第127話 猫の不養生 (3)

 「うわぁ……それで、目薬は無事差せたの?」


 根岸の話を聞いた諭一ゆいちは、何とも言えない顔で呻く。


「今の所は何とかね。藻庵そうあん先生からコツを聞きましたし」


 彼らは音戸おとど邸の台所へ移動していた。一先ず諭一が持ってきたプリンを冷蔵庫に仕舞おうというのだ。

 それに、またミケに薬を差さなければならない。


 根岸は自分の足首にまとわりつき横腹を擦りつけていたミケを抱き上げ、椅子に深く腰掛けた。


 幸いにもミケの意識や記憶は、これまでと完全に断絶している訳ではない。

 名前を呼べば反応するし、明らかに根岸を『主人』と認識して懐いている。藻庵や諭一の顔を見ても警戒せずに愛想良く鳴いた。

 好物はカツオ入りのドライフードなのもそのまま。自分の寝床も覚えている。

 雁枝の事も記憶しているのか、まだ整理の出来ていない彼女の部屋に入ると、ロッキングチェアに飛び乗って頻りに匂いを嗅いでいた。


 ただ、思考と言動が普通の猫になっているだけだ。想像しづらい状態だが。


 だから今もミケは、ごくリラックスした様子で根岸に抱えられた。少なくとも今は。


 ここから片手でやんわり頭を支え、隠し持っていた目薬を取り出し、正面ではなく後頭部側から素早く点眼――というのが、一般的なペットへの目薬の差し方だ。


 しかし、既に昨日から数回目薬を差されたミケは、嫌な事をされると学習してしまったらしい。根岸が胸ポケットから目薬を取り出そうとした途端、ウニャウニャとぐずるような唸り方をして腕の中で暴れ始める。


「あっ、危なっ、諭一くん! あれ、持ってきてくれたササミ! おやつで気を引いて!」

「お、オッケ! えーっと、ミケちんほらほら! おやつだよ!」


 急ぎパックを開封した諭一が、ミケの鼻先にササミの欠片を近づける。

 ミケはちょっと匂いを嗅いでから、すぐに差し出されたササミをむしゃむしゃと食べた。気に入ったらしい。

 大人しくなったところですかさず根岸は、頭を固定して目薬を落とす。


「フミャッ」

「右目完了です! 次、左! ササミもう一切れお願いします!」

「ミケちん、あーっ袋ごと噛んじゃ駄目だって! 破れる! あああ!」


 開けっ放しのササミパックの方に興味を示したミケが身を乗り出し、慌てて引き離そうとした諭一はパックを取り落とす。台所の床にばらばらとササミ片が散らばった。


「うわああー……!」

「よし、終わり!」

「ニャアー」


 思わぬトラブルでミケが固まった隙に、根岸は左目への投薬を成功させる。

 諭一は混乱し、ミケは恨めしそうな鳴き声を漏らしたが、根岸は思わず安堵の息を吐いていた。


「諭一くん、ありがとうございます……。あ、掃除やっとくんで」

「ごめんよ、手伝うよ」


 せっかく持ってきた見舞い品を半分近くも床にぶちまけてしまった諭一は、しょげかえっている。

 しかし、この量のおやつをミケが一度に拾い食いしたらカロリーオーバーだ。とりあえず二人は一段落の前に、ミケを居間の水飲み皿の前まで連れて行った上で散らばったササミを掻き集めた。


「この家に猫用のウォーターボウルなんてあったんだ」


 と、首を傾げる諭一である。


「ミケちん、普段は人間のコップで水飲めるじゃん? ていうかお茶淹れて客に振る舞うまで出来るっしょ。ぼくも淹れて貰ったけどメチャ美味かった」

「なんでも、たまに猫として過ごしたくなる日というのがあるんだそうですよ」


 以前、根岸も同じ疑問を呈した事があったのだが、その時のミケの回答はこうだった。

 雁枝が留守で来客の予定もない時などには、日がな一日猫の姿で過ごし、気まぐれにキャットフードを食べて毛糸玉にじゃれつき、裸のまま(勿論猫の状態で)縁側に寝そべる、という『娯楽』を堪能していたのだと。


