第113話 帰らぬ人の帰郷 (4)

 小春こはるが幽霊を見た場所は、家の裏庭だった。

 そこには物干し台と、大人の背丈ほどの物置小屋が据えられている。物置内には替えのタイヤだとか雪かき道具だとか、そうした雑多な物品が詰め込まれていた。


 ムギが使っていた犬小屋も、まだその中に保管されている。


「その、前に――何かがうずくまってたの」


 懐中電灯を物置小屋に差し向けて、小春は言った。



   ◇



 二階にある小春の部屋の窓からは、裏庭が見下ろせる。

 数日前のある夜、戸締まりを確認しようとして窓辺に近づき、ふと裏庭に目を向けた小春は、そこにわだかまる影を見た。


「動物だな、ってすぐに思った。でも野良猫や狸よりは大分大きくて」


 四つ足のその影は、物置小屋の扉を嗅ぎ回っているようだ。その仕草に、犬だ、と小春はピンときた。


「もし行き場のない犬だったら、うちで預かっちゃおうかなーなんて考えてさ」


 前々から小春は、新しい犬を飼いたいと考えていた。ただ兄や両親がムギを忘れがたい気持ちも理解出来たので、言い出せずにいたのだ。

 小春にしてみれば、ムギが家にいたのは五歳の頃までである。生前の姿などほとんど覚えていない。

 アルバムに残るおっとりした老犬の写真を見て、また飼えたらなと思うくらいの存在だった。


 そういう訳で、いくらかの期待を胸に小春は家を抜け出し、裏庭へと回った。


 問題の影はまだ物置の扉の前にいる。小春は相手を驚かさないよう、弱めた懐中電灯の光をそろりと向けた。


 暖色の明かりに照らされたのは、尖った耳と猟犬風のすっくと伸びた脚。そして深みのある小麦色の毛並み。


「ムギ?」


 考えるより先に、小春はそう口走っていた。

 家族写真に残るかつての愛犬の印象と、あまりにも似通って見えたのだ。


 ――まさか。


 すぐにそう考え直し、彼女は今一度目を凝らす。

 しかしその途端、ざあっと突風が庭を吹き抜けていった。

 砂埃や木の葉が舞い上がる。小春は一瞬顔を伏せた。

 それからまた前方を見遣り、懐中電灯を左右に振る。


 ……いない。


 確かにそこに佇んでいた小柄な獣が、痕跡も残さず消えている。


 驚いたし、背筋が冷えた。野生動物が人間より素早くとも不思議ではないが、それにしても速すぎる。

 裏庭の塀を一瞬で飛び越えたのだろうか? そんな訓練されたジャーマンシェパードのような犬が田舎の住宅地に?


