第126話 猫の不養生 (2)

 西に傾き始めた太陽の光に目を細め、根岸は庭先から音戸おとど邸を見上げていた。


「……やっぱり薄れてるな、結界」


 新たに使いこなせるようになった結界術『静界保持リティゲーションホールド』。

 任意の場所を『聖域』に定め、許可を得ていない怪異の出入りを阻む、本来は人間が使う方術だ。

 持続時間は丸一日程度――のはずなのだが。


 今朝、午前六時過ぎに邸宅の外壁に張り巡らした術は既に薄れ、消えかけている。

 現在時刻は午後三時三十分。ほぼ九時間、半日ももちそうにないという事だ。


 何しろ音戸邸はそれなりの広さがある。結界術は、人間一人の視界に納まる一部屋分程度までを効果範囲とするのが一般的だ。それを無理矢理家の外壁全体に張ったせいで、術としての造りが粗雑になったのだろう。


 それでいて、朝から慣れない方術など使ったものだからクタクタになってしまった。


 先代家主に比べて術の出来は悪く、術者は疲労困憊ひろうこんぱい。不安を覚える出だしだ。


「でも、雁枝かりえさんが言うにはそうだし――」


 根岸はベースが死者、しかも一個の魂から生まれた幽霊なので、周囲の自然界の精気を取り込んで肉体を成長させる事が出来ないし、筋肉を鍛えたりするのも難しい。

 ただし精神は別だ。

 元々が曖昧な存在である分、幽霊は思いの強さ次第で並外れた力を発揮し得る怪異でもあった。


 慣れる、という言葉は雁枝らしく平易だが、つまるところ根岸はこれから術者として熟達出来る。そうあってくれと彼女は遺言したのだ。


 彼女に後を託され、やると決めたからにはやっていくしかない。

 ミケを頼り切ってばかりではいられない。


 ――そう、確かに数日前、決意はしたものの。


 実を言うと、今朝はそれ以外にも疲れ果てる仕事があった。

 ミケの身に起きた異常に関わる事である。


 なお、音戸邸の前主人雁枝かりえの消滅から四十九日間、東京都特殊文化財センター職員(法的には備品)としての根岸の業務は、諸々のイレギュラーに対応しつつ音戸邸管理の新体制作りに専念する事となっている。つまり他の現場に出向く仕事は免除という話で、そこはありがたい。


「トクブンもイレギュラーが起きる事は予測してたけど。本当にミケさんを頼れない事態が、こうも早くに来るとは……」


「え、ミケちんが何?」


 突然の声に、根岸は驚いて辺りを見回す。

 すぐ横手の庭木の向こうから、諭一ゆいちがひょっこりと首を覗かせていた。


「諭一くん?」

「ミケちんのお見舞いに来たよー。ね、そこって車停めてもいい?」

「あー、はい。停められますか?」

「頑張ってどうにかする」


 明治期に建てられた音戸邸の庭の造りは、マイカー時代を想定していない。後年になって来客用駐車スペースが設けられたようだが、明らかに停めづらそうだ。


 それでも諭一はえっちらおっちらと愛車を押し込め、買い物袋を提げて降りてきた。


「これ、今日の授業のノートのコピーと、あと一応……プリンと……猫用おやつのササミ。猫又が風邪ひいた場合って、どういう差し入れするもんなのか分からなくてさ。人間用と猫用の見舞い品両方持ってきちゃった」

