第114話 帰らぬ人の帰郷 (5)

 「おれはっ……何かしようってんじゃない。このとおり、無害無害」


 小柄な狼は裏庭の中央まで歩を進め、茂みの中で毛皮にくっついたらしい木の葉を身を振るって落とすと、直後に人型へと化けてみせた。


「――あ! あの時の!」


 根岸の背後に引っ込んでいた小春が、思わずといった風に声を上げる。


「え、知り合い?」

「知り合いっていうか……ほら、さっき言ったじゃない。最初にここで怪異を見た時に、そこの路地を歩いてた男の子に声かけちゃったって」


 問いかける根岸に対して、小春はあたふたと答えた。

 人間の少年の姿をとった人狼が、いくらか不服げに首を縦に振る。


「ああうん、こないだ犬と間違えられたよな」


 不思議な事に、その声色と顔立ちには根岸もどこか、記憶に引っ掛かるものを覚えた。人狼の知り合いなどごく少ないし、彼とは間違いなく初対面のはずだが。

 すると人狼は、改まった態度で再び口を開く。


「おれ、中村捌号なかむらはちごう。『人狼ゲームを楽しむ人狼の会』の東東京ひがしとうきょう支部の人狼。……そっちのお兄さんは、怪異だよね? ここあんたの縄張り? だったらごめん」

「いや、縄張りという訳では」


 急ぎ否定してから、根岸は思いつくままに続けた。


「中村捌号、さん? ひょっとして、中村陸号なかむらろくごうさんという人狼を知ってますか?」

「えっ! 陸号の関係者!?」


 人狼――捌号は驚きに目を見開く。


 中村陸号。『人狼ゲームを楽しむ人狼の会』西東京支部の一員で、高尾山の天狗たちの盟友でもある。戦いは不得意と言いながら、天狗の里の危機には我が身を省みず立ち向かってくれた気の良い人狼だった。


 名乗りもそうだが声と顔つきからも、捌号には彼の面影が見出せる。

 思えば狼形態の時も日本犬めいた小麦色の毛並みで、栗色を基調とする陸号と似通っていた。陸号は珍しい日本生まれの人狼だから、亡きニホンオオカミの思念が外見に反映されているそうだ。


「陸号さんには、先日の東京怪異襲撃の時大変お世話に。ご家族ですか?」

「――いいや」


 これでスムーズに対話が出来るかと思えば、捌号はにわかに、気まずそうな表情で目を逸らした。


「単に、同じ土地で顕現したってだけだよ。おれらは周辺の自然の精気を取り込んで顕現する怪異だから、生まれ場所が近いと姿形が似通ったりはするけど。……おれと陸号は群れも違うし、まあ今は他人」

「群れが違う……つまり、『西東京』と『東東京』は……」

「あんま仲良くやってないんだよね。人狼の群れ同士ではよくあること」


 はあ、とやけに大人びた嘆息を捌号は漏らす。


「『東』は何しろ都心を根城にしてるから。ヤンチャな連中も……人間基準で言えば犯罪になるシノギで生計立ててる奴も多いし」


 根岸の傍らで、小春が微かに息を呑んだ。彼女にはあまり聞かせたくなかったなと、今更話題を振った事を後悔する根岸である。


「あなた、そんなタイプに見えないけど……」


 ぼそぼそと小春が口の中で呟く。


 怪異を外見だけで判断するのは禁物だが、確かに捌号は服装もごく大人しく、十五、六といった年頃の規範から大きく逸脱しているようには見えない。


「今は群れの皆、散り散りに疎開そかい中なんだ。だもんであまり目立つなってリーダーに言われてる」

「疎開? ……イーゴリの事件のせいでですか?」

「そりゃそうだよ。西の群れは高尾の天狗に加勢して勝利、他の怪異たちとも陰陽庁とも上手くやったけど。

 日頃人間の反社と組んだりしてイキってた東の群れは、縄張りのど真ん中を海外の人狼に食い荒らされたのにビビってスルー。何やってんだ、って言われるさ。もう都内に居場所ねえよ」


