5章 家庭教師

第62話 家庭教師① 誘い

 真樋は考えていた。


 どういう理屈で夢月が家庭教師をお願いしてきたのか。


 夢月が教えれば良いじゃないかというのが率直な意見であり思いである。


 学生時代の夢月の成績は上位だった。教えられないはずがない。


 真樋が教えるとして、仕事が終わった後、休日、それだけで良いとでも言うのだろうか。


 それとも美結からの指名依頼だろうか。


 疑問は尽きない真樋だった。


 指名依頼だとして、美結が5歳の頃に初顔合わせをして、それからの2年で徐々に会う回数は減った。


 真樋の出向を期に、それからの約10年近い間は一度も会っていない。


 今面と合わせたとして、良く見れば面影があるのかもしれないが、美結だと分かるかどうかすら怪しいものである。


「会ってはないけど……お土産は渡したか。」


 出向に行ったあの2年間のお土産は夢月に渡していた。


 温泉の素や、例の真樋が絵付けをしたこけしである。


 本当は誰かに渡す心算で購入したものではなかったが、浦宮駅でばったり夢月と会った時にいくつか渡していたのである。


 それだって既に何年も前の話である。


 美結が真樋を思い出すにしては、若干の無理矢理感はあった。


 家庭教師を引き受けるかどうかはともかくとして、何故自分なのかの疑問を解消しようと真樋は返事を送った。


 夢月からは二人で直接話したいという事で、次の休日に浦宮市で会う事となった。






「何度かメールやメッセージで話したりはしてたけど、真樋って所長さんなんだね。本当に凄いな……」


 所長が既に敬称を含むので「さん」を付けるのは日本語としては正しくはない。


 外国人パブでキャストが使う「シャチョさんシャチョさん。」とも違うのである。


 夢月が言う凄いというのにはいくつかの意味が含まれていた。


 30代前半で課長職である営業所長へ昇格した事。


 なによりも進路が決まっていなかったのに、特にやりたい事はあったわけでもない。


 そんな時に発した一言で不動産への就職を視野に入れ大学へ進学し、就職まで決めてしまった。


 そして出世までして、今では営業所のトップにまで上り詰めている。


 凄いと言わずして何と言えば良いのかというものだ。



「恥ずかしい話、私は教えるのが上手くないの。自分が勉強する分には良いんだけど、人に教えるのが苦手で……」


 夢月はこう言うが、学生時代に仲間内で行った試験勉強では苦手とは見えていない。


 目線を下げて右手の人差し指でテーブルの上で「の」の字を書くように円を描いていた。


 夢月が嘘をついたり誤魔化したりする際の仕草である。


 その仕草を目にした夢月の真意は、真樋には測れなかった。


「それに、勉強の話をした時に美結から、【それならパ……真樋さんから教えて貰いたい。】って美結が言うものだから。」


 美結の言葉をそのまま復唱したとの事だった。


 パ……というのが真樋には気にかかる。


 美結の中での真樋象は5歳の頃から何も変わっていないのだろうかと。


「本人に受験までの期間だけ家庭教師して貰えるか話して、了承を得られたならという事で今に至るなの。」





「そういや今中学生って事は……美結ちゃんもそろそろおませな時期じゃ。」


 一般的には女子の方が思春期を迎えるのは早い。15歳であれば受験か恋愛かの二択と言っても過言ではないのである。


「それが美結の色恋沙汰は聞かないかな。特定の仲の良い男の子の話も聞かないし。もしいたら親としては複雑……」


 バレンタインに手作りチョコを作るって事もしてないしねと付け加えた。


「そうだろうな。俺にはわからんけど。」


 未婚で独り者の真樋には中々理解出来ない分野でる。

 

「あとね、私の血を引いてるのが丸わかりなんだけど。深夜アニメやコスプレに興味深々なんだよね。沼に浸かってるというか。」


 以前幼児期の衣服を夢月が作っているという話を聞いた時、もしかしたらコスプレに興味を持つのではと過ぎっていた事を真樋は黙っていた。


 夢月の親の代から続くヲタク家系は、決して裏切らないという事の証でもあった。


「美結から将来服飾系かイベント系の仕事をしたいかもとは何度か聞いた事あるんだ。」


 服飾系に進むのであれば、高校や専門学校等で専門系の学科で学ぶ方が適している。

 

