第120話 魔女の殯 (5)

 根岸が奥の間に戻ってみると、志津丸しづまるは何故か庭に降りていた。


「なんかさ、そこの池に怪異が落っこちたみてーなんだ……」


 ミケを抱いて縁側まで出て来た雁枝に、志津丸は庭の隅の池を指差して説明する。


 音戸邸の庭の北東部に位置する小さな池だ。広さは一畳分もないくらいだが、古びた庭石に囲まれ、水面に蓮の葉の浮かぶなかなかに凝ったこしらえである。


 その風情ある池から水を滴らせ、ゆるりと這い出る人影がひとつ。


「ねぇ……どうなってるの雁枝」


 怒り心頭、というよりは寧ろ気怠けだるげな沈んだ調子で、その怪異は問いかけてきた。


「招待しておいてこんな、結界で追い出すだなんて……」


 モンゴロイドと見られる長い黒髪の女性で、眉も睫毛も黒々と豊かである。

 憂鬱な表情とは裏腹に、身にまとう民族衣装風の貫頭衣かんとういは白い生地に種々の花を象った見事な刺繍があしらわれ、随分と華やかだ。ただしその衣装も髪も、全身ずぶ濡れとなっていた。


「おや、アメヤリ」


 ごくあっさりと、雁枝は彼女に呼びかける。


「あんたひょっとして、うちの風呂場に飛ぼうとしたのかい。今このタイミングで」

「……そうよ、いつもどおりね。なのに結界が開いてなくてこのとおり」

「なるほど、根岸さんが張った風呂の結界にはじかれて、その最寄りの水場に出ちまった訳だ」


 雁枝の腕の中に収まるミケが、前足で顔を擦りながら呟いた。


「ネギシ?」


 アメヤリと呼ばれた民族衣装の怪異は、濡れて貼りついた横髪の合間から根岸の姿を両目に捉え、そのまま真っ直ぐに歩みを進めてくる。


 つい、根岸はたじろいだ。この邸宅の庭先で、長い黒髪の女型の怪異と向き合うとなると、どうしても一色綾いしきあやの霊に殺された時のシチュエーションを思い出してしまう。


「根岸秋太郎……。あなたが雁枝の相続人ね? 新しい結界を張ったのもあなた」

「そうだよ」


 雁枝が根岸に代わって答え、ひとつ苦笑を漏らした。


「アメヤリ、勘弁しとくれ。結界であんたをはじき飛ばしちまったのは不運な事故なんだ。秋太郎もそう狼狽うろたえるこたぁない」


 根岸ばかりか、志津丸までも気圧けおされて二色の翼をぱたぱたさせている。庭に降りた雁枝はそんな志津丸の翼を一つ叩いて宥め、続いてアメヤリの傍らに立って濡れた肩に手を添える。


「秋太郎は初対面だね。紹介しとくよ、こいつの名前はアメヤリ。メキシコ生まれで日本在住の『ラ・ヨローナ』。水辺から水辺へ転移するタイプだ」

「ラ・ヨローナ。ああ、あの……!」


 根岸は目を瞠ってその単語を復唱した。


 メキシコ、コスタリカ、グアテマラといった中米の広い地域で高名な怪異である。


 種族名は『泣き女』を意味し、その伝説には様々なバージョンがあるものの、概ね、水辺で家族をうしない自身も身を投げて溺死した先住民族の女性が、霊となってこの世を彷徨さまようという内容だ。


 霊――といっても、根岸のような一個体の思念から顕現した幽霊ではないのだろう。かの地の長く困難な歴史から生まれ出た集合思念の塊、つまり日本の怪異区分で言えば妖怪に近い。


 ラ・ヨローナという種は、総じて非常に聡明な事で知られる。特に語学と法学に長け、十か国分の通訳を楽々とこなし各国の主だった法律を暗記している者さえいるというのだ。

 あるいは、ラ・ヨローナ伝説の大元になった実在の女性がそういう人物だったのかもしれない。


 そんな訳で、現代のラ・ヨローナは世界各地に散らばり、諸事情で他国へ移住した怪異や人間の法律を守りづらい怪異らのサポート、果ては各種身分証の偽造なども請け負っていたりする。


 河童と同じく、水域を伝って移動するタイプの空間穿孔くうかんせんこう能力を使いこなせるのも、そうした仕事をこなすには強みと言えた。


 だが、今回は――雁枝の言うとおり、不運な事故だった。

 根岸はたった今、浴室での結界構築に成功したばかり。客として招きたい怪異に、個別に結界の通過許可を出す方法など知らないのだ。


「ううん……そういうこと、ね……」


 目と鼻の先からまじまじと根岸を観察したのち、緩く頷いてアメヤリは身を離した。


「つまり、新しい主人、根岸秋太郎の結界術が上達するまではしばらく、この邸宅には玄関から訪ねた方が良さそうね……?」

「出来れば、ずっと玄関から出入りして欲しいもんだがねアメヤリ先生。この家には人間の客も多いんだ」


 ミケが奥の間に座り込む諭一ゆいちの方を見遣って言う。


「先生?」


 と、根岸はミケの付けた尊称を訝しんだ。

 軽く首を傾けて、ミケが彼に応じる。


「アメヤリさんは司法書士兼行政書士。今回の相続の件で大分世話になった。根岸さんにはもっと早くに紹介しときたかったが、どうにもばたついてね。結局葬式当日になっちまうとは」