「うわ、ありがとうございます。風邪というか――食欲自体は問題ないし、元気そうなんですけどね」


 根岸がありがたく袋を受け取ってそう打ち明けると、諭一は「え?」と拍子抜けした風に声を上げる。


「なーんだぁ、電話も出来ないくらいの体調なのかと思った」

「電話は無理ですよ」

「んっ、どゆこと?」


 今度は怪訝な顔をされた。


「……実際に会った方が早いかと」


 と、根岸は邸宅の扉を開けて諭一を招き入れる。

 すると二人が靴を脱ぎ終えるより先に、廊下の向こうから肉球の立てる微かな足音が近づいてきた。


「ニャー」


 玄関に現れてそう鳴いたのは、ミケである。黒毛と赤毛で綺麗に分かれたハチワレ模様の顔、艶やかな毛並みに二本の尻尾。いつもどおりの猫の姿だ。


「おっすーミケちん、元気そうじゃん」


 嬉しそうに呼びかける諭一に対して、ミケはちょっと首を傾げる格好で彼を見上げた。

 最初に鳴いたきり、口は閉ざしている。普段であれば、「おう、よく来たな」とでも応じそうなところなのだが。


「……ミケちん? あれ、ぼくだよ?」

「見てのとおりなんですよ」


 溜息と共に、根岸は眼鏡の位置を正す。


「昨日からミケさん、言葉を喋らなくなりまして。人の姿に変化へんげもしないんです」

「えッ、えええ!?」


 諭一は仰天し、彼の大声に反応してミケが迷惑げに両耳を倒した。


「それって――普通の猫になっちゃったってこと!? いやでも尻尾は二本あるし……!」

「昨日のうちに一度、藻庵そうあん先生に来て貰ったんですが」


 そう言って根岸は、その時の出来事を思い起こした。



   ◇



 電話を受けて間もなく訪ねて来てくれた藻庵は、ミケの様子を見るなり、


「ああ、もしかしてと心配してたが、やっぱりこうなっちゃったかねぇ」


 と、丸眼鏡の奥の目をしょぼしょぼ瞬かせた。

 この状態を予測していたのかと根岸は驚く。

 ミケはというと、根岸の膝の上で呑気に丸まって目を閉ざしている。


「ミケくんは八十年間、雁枝さんの使い魔をやってたからねぇ。しかも怪異として顕現した直後からだ。つまり、霊威を完全解放された状態に慣れてないんだよ」


 さらに言うと、やむを得ない事態ではあったが、雁枝との契約を解除して即座に己の力を全開にし、イーゴリとの死闘を制した。そしてその後は葬儀の準備で、数日間気を張りつめっぱなしだった。


「人間の身体で例えるなら……そうだねぇ、長年三食おかゆばかり食べていたのに、ある朝突然ステーキ定食二人前食べた人の胃袋みたいな」

「そんな人生を送る人間は滅多にいませんが……」

「まぁものの例えだよ。そうすると、お腹を壊したりするそうじゃないか。そんな感じの状態だね」


 見た目こそ普通の猫として元気そうにしているが、彼の体内では霊威の巡りが悪くなり、猫の姿を保つ以外の異能を発揮出来なくなっている。要は体調不良である。


「雁枝さんの使い魔でなくなったから……。とすると、ずっとこのまま?」

「まさか。そう深刻にならなくて良いよ、こういうのは案外よくあるんだから。放っといても数日か……数ヶ月くらいで治るだろうけど」

「す、数ヶ月ですか」


 幕末生まれで高齢河童の藻庵は、どうも月日の感覚がアバウトだ。


 音戸邸はあるじが交代したばかりである。先代の雁枝はこの近辺の怪異らの顔役で、国内でも有数の大物だった。

 そんな彼女が消滅した今、荒っぽい気性の怪異が何か厄介事を起こしてもおかしくはない。この邸宅の家令であるミケが会話もままならない状態では心配だ。ミケ自身も名高い怪異だから、彼に危害を加えようとする者もいるかもしれない。


「うん。もし治療を急ぐようなら、こういうのがあるがねぇ」


 くるりと、藻庵は手首を回した。その手の平の上に小さな陶器の壺が現れる。


 壺は何かの液体で満たされているようだ。藻庵は続けて、スポイト風の細長い容器に壺の中の液体をいくらか移して、根岸に差し出した。


「はい、目薬」

「目薬? 体内循環霊威の治療に?」

「猫又の霊威は、主に両眼に宿るんだよ。これを日に三回、目に差してあげれば、まぁ二、三日くらいのうちに治るだろうねぇ」

「そうなんですね」


 根岸はほっと肩の力を抜いた。どうなる事かと思ったが、確かにそこまで深刻な事態ではなさそうだ。


「ただし、気をつけないとね」

「はい?」

「今のミケくんは……一応、君の顔を覚えてはいるようだけど、ほぼ普通の猫並みの判断能力だから……」

「あっ」


 ――自分の身体に投薬が必要だという事が、言葉で説明しても分からない。


 ふと見下ろせば、ミケが膝上からこちらを凝視している。根岸が妙な香りのする容器を持っていると気づいたのか、何度か鼻と耳をひくつかせ、そろりと膝から離れてしまった。


「あの、ミケさん」

「ウニャーッ」


 引き止める暇もない。

 抗議めいた鳴き声をひとつ上げて、ミケはその場から逃げ出した。目にも止まらない速度である。


 程なく天井から、とととっと小さな足音が聞こえてきた。文字通り瞬く間に、二階まで駆け上がってしまったらしい。


「ううん。流石に、普通の猫よりもう少し察しが良いし、運動神経も優れたままみたいだねぇ。大体サーバルキャットくらいかな。これはネギマくん、お大事に」

「僕、根岸です――ていうか、僕が『お大事に』なんですか?」


 いや、文句を垂れてはみたものの、熟考するまでもなく藻庵の言うとおりだ。


 根岸も子供の頃に犬を飼った事はある。最後の数年は老犬だったから、看病した経験もある。

 亡き愛犬ムギは、温和で聞き分けの良い柴犬だったが、それでも看病はなかなか大変だった。

 そして現在、我らが音戸邸の家令は、柴犬を凌駕する猛獣も同然の状態という訳だ。


 当然ながら、サーバルキャットに目薬を差した経験など根岸にはない。

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