 再度、捌号は息を吐いた。憤りとやるせなさの感情が混ざっている。


 兎角とかく、縄張りを重んじる怪異種は数多い。を離れてしまうと自分に合う精気が取り込めず、霊威を維持出来ない者もいる。

 そして、人間の法律に縛られない怪異たちが縄張りを巡って争うとなれば、それは血で血を洗う真っ向からの戦いを意味する。

 自由である分、己の力を示せなかった怪異の行く末はしばしば悲惨だ。


「おれは山梨まで逃げてきたんだけど……ただ、縄張りを離れたせいかどうも体調悪くて。ちょっとでも精気の通りのいいポイントを探してたら、ここに」


 と、捌号は人差し指で庭の地面を指した。


「ここに? なに?」


 小春が興味深そうに自分の家の敷地を見回す。


「分かんないかなぁ。精気溜まりだよ。特におれらみたいな獣の怪異には居心地がいいやつだ。何か、薄っすらとだけど残り香もあるし、以前にも怪異が顕現した事あるんじゃない?」

「え――」


 我知らず、根岸は足を踏み出していた。

 面食らった捌号が、逆に半歩退がって「どした?」とたずねる。


「その……それって、うちで飼ってた犬の幽霊……」


 小春が根岸に代わって伝えた。


「犬の幽霊? ああ成る程、ここなら化けて出そうだね」


 捌号はあっさり納得する。


「ここには『獣の怪異』が顕現しやすい精気が漂っていると?」

「そういうこと。本来はもっと山深い地域に多いんだけどねこういう精気は」


 山奥に棲まう獣や鳥、魚、更に大樹や苔生こけむした大岩などは、濃密な精気にあてられて怪異化しやすい。そういう話は根岸も小耳に挟んだ覚えがあった。


「だからムギも……あ、ムギというのが飼ってた犬の名前です」


 つい口走ってから一呼吸おいて、根岸は続ける。


「ムギは――自然条件のために偶然顕現した怪異、という事でしょうか。……っ、生前の無念や怒りのためじゃなく?」

「そ、そこまではおれにも分かんないよ。残り香つったって物凄く微かだし。でも……」


 戸惑いながらも捌号は、物置の前で屈み込み、くんくんと鼻先を動かした。

 ミケもよく見せる仕草だ。怪異の中でもとりわけ鼻の利く種が、嗅覚により情報の細部まで読み取ろうとする時の。


「……でも、うん、そんな悪いもんじゃなかったんじゃないか? これだけ淡いって事は逆にさ。あんた何か気に病んでるようだけど」


 いっそ素っ気ないほどの口振りで、捌号は肩を竦めた。


「怪異が生まれるかどうかって、結構偶然だよ」


 すとん、と――


 音がしたような気がした。

 無論気のせいだ。しかし根岸は、気づけば地面に座り込んでいた。


「しゅ、秋兄しゅうにい?」


 小春が慌てて肩を揺さぶってくる。

 ごめん、と根岸は答えた。


「いやあの、大丈夫?」

「大丈夫……」


 情けない話だと、ちらりと胸を痛める。

 妹を助けるつもりでいたくせに。ムギの事はもう平気だと強がってみせたくせに。

 本音では、誰かに欲しかったのだ。

 通りすがりの、ほとんど見ず知らずの怪異からでも良い――いや、見ず知らずの無関係な相手だからこそ。


 何の利害も忖度もあり得ない相手から、お前が気に病む必要はもうないのだと、ただそう言って欲しかったのだ。


 顔を上げると、案の定捌号は訳が分からないと言いたげな顔でぽかんとしている。


「ええと……どうもすみませんでした。取り乱しました」

「いや――何だか大変そうだね?」


 捌号は曖昧に首を傾げた。


「大変と言うなら」


 と、根岸は気を取り直して姿勢を正す。


「貴方こそ。疎開中との事ですが、今後の見通しだとかは?」


 人狼は本来、縄張りを作り群れで生きる怪異だ。

 群れが散り散りとなり、精気を取り込める土地からも遠く離れた状況下では強いストレスがかかる。