 それから彼は声を潜め、


「俺の住民票なんかも『作って』もらった事がある」


 と付け加えた。


「あー……」


 ミケは大学生である。きちんと入試に合格して入学しているが、しかし受験資格を得るには住民票の偽造が必要だったはずだ。


「玄関からねえ。私……人間みたいに歩くのって、あまり好きじゃないのよね……」


 はぁ、とやはり物憂げな溜息をひとつ吐いて、アメヤリは水滴を垂らしながら座敷へと上がった。


 こぼれた茶を拭いたばかりの畳が濡れる、と根岸は危ぶんだが、全身ずぶ濡れのアメヤリが奥の間を横切っても、不思議なことに畳は乾いたままである。

 そういう異能だろうか。

 考えてみれば、司法書士も行政書士も書類を多数扱う職業だ。常に水場を移動して紙をびしょびしょにしていたら、仕事にならない。


「やれやれ。秋太郎、せっかく結界を張ったところ悪いけど、この分だと他にも――」


 雁枝がそこまで言いかけたところで、庭の池でばしゃんと派手な水音がした。


「おい、雁枝! どういうつもりだ」


 こちらはアメヤリと違いきっちり怒り心頭といった面持ちで池から出て来たのは、バンシーのブロナー・マクギネスである。

 雁枝への余命を宣告した当人で、彼女とは旧知の仲でもある様子だった。


「あらら、言ったそばから」


 流石に雁枝も、呆れ顔で目を瞬かせた。


 そういえばバンシーも水辺にたたずむ怪異で、水域限定の空間穿孔能力を持つ種族だ、と根岸は思い出す。

 そもそも水のある場所に出没する怪異種は数多いのだ。


「……ブロナー」


 池の方を振り向いたアメヤリが呟く。

 沈んだ声音なのは相変わらずだが、どこか今までにない険悪な響きを伴っていた。


「アメヤリ!?」


 ブロナーもまた、眼帯に覆われていない方の翡翠ひすい色の瞳でアメヤリを睨みつける。


「お前も来たのか。どの面下げて――」

「それはこちらの台詞……」


 その場の空気がにわかに冷え込み、一触即発の硬質さを帯びた。

 アメヤリとブロナーが互いに、じり、と距離を詰める。


「これっ、待ちな二人とも」


 すかさず間に割って入ったのは雁枝である。


「今夜この場で揉め事はナシ、そうハガキにも書いておいただろ。あたしだけでなく、喪主を務めるうちの家令と後継ぎの顔にまで泥を塗ろうってんなら、そいつは容赦出来ないよ」


 滔々とうとうと雁枝は語った。

 同時に、ミケが主人に呼応して両耳を外側に張り、フーッと威嚇音を吐く。


 二体の水妖は、明らかに気勢を削がれた風だった。

 両名ともに相当な大物怪異ではあるのだろうが、それでも封印を解かれたミケを相手取るのは避けたい様子だ。


 根岸としては、何故この二人が急にいさかいを始めたのかも分からず、何でも良いから自分を巻き込まないでくれと嘆きたい気分だったが、そうも言っていられない。


 司法書士のアメヤリには邸宅を維持する上で当面世話になりそうだし、ブロナーとの縁もまた雁枝から相続する『遺産』なのだろう。

 だからこそ雁枝は、この場に二人を同時に招待し根岸と引き合わせたのだ。訪問のタイミングはまずかったが。


「――……はぁ。分かってるよ雁枝」

「ちぇっ、仕方ない」


 しばしの睨み合いの末、アメヤリとブロナーは時を同じくして肩を落とし、憤りを鎮めた。


「よし、矛を納めたんならお客さんだな」


 ミケがするりと雁枝の腕の中から抜け出す。彼は足音もなく縁側に降り立ち、人の姿を取るとその場に正座した。


「ようこそお越し下さった。どうぞお上がりを」


 先程の威嚇から打って変わって頭を下げられ、毒気を抜かれたブロナーが赤毛を掻き上げる。


「猫の怪異ってやつは。故郷のケット・シーを思い出す」


 そんなやり取りを見届けて、奥の間で揃って縮こまり固唾を飲んでいた諭一や禍礼まがれ藻庵そうあんも、安堵の様相で一息をついた。


 陰陽士たちは周辺警備のために邸宅を出てしまっている。

 人間として一人取り残された諭一は長居して大丈夫なのかと根岸は密かに心配したのだが、当の彼はというと、Youtuber仲間の毛勝けかちまにゃにゃこと禍礼とゆっくり対面出来る機会を得て喜び、一緒に茶菓子を食べて盛り上がっていた。


 羨ましいくらいに呑気である。


「さて……。そろそろ、集まってくるかね曲者のお客さん方が」


 沓脱くつぬぎ石の上から奥の間を見回して、雁枝が独り言を漏らす。


 根岸は我に返り、途端に慌てた。

 何しろ彼は、まだ作業用の普段着のままだ。

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