「ふぅーん? まあ、ミケちん本来猫だしね。ひょっとして、人間の姿でいる時は無理してんのかな」

「『猫には食えないレバニラを食って晩酌したりするのも、それはそれで別腹として楽しい』とも言ってましたが」

「……。多方面に趣味があるのは良い事だと思うけどさ」


 ピンと来ない表情を浮かべる諭一の左腕で、刺青タトゥーがうごめき文字列を形成した。


『理解出来る』


「あ、『灰の角』が同意した」

「ええー。ぼくもたまに曾祖父ひいじいちゃんに身体貸してあげるべき? 雪山とか行って遊ぶ?」

『そこまでしなくとも良い』


 獣性を秘める怪異同士、『灰の角』とミケの間にはしばしば通じ合うものがあるらしい。


「ふう、大体拾い終えたかな。あとは細かい粉とかを……」


 床に四つん這いになっていた諭一がその場で立ち上がり、ふと室内を見回した。


「そういや、この家の掃除ってミケちんがやってんの?」

「……恥ずかしながら。大体はそうです」


 相手は何気ない質問のつもりだったようだが、根岸は少なからず狼狽し、恥じ入りつつ応じる。


「恥ずかしながら?」

「家政技能のレベルに大きな開きがありまして……」


 否、正確には家政技能のみの話ではない。そもそもの身体能力が桁違い過ぎる。

 何しろミケによる廊下の雑巾がけは、楽に時速九十キロを超えるのだ。


「いやいやいや!」


 根岸の話に、諭一は目を丸くした。


「時速九十キロで雑巾がけしたら、発火するでしょ雑巾! 少なくとも一瞬で擦り切れる!」

「コツがあるんだとか」

「コツで済む問題!?」


 諭一は納得しかねる様子だが、ミケ当人がそう語るのだから仕方ない。


 なお、音戸邸のフローリング部分は無垢材で出来ている。定期的なワックスがけが必要なのだが、これもミケは先日の補修工事のついでに、瞬く間に済ませてしまった。


「箪笥や冷蔵庫どころか、乗用車くらいまでなら一人で持ち上げて運べますしね……」

「ミケちん、『灰の角』をぶっ飛ばせるからなあ」


 何よりミケは、音戸邸の事を知り尽くし、しかも昔ながらの掃除方法に精通している。

 畳敷きの間の手入れからはりの上の埃取りまで、根岸には不慣れな仕事もこの家には多いのだ。


 そして料理の腕前の差に関しては、言わずもがなである。


「そういう具合なので、僕に出来る家事となると自分の部屋の掃除と洗濯と……あとはちょっとした手伝いくらいでして」


 音戸邸の耐震補強工事中は家じゅうの家具を動かしたりしたので、それなりに根岸が手伝える部分があったのだが、今後はどの程度、あるじとして屋敷の維持に貢献出来るものだろうか。


「あれ、なに、ネギシさん割と本気で劣等感気味? そんなの気にしてもしょーがないじゃん。ミケちんはずっと歳上だし、元々が――何だっけ――空襲のせいで生まれた無茶苦茶強い妖怪なんでしょ? その怨みの力で暴れるんじゃなくて、ごはん作って掃除してくれるんならサイコーっしょ。ミケちんもそう思ってるよ」


