第26話 大学生⑩ ホームランと見送り三振

 献血で良い意味でもやもやが減った真樋は、多少気が抜けたコーラ状態となっていたりはするが、平々凡々として日々を過ごしていた。


 大学で講義を受けて、サークルでぼやぁっとして、献血で血と毒気を抜いて。


「温泉行くか……」


 そう呟いては電車で行ける範囲で浸かりに行っていた。


 恋の病は草津の湯でも治せない。


 北関東の様々な温泉地に行くが、真樋の気分が完全に晴れる事はなかった。


 泉質の問題でも、心の持ちようの問題でも、気分の問題でもない。


 失恋の痛みに特効薬はない、あるとすればそれは人によって違う。


 新しい恋で吹っ切れる者、時間が解決する者、パーっと飲んで吹っ切れる者、何か違う趣味を見出し吹っ切れる者。


 場合によっては異性が苦手となる者、人間そのものを嫌悪する者等と様々である。


「白濁とした湯がまるで……」


 塩原の新湯温泉は硫黄泉である。そのため温泉の色は白濁としていた。


 その匂いもまた独特で、人によっては腐った卵と想像する者もいるだろう。


「泥湯パックか。」


 成分豊かな乳白色の硫黄泉の源湯からとった泥湯パックである。


 身体の気になる箇所に泥湯を塗って3分程放置、その後洗い流すだけである。


「失恋の傷は……何処に塗れと?」


 真樋はとりあえず桶から掬った泥湯を全身に塗りたくった。


「効くかどうかはわからないけど、気の持ちようかな。」


 湯めぐりスタンプラリーを購入した真樋は、那須塩原にある10以上の温泉施設を廻っている。


 日帰りで回れる数には限度があるので、一度の来訪で回れる施設には限度がある。


 夏休みに入れば宿泊込みでいくつか回れるのだろうけれど、夏休みまではまだ数日あった。



 約一ヶ月で真樋の周囲は変わっていった。


 態々真樋に夢月との事を聞かなくなったのである。


 恋愛事情故に下手に踏み込んでも仕方がないというのが一番の理由であるが、夢月の名前を出そうものなら真樋の背筋が老人のように曲がり、周囲の温度が5度は下がったような感じになり、真樋からの溜息で二酸化炭素濃度が高くなる……気がするからである。


 友人達も最初の頃こそ連絡を取ろうと電話やメールをするものの、受話に至った事がなければ返事があった事もなかった。


 そのため、原因は恐らくは夢月側にあるのだろうと憶測はするものの、それ以上言及する事はなかった。


 真樋が沈む度に建物の陰等からギャル風の女生徒が一人、心配そうに見つめていた。


 


 蝉が鳴き始めた7月は中旬。爺眠眠ジージーミンミンと老人と中華料理屋みたいな名前が音となって攻めてくる。


 太陽が沈む時刻も随分と遅くなっていた。


 夕方4時を超えてもまだ太陽の陽りも熱も人々の身体を襲う。


 半世紀も前であれば、気温30度なんてものは夏の甲子園大会くらいのものであった。


 小学校のプールの授業が水温が足りずに中止になるなんて事もあった。


 しかし現代では、夏の甲子園大会は40度に迫り、プールは雨などの悪天候を除き中止になる事はない。  





 その日の真樋は講義が終わり、バイトもないため早目の帰宅となった真樋は、無意識の内に足が動いていた。


 高校に入って辞めたはずの野球。


 遊びでも数えるくらいしか行った事のない、地元のバッティングセンターへと足が向かっていた。


 真樋は何故こんなところに来たんだろう?と一瞬思い起こしてみるが、答えが出る事はなかった。


 せっかく来たのだから少しくらいやっていくかと思い、空いているボックスを見つけると中に入り、100円玉を取り出した。


 昭和と平成の元号が掛かれた100円玉を挿入すると、残玉が表示される。


 金属バットを持って、中学の頃までを思い起こしながらバットを構えた。


(昔は……夢月が見てくれてたっけな。)


