ、思わずまじまじとみてしまう。折り目があしらわれているベージュのロングワンピースに身を包み、雰囲気や佇まい、仕草一つをとっても全てが気品に溢れていた。僕は海月が未来をみることが出来るという、にわかには信じられない話を口にしたのに、一切の動揺が感じられなかったのだ。
本当に僕が話した内容を理解しているのだろうか?
僕は、咎められても仕方ないという気持ちでこの家にきていたのに。
「あ…あの…」
どう言葉を投げ掛ければいいか分からず、言葉を紡ごうとする度に飲みこんだ。
そんな僕の反応をみて、海月のお母さんはうっすらと陰日向に咲く花のような笑み浮かべた。笑った時にみせる目や口元が、僕の記憶の中で未だに生き続ける海月と重なり、途端に胸が張り裂けそうになる。
「私、いえ、私と夫は海月の力を知っています。あの子は物心ついた時から不思議なことを口にし、全ての出来事がその通りになった。あの子自身は私達がそれに気付いてることを知らなかったのですが、それが良くなかったのかもしれませんね。」
僕は海月のご両親が知っていたという事実に、開いた口が塞がらなかった。
「以前、響さんに海月の手紙をみせた時、なぜ言葉が未来形になっているのか分からない、きっと書き間違えだと思います。と私が答えたのは、海月の力は特殊なものだったのであまり人様に見せびらかせるようなものではないと夫婦で判断したからなんです。響さんには嘘をつくような形になってしまい、ごめんなさいね。」
言い終えると同時に頭を下げた海月のお母さんをみて、僕も咄嗟に頭を下げた。
「響さん……、一つだけ教えて頂けますか?」
僕は首を傾け、海月のお母さんに瞳を向ける。
「はい、どんなことでも聞いて下さい。」
「海月は最後の瞬間、どんな表情で逝ったのでしょうか?」
その問いかけを投げかけた瞬間の真っ直ぐに僕をみつめる瞳は、綺麗に澄んでおり、もうその問いの答えを聞くことさえ出来れば、他には何も望まないと目が訴えかけているようだった。
姿勢を正す。すぅっと息を吸い込んで、僕はその想いに応える為に、未だに頭の中心を占める鮮明な記憶に手を伸ばした。
「あの日の海月…は、何もかも吹っ切れたような顔をしていて、最後の瞬間は、今まで見たことも…ない…くらい幸せそうな顔をしていま…した。」
出来るだけ伝わるようにと、流暢に話せるようにと、意識はしてみたが、無理だった。喉元から声を放つ度に、海月と過ごしたあの日々が蘇る。次第に潤み始めた僕の声で、部屋の中は湿り気を帯びた空気で一瞬で満ちた。
以前訪れた時よりも心做しか暗く感じていたこの部屋が、ぱっと明るく染まったように感じたのは、そのすぐ後だった。海月のお母さんがゆっくりと穏やかな表情を作り、笑みを浮かべた。それから、滴が溢れた。目元から。ずっと我慢していたのだろうか。最初の涙が零れ落ちると、次々に流れ、それらが頰を濡らした。
「そうでしたか。それなら良かった…、本当に良かった。私は、ずっと気になっていたんです。もし最後の瞬間、悲痛な顔を浮かべていたり…なんてしたら、私は親として…もう立ち直れなかった。生きていけなかったかもしれません。丈夫に生んであげることが出来なくて本当にごめんねって、辛い人生だったの?って毎日毎日海月に謝り続けていたんです。響さん…、ありが…とう。本当に…ありがとうござい…ます。」
言い終えて、ソファーから崩れ落ちるようにして、そのまま床に頭をつけた。細い身体の、小さな背中が、大きく震えてる。
その姿が、ずっと抑え込んでいた僕の感情を爆発させた。足元で泣き崩れる海月のお母さんの元へと駆け寄り、更に頭を下げて言った。
「ごめんなさ…い、海月を連れて帰れなくて、本当にごめん……なさい。」
まるで子供のように声を上げて泣いた。頰に手が触れたのは、その時だった。
「あなたは何も悪くない。さあ…顔をあげて」
柔らかな声だった。その温かい声の方へと視線を向ける。目を真っ赤にしながらも、陽だまりのような笑みを浮かべる海月のお母さんが、僕の身体を抱き寄せた。
「私があなたのことを恨んでるとでも思った?むしろ、その逆よ。感謝してるの。海月はきっと、最後に最高のひとなつを過ごすことが出来たんだと思う。娘を、海月を大切にしてくれて、本当にありがとう。」
その言葉が僕の鼓膜に触れた時、やっと自分に課していた重しが取れたような気がした。救われたのだ。胸の中から溢れ出る感情を涙と共に流し、ただ身体を預けたまま、声が枯れるまで泣き続けた。
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