 諭一の主張は至って明瞭で、その通りだと根岸も思う。

 ミケ自身が望んだ生き方をしているなら、あとは根岸の心一つの問題だ。


 真剣に考え込む根岸に対して、諭一は「もーそんなマジになること?」と呆れ返る。


 その時、廊下の方から微かな、しかし不吉な音が聞こえてきた。


「……あっ」


 顔を上げた根岸は、大急ぎで廊下に飛び出す。


 案の定、音の発生源はミケだった。居間で水を飲んでいたはずの彼が廊下に出てきて、柱に前足を引っ掛けてバリバリと爪を研いでいる。


「わーっ文化財ぃーっ!」


 迂闊にも、猫の持つ重大な本能を忘れていた。

 この邸宅は全体が都指定特殊文化財。襖絵ふすまえ一枚、欄間の造作に至るまで芸術作品として仕上がっているのだ。


「ミケちーん、これ見て! 遊ぼう!」


 機転を利かせた諭一が、玄関の花瓶に挿してあった花の枝を一本抜いて振ってみせた。ミケは爪研ぎを中断して、そちらに狩りの体勢で飛びかかる。

 その花の枝は一昨日、ミケが綺麗に生けた小手毬こでまりなのだが、この際致し方ない。


「ニャーッ」

「ぎゃー!?」


 驚いた事にミケは、ひとっ飛びに根岸の頭上を超え、天井すれすれで身をひねり、諭一の肩口へと着地してしまった。やはり普通の猫より脚力が高いようだ。

 幸い爪や牙を立てられはしなかったものの、重量四キロほどの毛玉の砲撃を食らった諭一は廊下に尻餅をついた。


「いったた、ミケちん意外とアグレッシブだね……」

「大丈夫ですか」


 ミケは諭一を下敷きにしたまま、小手毬の枝にじゃれついている。


 流石に爪研ぎ用の板のとなると、この家で見かけた覚えがない。もしあったとしてもどこに仕舞われているのやら――知っているであろうミケはご覧の通りである。

 どうしたものかと根岸が頭を抱えたそこに、更なる新たな音が響き渡った。


 インターホンの呼び出し音だ。


「はっ、はいはい」


 応答すると、カメラの前に立っていたのは志津丸しづまるだった。


「よう、師匠がミケの見舞い行けっつーから来たわ。なんかすげークルマ停まってんな、根岸の?」


 カメラの前でそう語りかける志津丸は、大きめの紙袋を小脇に抱えている。


 ミケの体調不良については、念のため昨日のうちに天狗の山里にも電話で連絡を入れていた。

 万が一、先日の激甚げきじん襲撃級の事態が起きた時に今の音戸邸では対処出来ない。志津丸と瑞鳶ずいえんには相談しておいた方が良いだろうと判断しての事だ。


 何をやってんだよ――と軽口を叩きながらも、志津丸は大分動転しミケを心配している様子だった。


 今も、師匠が行けと、などと言いつつ実際には自分から見舞いに来たのではないかと思われる。


「おー、しづちゃん!」


 諭一がミケを抱えて玄関扉を開けた。


「あの車、ぼくの。ヘッヘ、アメしゃのボディつよつよでしょー」

「なんだ、オメーかよぼんぼん」

「いきなり酷くない?」


 志津丸の冷たい感想に眉尻を下げ、それから諭一は庭先に視線を投げる。


「ん? もう一人お客さん?」


 戸惑うような諭一の言葉を聞いて、根岸も玄関口に立った。

 諭一の車の傍らに、志津丸が愛用するバイクが停められている。

 そしてその機体にもたれていた人物が、濡れそぼった長い黒髪を手指でもてあそびつつ足先をこちらに向けたところだった。


「……継いだ早々に災難ね、音戸のあるじ

「あ――アメヤリ――さん?」


 と、根岸は彼女の名を呼ぶ。


 メキシコ出身、ラ・ヨローナのアメヤリ。司法書士兼行政書士でもあり、音戸邸の相続に際し諸々の書類を作成――部分的には捏造――してくれた怪異だ。


「ああ、葬儀の時の」


 諭一も思い出した様子で何度か頷いた。


 するとアメヤリは物憂げな眼差しを諭一に注ぎ、彼へと歩み寄る。


「え……な、何……?」


 諭一の腕の中に納まっているミケの容態を見ようとしたのかと思えば、そうではない。

 彼女は諭一の首筋に鼻先が触れるほど近づき、すう、と息を吸うような仕草をして眉根を寄せた。


「あの、お姉さんみたいな人に近づかれるのは歓迎っちゃ歓迎なんだけど……ど、どうかした? ぼく――変な臭いだったり?」


 実年齢はどうあれ、外見上、アメヤリは妙齢の女性である。

 ほっそりした肢体に、濡れて肌に貼りつく白い民族衣装。あでやかさもあるが、一方で根岸や志津丸よりも怪異然としたあやしげな雰囲気をまとっている。

 諭一としては複雑な気分だろう。


「アメヤリさん、彼は怪異憑きで……」

「知ってるわ。あの夜も会ったでしょう? ウェンディゴ憑きね」


 人間に不信感があるのかと、根岸が慌てて間に立とうとしたところ、彼女はゆるりと片手で制した。


「ただ、今ほんの少しだけ……水の匂いがしたの」

『水の匂い?』


 『灰の角』が刺青タトゥーを変形させて問い返す。


「……まあ、多分……気のせいね。探し物の最中だから、過敏になってるんだわ」


 と、アメヤリは一人合点して諭一から半歩分離れ、ついでとばかりに彼の胸元で大人しくしているミケの耳裏を軽く掻いた。


「天狗から話は聞いてたけど……随分と、可愛らしくなってるのね音戸の家令は」

「ニャ」


 アメヤリに対しても、ミケは特段警戒の姿勢を見せなかった。彼は短く鳴いて、夕暮れの冷たさを伴い始めた外の風に両目を細めた。

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