 シュッ……ボスッ


 シュッ……ボスッ


 考え事をしているため、真樋がボールを捉えられるはずもない。


 それどころか一度もバットを


 振れないのか振らないのか。真樋の心情はどちらだろうか、もしこの場に黒川達がいても答えられる事はない。


 真樋の焦点はピッチングマシーンの球の射出口を捉えていない。


 眼圧検査をする機械を覗いている時のような、ぼやけた視界となっているのだろう。




 真樋の眼前には平成の怪物と称された甲子園のスターでもある、縦浜高校の松板投手モデルのピッチングマシ―ンから放たれるボールと対峙していた。


 そのバッターボックスの外には【150km/h】と球速が書かれている。


 真樋はバッターボックスに立ち松板投手に目線は向けているものの、先程から変らずその目線が何を捉えているかまでは定かではなかった。



 シュッ……キィンッ


 シュッ……キィンッ


 真樋の隣のボックスでは左バッターボックスに立ち、見事にボールを跳ね返している人物がいた。


 その内のいくつかは【ホームラン】と書かれた赤いプレートにライナーで直撃していた。


 しかし真樋はホームランに当たった時に流れるアナウンスや、煌びやかな電飾に気付く事はない。


 松板投手から放たれる150km/hの直球をただ見送っているだけだった。



(まともに見えていたとして、こんな球当たるはずもない。)


 中学生の平均球速は110km/h前後である。


 強豪校に推薦されるような中学3年生で130km/hを超えるといったところである。


 例外は当然存在するが、一般的に数値化するとそのくらいの速度である。


 ただし、バッティングセンターの球と人が投げる球ではその性質までは同じではない。


 ある程度の実力を持った投手が投げる球は回転数、所謂キレというものが存在する。


 同じ球速でも体感する速度や軌道は違って見える、感じるのである。


 残り何球かを残したところで真樋に向かってヤジ……というか声が掛けられる。


「へいっ兄ちゃん!当たるモンも当たらないぜ!」


 真樋に声をかけたのは、隣のボックスで左打席で綺麗なライナーを打ち返している女性だった。


 40年程前に少年漫画である、きまぐれオレンジドーロの鱒川マドカを彷彿とさせる、長くたなびく黒髪が印象的であった。


 麦わら帽子を被っていたりはしないが。


 200円で投げられるボールは20球である。


 全てのボールをただの一度もかする事無く終えた真樋は、網を潜りバッターボックスから退出する。



「何があって呆けたままバッターボックスに立ってたか知らないけど、あのままだとマジで危ないぞ。やるならきちんと前を、ボールを見ろ。そうじゃないなら帰った方が良い。」



 入れ替わるように声を掛けてきた女性が150km/hのボックスへと入って行く。


 真樋はボックスを移動し、130km/に挑戦する。


 女性の言葉で何か吹っ切れる事があったのか、先程までとは違いその目は周囲を確実に捉えていた。


 小銭入れから100円玉を2枚取り出すと、硬貨を機械へと投入する。


 構えからは先程までの虚空を見ている様子とは違い、ピッチングマシーンの玉の射出口を見据えている。


 そして、自分の心の内を吐露するかのように鼻歌を口ずさんだ。


「もう恋なんてしないなんて~言わないとは限らない~!」


 最後の【い~】のところでバットの芯がボールのほぼ中心を叩いた。


 

