第124話 魔女の殯 (9)
屋内から漏れる薄明かりによって、音戸邸の庭の景色がぼんやりと浮かび上がる。
ひらひらと舞い飛んでくる花びらは、庭木ではなく街道沿いに植えられた桜並木からのものだ。管理しているのは都だったか市だったか。
四月とはいえ真夜中にもなると、まだ多少冷え込む。ミケが温かな緑茶を持ってきて
「あたしは……長らく信心とは縁の遠い生き方をしてきたけど」
茶を一口二口飲んでから、雁枝は独白めかして呟く。
「秋太郎、最後にお前がこの屋敷に化けて出た事には、何か
半ば瞼を下げて、彼女は続けた。
「……人間のお前が死んじまったのは本当に気の毒だが」
「――ええ」
根岸は首肯した。実のところ、よく似た感慨を抱いていた。
彼は決して、死にたかった訳ではない。今も死の瞬間の記憶は、苦痛を伴う『嫌な思い出』だ。
しかしあの事件からの目まぐるしい数か月間を思い返すと、悪い気分はしない。
多くの思いがけない出逢いがあり、新たな感情を抱き、成長した。
運命、あるいは宿命。
怪異の
しかし――根岸は心の奥底で、どこかその存在を肯定している。
今ここにいる事実が、運命の導きによるものだったのかもしれないと。
ごく短い根岸の返事に、雁枝は満足したような笑い声を立てた。
「好き放題、罰当たりな生き方をしてきたあたしが、最後にこんな褒美を貰えるだなんて。果報だ、全く」
それから彼女は、茶の盆を抱えて脇に控えたミケの方を向く。
「あと……、心配事があるとすれば、お前のことかねえ。ミケ」
「俺?」
目を瞬かせるミケの横髪を、雁枝が軽く梳いた。
「御主人、俺はどうとでもなるさ。根岸さんだっている」
「この先のことはあまり心配してないよ。……ただ、これまで」
雁枝はじっとミケを見つめている。その両目が、僅かに潤んでいる。
しばらく躊躇してから、振り切るような面持ちで雁枝は口を開いた。
「コマを犠牲にして、あたしの
髪を梳いていた片手が両手になり、ミケの頬をやんわりと挟む。鏡写しのごとく、瓜二つの二人は向かい合った。
「あたしは、お前を幸せに出来ただろうか」
ミケは目を見開いたまま、沈黙していた。
根岸にも挟むべき言葉など浮かばない。ただ見守るほかない。
「何を……。随分今更、スットコドッコイな質問してくるんだな、御主人」
「おや。元主人に向かって何だい」
「そういえばもう『御主人』じゃなかったか。じゃあ、言わせてもらうが」
雁枝の両手に外から手を添えて、ミケはゆっくりと彼女の手を下ろし、優しく握る。
「俺はずっと、幸せだった。貴方の家族でいられて。そうに決まってるじゃないか」
ごく穏やかにミケは告げた。
それきり、庭に面した縁側は静まり返る。
家の奥からは何人かが密やかに動く衣擦れの音が聞こえてくる。外からは時折車の行き交う音がする。
しかし根岸の目に映る今この場は、時の止まったかのようだった。
長く続いた
「ああ」
深い、溜息にも似た声を雁枝は発した。
「あたしの仕事は、本当にこれで終わりだ」
あまりにも永い一生の、最後の吐息。
「……じゃあ、ミケ、秋太郎。達者でね」
夜の闇の中、雁枝の姿が薄れ始めるのが分かった。
根岸ははっとして腕時計を確認する。
日付は変わっていた。〇時二分。予言された時刻だ。
「雁枝さん……!」
分かっていたはずなのに、根岸は我知らず叫んでいた。
雁枝が少しばかり眉尻を下げて根岸の方を振り仰ぐ。その口が小さく、笑みの形に開いた。
しかし次の瞬間、彼女の姿は小さな三毛猫へと変わっていた。
「コマ」
囁くほどの声音で、ミケが姉猫の名を呼ぶ。
彼の姉もまた、今この時に本当の消滅を迎えるのだ。
猫が根岸からミケへと視線を移す。
その姿もほんの瞬きほどの間に揺らぎ、徐々に暗闇へと融け消えてゆく。
不意に、桜の花びらよりも小さな光をまとった粒子が一つ二つ、夜空へと昇っていくのが見えた。