 趣味だけで、独学で製作するコスプレイヤーは多く存在するが、学んでおいて損はない。


「それで志望校は決まってるのか?」


 県内に服飾系の学科を持つ高校はいくつか存在する。


 真樋が思い浮かべただけでも、脳裏に数校が浮かんでいた。


越ヶ弥こしがや二尉座にいざの服飾デザイン科のある総合高校が有力みたい。偏差値は55から60程度か?」


 現在の浦宮からであれば二尉座の方が近い。しかし越ヶ弥の方は少し前に大規模改修を終えたばかりで校舎等が綺麗に一新されている。 


 越ヶ弥であれば、かつては雨が降ったり強風が吹くと止まると揶揄された六三四野線を利用する事になる。


 幸いにして通学通勤で混まない方面への電車なので、痴漢等の心配はあまりない。


 幼少期に病弱だった美結でも通学する分には満員電車での苦痛はないだろう。


 千葉方面から来る電車であれば、満員電車となって通学が嫌になるかもしれない。


「他にないわけじゃないけど、今のところそんな感じ。」


 高校のパンフレット等を見て候補を絞ったという事だった。


「話は戻すが、本当に俺で良いのか?俺は随分と学校の勉強からは離れてるわけだし。」



「人間にはね、学業の成績だけが教える秘訣じゃないんだよ。」


「モチベーションというか、やる気スイッチというか、そういうのも大事なんだよ。」


 片親で育てているからこそ見える何かがあるからだろうか。


 夢月には夢月にしかわからない娘の応援・後見があるのだろう。



「私が高校を選んだ時の事を考えれば……ね。」


 約20年前、独自のルートで真樋の進路を知った夢月。


 受験時まで誰にも進路を伝えずこっそりと真樋と同じ高校を受験した。


 そして高校時代をも一緒に過ごす事となった。


 人間のやる気スイッチは人によって違う。しかし根本にあるのは個人の願いや希望、煩悩である。


 美結が将来を見据えた進路を考えている以上、希望の科への進学は必須なのである。 




「この後はどうするんだ?美結ちゃんとこに一旦行くのか?」




「その前に寄りたいとこがあるんだ。前は断られたけど……」


 前……とは、真樋が出向から帰って来た時に偶然会った時の事である。


 あれから年単位で経過しており、真樋の記憶からも薄れつつある事だった。


 しかし夢月の言葉ではっきりと思い出す。


「だから俺達はもうそういう関係じゃないだろ。」


 夢月の言葉を聞いて、この家庭教師の話の真意が複数あるのではないかと悟る。


 美結の勉強を見て欲しいというには本気だろう、美結が自分を家庭教師にという話も嘘ではないだろう。


 しかしそれは美結の意思や意見であって、夢月のものではない。


 夢月としては、流石に寄りは戻せないまでも、真樋との距離を縮めたかったのではないかと。


 それは物理的に……


「大人になるとね、本音と建前って汚い思考が浮かぶの。あの時、25の同窓会の時のようで構わない。」


 それは自分を道具のように扱って構わない、処理のための捌け口で構わない、寧ろ真樋にであればどんな事でも厭わないという意思である。



 夢月と別れてからというもの、真樋は同窓会の時の一件を除き、稀に自家発電をする程度でしか発散していない。


 

「LOVEの感情はないんだぞ。せいぜいがLIKEだ。そんなのが良いとでも?」


 15年は経過している。歪んだ感情も時間と共に薄れている。それでもまったく真っ白にはならない。


 当時苛立ちを抱いていなくとも、火種が全くないわけでもない。


 仲間や時間のおかげで火種に火の粉がなくとも、再燃しない保証はどこにもないのである。



「ずるいな、女って。」


 夢月の困ったような、泣き出しそうな顔を見て真樋は困惑する。


 娘という餌を出せば表に出てくれると思われている。


 美結へのお礼やお代と称する事で自らを差し出そうとしてくる。


 見方を変えれば性欲処理ともとれなくはない言動。


「勿論家庭教師の代金は払う。相場はわからないけど……でも足りない分は……」


 足りない分がないはずがない。相場は兎も角、慰謝料などがあるのに金銭的に足りないはずがない。


 つまりはこれは夢月の我儘であり願望なのである。


 だからずるいと真樋は称したのであった。



「同僚に話した事がある。身体だけの関係ってアリなのかどうか。」


 夢月は何も言葉を発しない。


 ただ、黙ってその先に続く言葉を待っているようだった。


「その同僚は多様性が求められる今の世の中なら、当人同士が良ければ良いんじゃないかとは言っていた。でも自分はナシだけどねとも。」


 出向をした時に、宇奈月に問いかけた内容である。金田の想いに対して身体だけでも答えるべきなのか迷った時であった。


 しかし、片方がLOVEで求めている以上、例えフリーで裏切りや浮気でないにしても、身体だけ繋がる関係に対して正確な答えが自分一人では出せそうになかったのである。


 もし身体だけを受け入れてしまっては、その先に待つ責任に繋がると考えていたからだ。


 避妊をしていても100%というのには無理がある。


 万一を考えると、先にある責任を、責任と言うと軽視していると捉えられるかもしれないが、義務や責任を負えるかどうか。


 欲を発散させる事に対して難しく考えているきらいがあるのかもしれない。


 世の中の男女が深く考えているかまでは、真樋にはわからない。


 真樋は行為の先にある命の事を考えてしまうのには、美結という存在がどうしても過ぎってしまうのである。


 望む望まないに関わらず、新しい命が宿る事までを考えてしまうのであった。


「それって、お前を傷付けたあの男がやってる行為と、どこが違うのかって考えてしまうんだよ。」 


 夢月はそれでも良いという。苦しみに耐えていた時にでさえ、真樋への想いは変わっていなかったのだ。


 そこに至るまでの過程を誤っただけで、感情までは誤ってはいない。


「他の人ならそうだけど。真樋には違う。虫が良すぎるのも理解してるし、無茶苦茶言ってるのも理解してる。」



「本当に、嫌いになれたら、恨みで一杯になれたらどんだけ楽だったろうな。」


 15年前の自分の感情に後悔を感じずにはいられない真樋だった。


 幼児の頃から知ってるその表情を、真樋は振り解く残酷さは持ち合わせてはいなかった。



「その件は、おいおい。家庭教師はいつからやれば良い?」


 だから真樋は問題を先送りにする事に決めた。

 

 それが妥協案であると言いたかった。


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