第105話 第一駐屯地(20)
「まぁよい……我もまだ……戻ったばかり……」
――許してください! 許してください! 許してください!
なぜかタカトは暗い空間の中でひたすら土下座をしていた。
だが、その向きは真反対。
振り返ることすらできないタカトはケツを相手に向けて土下座をしていたのである。
しかし、一体何に謝っているというのであろうか?
タカトは謝っているのではない。
絶対的な恐怖の前でただただ本能的に赦しを請うているだけなのだ。
「その内……この体は……返してもらう……それまで……丁寧に扱えよ……下種の小僧……」
「許してください! 許してください! 許してください!」
ビン子は頭を地面に必死にこすりつけるタカトを軽蔑するように見下していた。
それはまるで、こんな変態に乙女心を動かしてしまった自分を後悔するかのようでもあった。
――所詮、アホタカトはアホタカトよ。
先ほどまでちょっと開きかけた恋心の隙間は、あっという間に貝の殻のようにかたくなに閉じてしまったのだった。
そんなビン子の顔は怒りで烈火のごとくほてりだす。シャワーで冷えた身体とは対照に。
そして、足取り荒く大股で荷馬車へと帰っていったのだ。
――あれ⁉
ふと我に返るタカト。
――俺は一体何をしていたんだ……
地面にこすりつけていた額と手のひらは、滲んだ冷や汗によって今や砂や泥をべっとりとまとわりつけていたのだ。
――なんだったんだ……あの感覚は……
タカトは立ち上がろうとするが、膝が震えてうまく立ち上がれない。
体が今だに恐怖で震えているのだ。
――いやいや……きっと……これは濡れたシャツをそのまま着たから……風邪でもひきかけたんだな……そうに違いない! そうしとこ!
タカトは、そんな言い訳を考え自分の思考を懸命にいいくるめた。
――だいたい、こんなこと……ビン子に言えるかよ……
そう、こんなことを言えばバカにされるだけだった。
だが、そんな言葉を真に受けるビン子ではない。
だいたいタカトは日頃から、死ぬ! 死ぬ! と大げさに叫んでいるのだ。
ビン子には分かっていた。
タカトが死ぬ死ぬと騒いでいる時は絶対に大丈夫なことを。
しかし、問題はタカトが静かに押し黙っている時……それは、確実に窮している証拠なのである。
タカトもまた、そんな自分の性格にうすうすと気づいていた。
だからこそ、今、正体の分からぬものに恐怖していてもビン子にいらぬ心配をかけるだけなのだ。
ならば、今は忘れよう……
とにかく忘れて、明るく振る舞おう……
今は、今だけは……
ビン子に心配をかけないためにも……
「ビン子ちゃ~ん! 待てよぉ~」
タカトは、何事もなかったかのようにあっけらかんとビン子の後を追いはじめた。
タカトの体がビン子の右に左にとせわしく揺れ動く。
まるで背後からビン子の様子を伺うかのようにである。
しかも、乾かすためなのか濡れたシャツの裾がひらひらと上下させながら。
もう、見ているだけでもうっとおしい!
当然にそのタカトの行為は、さらにビン子をイラつかせた。
コイツに反省の色もあったもんじゃない。
――アホだ……アホに決まっている!
タカトのシャツが揺れるたびにしたたり落ちる水滴の跡が、そんな二人の後を懸命に追いかけていた。
「ビン子! 人魔症にかかってなくてよかったな!」
「タカト! 何がよかったのよ。だいたい死にかけたじゃない!」
振り返ったビン子はタカトをにらんだ。
しかし、ひょうひょうとしているタカトを見ると、急に怒っている自分が馬鹿らしく思えてきた。
勝手に淡い恋心を期待したのは自分のほうなのだと半ば自虐的な気持ちが顔の熱を急速に奪っていったのだ。
「あっ! お前、神様だろう。死なないんじゃないの?」
「死んだことないから知らないわよ」
ふくれたビン子は後ろを歩くタカトを見ることなく手拭いを手に振り大股で歩いていく。
「じゃぁ、いっぺん死んでみる?」
側に走り寄ったタカトは、そのビン子のふくれたほっぺを笑いながらつついた。
「いや!」
咄嗟に、その手をはらうビン子。
そっぽを向き、どうやら完全に怒っているようだった。
しかし、その怒りはいつものビン子の様子に戻っていた。
――タカトはタカト。それでいい
ぐーぅぅ……
そんな時、タカトの腹の虫が鳴いた。
二人は顔を見合わせて笑いあう。
「そういえば、昼飯まだだったな」
荷馬車に戻ったタカトは、カバンから弁当を探したが、どうも見当たらない。
――あれ……?
それもそのはずである。ここに来る前に『思いでぽろぽろほろにがパイパイ』を二つとも犬にやったため残っているはずがなかったのだ。
「そういえば、犬にやったんだっけ……」
どうやらそんなことを今の今まできれいさっぱり忘れていたタカトは、残念そうに肩を落とした。
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