それを追って根岸は視線を上げたが、既に光は星影に紛れてしまっている。
そして彼が再び縁側に目を落とした時、稀代の
彼女が腰掛けていたはずの縁側、寄り掛かっていた柱。ただの虚空となってしまった一点を見つめ、根岸はしばし呆然とする。
ミケも少しの間その場から動かずにいた。
しかし彼はやがて、意を決した風の顔で立ち上がり、からりとガラス戸を開けて和室へと戻る。
室内には、一旦退出していた
「ただいま、雁枝が息を引き取りました」
正座をして弔問客らと向き合ったミケが淡々と、しかしよく通る声で告げる。
「皆様、大変お世話になりました」
ゆるりと、ミケは一礼した。
根岸もそれに合わせて居住まいを正し、頭を下げる。
瑞鳶がにじり寄って、何も言わないままミケの肩を叩いた。
◇
残っていた面々が手伝ってくれた事もあり、葬儀の後片づけは思いのほか早く済んだ。
それでも、最後に志津丸と諭一を玄関から見送った時には、午前二時を回っていた。
もうバスも電車もない時間だが、諭一によれば、
「
とのことだ。
とはいえ、今夜は世界各地の大物怪異が
志津丸は大分気落ちしている様子で、そのせいかさほど飲んでもいないのに酒が回っていた。瑞鳶が無事連れ帰ってくれる事を願うしかない。
全ての弔問客が帰宅し、簡単にではあるが掃除も終わった音戸邸はがらんとして、どこか弛緩した空気が流れていた。
「……終わったな」
台所にて、洗い終えた数枚の大皿を見るともなしに眺めつつ、ぽつりとミケが呟いた。
「そう――ですね」
彼の背を伺う格好で、根岸は立っている。
「根岸さん、先に風呂でも入って休みなよ。疲れてんだろ」
「ミケさんは?」
「一応ぐるっと家ん中見回ってくる。忘れ物でもあると面倒だ。なんせ持ち主の住所が地球の裏側だったりするからな」
軽く肩を揺すって笑い、ミケは屋敷の奥へと続く廊下を歩いて行った。
◇
音戸邸の各部屋を見て回ったミケは、最後に奥の間の
雁枝が普段使っていた部屋だ。
彼女の気に入りのロッキングチェア、
棺の中には、猫用のクッションが据えられている。
「これも……いつかは、片づけなきゃあだろなあ……」
棺に手を添え縁をなぞりつつ、ミケは独り、冷えた夜の空気に語りかける。
「どうだったかね、御主人。概ねは望んだとおりに、段取りどおりに、看取りまで済ませられたと思うが。満足してくれたかな」
棺の前に、彼は膝をついて続けた。
「満足いくように……心残りのないように。やり遂げた……はずなんだが……」
自分の声が今日初めて震えを帯びていることに、ミケは気づいていた。唇がわななき、それでいて言葉が止まらない。
「生きてる奴ってのは、
蓋を閉ざした棺へと、ミケは縋る。その木蓋に大粒の涙が落ちた。
「寂しいよ、寂しいよ御主人……!」
自分も
何ら心残りのある看取りではなかった。
それでも、ミケはどうしようもない喪失感に抗えないでいる。
これが、生き残るということなのだ。
ミケは棺に取りつき、家路を見失った
◇
寝室の窓辺で、根岸は階下から聞こえてくる慟哭の声を耳にしていた。
自然と、彼の目にも涙が浮かぶ。
眼鏡を外して軽く目尻を擦った。
今はミケをそっとしておこう、と彼は思う。
八十年にわたって仕えた主人――いや、家族の死だ。安易に他人と共有出来るようなものではない。
分かち合いたい悲しみもあれば、独り占めしておきたい悲しみというものも、多分世の中にはある。
今夜はきっと、多くの怪異や人間が、それぞれに一つきりの感情を抱えて帰路についている。
五百年の時を永らえた
運命や宿命という言葉を、根岸は否定しない。
ままならない一生に翻弄されるしかない生命体が、その生き様に意味を見出す。
その行い自体を――少なくとも今は、
【魔女の殯 了】
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