 捌号は自分の状態を『体調が悪い』と表現したが、それは良くない兆候だ。このままでは弱って消滅したり、暴走する可能性すらある。

 群れの仲間たちを食い殺し、大陸を越えて放浪した挙句、あの末路を辿ったイーゴリのように。


「おれ? おれは心配ない。これから故郷に戻るんだ。道中、行き倒れないか不安だったからここの精気溜まりで補給させて貰っただけ」

「故郷?」

「生まれは秩父ちちぶなんだよね。身も蓋もない事言うと、大都会暮らしはそもそも性に合わなかったかも」


 埼玉県秩父市。


 つまりは陸号もその地の生まれという事だろうか。

 彼らの名前からするとひょっとして、中村壱号なかむらいちごうとか伍号ごごうもいたりするんだろうか、と根岸は、埒もない事を考えた。


「昔、人間とからあそこには帰りづらいんだけどさ。まあ、頭下げてしばらくねぐらにさせて貰うよ。

 おれは……霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネみたいにはなりたくないからな」


 人間とのトラブルの詳細については、この際聞かずにおこう。そう根岸は胸の内で決める。

 何しろ彼らは狼、肉食獣だ。普通の獣だったとしても、他種族との軋轢あつれきは生じやすい。


「僕も同感です」


 根岸はそんな風に答えるにとどめた。

 捌号は苦笑に肩を揺する。


「あんたは、群れと縄張りを大事にしろよな幽霊の兄さん。おれはやらかしてばっか」


 そこで、自分語りは打ち止めとばかりに捌号はきびすを返した。

 何の変哲もない少年に見えるその後ろ姿が、瞬き程の間に小麦色の毛並みの狼へと変容する。


「あの!」


 前足を踏み出した捌号に、根岸は呼びかけた。声を上げてから、これは余計な世話か、と後悔しかけたが、そのまま続ける。


「もし……陸号さんに伝えたい言葉があるなら、預かります」

「――……」


 狼の顔が、驚いた様子で根岸を振り仰いだ。

 短い沈黙ののち、大きな口の端が再びの苦笑に釣り上がる。


「あのヘタレの陸号が、逃げもせずあんたらのために戦い抜くわけだよ。別に伝言なんてないけど……いや」


 思い直した様子で、捌号は言葉を紡いだ。


「次に故郷に帰る時はしらせてくれ、顔見せに行く、って言っといて」

「分かりました、伝えます」


 根岸が頷くとほぼ同時に、挨拶もなく捌号は地面を蹴る。

 助走さえ必要とせず、人狼の脚力によって彼は庭の塀を軽々と飛び越えた。

 ひゅうっ、と一陣の風が吹き込む。根岸が風に目を細め、また塀の向こうの路地を見遣ると、そこにはもう獣の影も人の影も落ちてはいなかった。


 あの風は捌号の持つ異能の一種だったのだろうか。戦闘技能にかけては、陸号よりもけているのかもしれない。


 後方を振り返れば、小春がその場で膝を折り、へたり込んでいる。


「小春?」


 慌てて根岸は駆け寄った。


「どうした。怖かったか?」

「……うん。正直ね」


 先程までは細いながらもしっかりしていた小春の声音が、今になって震え始める。


「わ、わたし……狼に話しかけてたんだ、あの夜、一人で……」

「言われてみると、ちょっと危なっかしいな」


 あえて軽い口調で根岸は頷き、彼女に手を差し伸べる。


 小春は震えの治まらない唇で無理矢理に笑顔を作り、根岸の手を取った。

 体温のない彼の手を。


「秋兄は」


 手の冷たさに一瞬ひるんだ小春は、しかし今一度しっかりとそれを握り返す。


「やっぱりもう、怪異なんだね」

「そうだよ」


 そこは最早どうしようもなく――


 根岸自身、何度も思い知らされてきた事実だった。

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