「おー、赤いボードに当たったな。やれば出来るじゃん。」


 150km/hのボックスに立っている女性から賛辞の言葉が贈られる。


「いや、あなた俺がかすりもしなかった150キロ、楽々打ってるじゃん。」


 ホームランこそないものの、全てのボールをどん詰まる事無く返していた。


 その金属音はどれも心地の良い芯で捉えている音だった。


「これでも経験者だからな。今も鈍ったりしないようにこうして打ちに来てるし。」


 真樋の目から見ても、そのフォームは綺麗なものだった。


 決して尻のラインが綺麗だなとかそういった類ではない。


 バットを構える姿勢や重心移動、肘の畳み方から腰の回転等、とても素人とは思えないものだという事が真樋には理解出来ていた。


「それと、これでも近所の少年野球チームでコーチやってるからな。他のコーチからは鬼コーチと呼ばれてっけど。」


 女性気さくで男勝りな口調で話す。


「ところで、あなたは誰なんですか?俺は地元の大学1年生ですけど。」



「ん?あたしは少年野球チームのコーチで、プロ野球選手の妻で、一児の母だ。年齢はそんなに変わらないけど教えない。」



「は?」


 真樋は開いた口が塞がらなかった。およそ斜め45度からの回答のためである。



「だから主婦だって。」



 ホームランボードに当てた人はリストに名前と本数が掲載される。



 そこにはダントツの一番で名前が掲載されている人物が一人。


「あれ、あたし。」と、そこの一番上の名前を指さして自己アピールをしていた。


【柊恵(旧姓:種田)593本】



「絶対投げて当てたやつが混ざってるだろっ」


 年齢も初対面という事もかかわらず、真樋は反射的に言葉を返した。


「んな事してねーよ。残念ながら全部打ったヤツなんだよなぁ。昔あったからな。」


 かつてホームランを争った夫である柊真白とは、お互い負けじとホームランを量産していた。


 そのせいで通常ではありえない本数のホームランが出たわけであるが、柊真白がプロ野球選手になった事により、彼の記録の更新はほぼ止まっている。


【柊真白138本】


「あんたの旦那もバケモンだな。普通は二桁打ったら神様仏様バァース様だよ。」


 女性……柊恵は一旦小休止のためか、自動販売機でスポーツドリンクを購入すると腰を掛けた。


 それに倣って真樋も水のペットボトルを購入すると、キャップを開けて水を流し込む。


「そういえば、年齢はともかく。最初からタメ口ですね。」


 真樋は冷静になれたのか、今更のように疑問を口にする。



「スポーツやってたらそんなもんじゃないか?部活の延長?多少失礼なのは元ヤンって事で勘弁してくれ。」


 柊恵はツッコミのように手の甲でポンポンと真樋の二の腕付近を叩く。


「そうそう、なんか死にそうな顔してたけど少しはすっきり出来たみたいだな。少年、もし良かったら子供達に指導するの手伝ってくれないか?」


 唐突な誘いを受ける真樋。新手のナンパか?と思いかけるも、先程主婦だと言っていた事を思い出す。


「土曜か日曜のどっちかだけでも良いからさ。コーチも人手不足なんだよ。基本無給だしな。」


 真樋にとっては悩みの種が増える。しかしその種は必ずしも嫌な事や悪い事とは限らない。


 悪いイメージを抱くのは、将来の就職に備えた資格などへの勉強時間が減るというもの。


 良いイメージを抱くのは、学業やバイト等に加え、夢月に振られ心が悶々とした状態を発散させるための、新しいチャレンジという面である。





「桜小学校のグランドで、ほぼ毎週土日の午前中に練習してるから、気が向いたら直接訊ねてくれれば良いよ。」


 連絡先を手渡すなどという事はなかった。




「真道真樋です。」


 ゴミ箱にペットボトルを捨てる柊恵に向かって、真樋は自己紹介をする。


「ん?」


 顔だけ真樋へと向けて耳を傾ける。


 周囲ではキィン、キィンとバッティングの音が響いている。


「俺の名前ですよ。貴女の名前はあのボードで強制的に知ってしまいましたからね。フェアじゃないって思って。」



「変なところで律儀だな。まぁいいか。おっといけね、あたしは帰るわ。保育園に子供迎えに行かないと先生ダチに叱られるわ。」


 時刻は17時に迫っていた。時計を見た柊恵は本来の自分の予定へと戻る。


 鈍らないためとのもあるだろうけれど、時間調整のためにバッティングセンターに来ていたのだろうと、真樋は感じていた。




「色々忘れるためには、違う事をするのも手なのかもしれないけど……野球か。思い出しちゃいそうな事が多いけど、嫌な人ではなかったからなぁ。」


 幸いにして真樋は人間嫌いにも異性嫌いにもならなそうであった。


 少なくとも、停滞して泥沼に沈んだままという心情だけは回避出来そうな晴れやかさを抱き始めていた。


「まぁ、あいつの事を完全に忘れるのは無理だろうから、恋愛は当分見送り三振で良いけどな。」


 看護師の月見里彩希も、先程の柊恵も人妻で子持ちである。


 真樋が立ち直る立ち直らないはともかく、そもそもが世間的には恋愛対象に見てはいけない存在であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る