 怯えながらも小春は、試しに塀の向こう側の路地を照らしてみた。

 やはり動くものはない。


 ……と思いきや、人影が一つあった。小春とそう変わらない年頃の少年が、ぶらぶらと通りを歩いている。不良学生風ではないから、アルバイトか塾の帰りだろうか。


「あの、すみません」


 混乱のまま、つい小春は声をかけた。


「犬、見ませんでした?」

「……犬? いいえ」


 対する少年はあからさまに警戒して眉をひそめる。

 これではこちらが不審者だ。はたと小春は我に返り、「ごめんなさい!」と頭を下げて早々に家の中へと戻った。



   ◇



 「……小春」


「なに?」

「家の敷地内からとはいえ、夜中に通りすがりの知らない男に声をかけるってのはちょっと……兄として心配なんだが……」

「反省してるって」


 本筋から逸れた根岸の小言を受け、小春は不服げに口を尖らせた。


「まあ安全意識はともかく、何があったかは分かったよ」


 気を取り直して根岸は頷く。


「見たのはその一度?」

「ううん。もう一回……三日前の夜にも。やっぱり部屋の窓から見下ろしたら、あの影が座り込んでた。見間違いじゃなかったんだ、と思ったら怖くなってね」


 一人きりで怯えていると、丁度そこに、東京で安否不明だった根岸が無事音戸邸おとどていに戻り、話したい事があるので帰郷する、との連絡が入った。


「父さん母さんや涼兄りょうにいには、何か話しづらいじゃん。また見えないかもしれないし、それにもしムギの幽霊だったらさ……。でも秋兄しゅうにいならって――」


 喋りながらも小春は、だんだんと声を落とし顔を俯ける。

 でも、と彼女は再び付け加えた。


「ほんと今更だけど。秋兄にこんな話しちゃダメだったかも」

「なんで?」


 根岸は目を瞬かせた。


「昼間の事なら、別に」

「じゃなくて」


 小春が首を横に振るのに合わせて、懐中電灯の明かりが揺らぐ。


「わたし……ほんの薄っすらと、ぼんやりとだけど……思い出した。秋兄がムギとお別れして、一人で泣いてたこと」


 夜の闇の中、根岸は思わず小春の顔を見つめた。


「秋兄って、弱音とかままとかあんま言わないタイプだったじゃん。わたしが物心つく頃にはもうそうだった。――夜に勝手に家を出て、庭で泣いたりしてる所なんて見たのは、あれが最初で最後」


 当時の小春は、根岸に何が見えているのか、家族が何を悲しんでいるのかもはっきりと理解出来なかった。


 だが今になって、かつてのムギの姿を思い出すと同時に、連鎖したかのように断片的な淡い記憶がよみがえったのだ。


「本当に、秋兄はムギのこと大切だったんだ、あの時悲しかったんだって、今になって分かったの。……何で忘れちゃってたんだろ」

「それは小春が小さかったからだよ」


 内心の動揺を押し隠して、ごく当たり前の回答を根岸は示した。


 小春も、母も、自分を責める必要などどこにもない。

 幼児が死別の概念を理解出来ずに戸惑う。幼い頃の記憶を失う。この世ならぬ存在を視認しないまま成人する――全て、人間が当たり前に持つ性質と偶然の作用に過ぎない。悪でもなければ罰でもない。


「秋兄は、もう平気? ムギのこと思い出しても」


 正面から見上げられて問われ、根岸は答えに迷う。

 少しの沈黙を置いて彼は口を開いた。


「悔いはあるよ」


 あの頃、何度となく繰り返した自問だ。


 ――ムギは何を伝えたかったんだろう。


 怪異として顕現する理由は様々だ。それこそ、偶然にも自然条件が整っただけ、という場合もある。

 だが、この世に強い未練を遺したために現れる霊も多い。

 根岸がまさにそれだ。彼の場合は恨みつらみが原因ではなかったが、ミケや血流し十文字は、怨み、怒り、悲しみといった情念から生まれている。


 ――もし、ムギが何か苦痛を訴えていたのだとしたら。怒って、恨んでいたのだとしたら。話を聞いてやれるのは自分だけだったのに。


 考えずにはいられなかった。


「だったら」


 と、小春は不安そうな表情を浮かべる。

 根岸はそんな妹に笑いかけてみせた。


「……いや、悔いなんて生きてればいくらでもあるから。要するに僕もあの時は子供だったってこと」


 ――今の自分であれば、ムギの幽霊にも同じように笑顔を向け、必要な言葉を届けてやれるだろうか。


 つい、物思いにふけりかける。


 が、彼の思考は不意の異音によって掻き消された。

 がさっ、と葉を掻き分け、草を踏む音。根岸は素早く顔を上げる。


「え、なに?」


 小春も狼狽うろたえて周りを見回した。

 それに少し遅れて、異国の香を焚きしめたような匂いが根岸の鼻をつく。


「怪異の匂いだ」


 ここしばらく怪異に囲まれてばかりで感覚が麻痺していたが、人間の住居で嗅ぐとやはり独特なものがあった。


「小春、下がって」


 妹を後ろ手に庇い、根岸は音のした方角に一歩踏み出す。

 今日はプライベートだからスペル・トークンは携帯していないし、血流し十文字も音戸邸に預けてきた。つまり丸腰だ。

 小春が遭遇して無事だった事から、そこまで凶暴な怪異とは思えないが、しかし万一突然の暴走でも起こしたならば。


「……そこの怪異、出てきてくれますか」


 可能な限り冷静に呼びかける。――『ムギ』だとしたら人の言葉は通じないかもしれない。


 しかし暗がりの向こうのその相手は、思いがけなくはっきりと応じた。


「待っ、待って……! 通報はしないでッ!」


 男の、それもごく若い少年の声だ。

 根岸は面食らって、一旦小春と視線を交わした。

 その間にも、声の主は茂みを掻き分けてこちらへ歩を進める。やがて、懐中電灯の明かりの中に獣の姿が浮かび上がった。


 全体のフォルムは柴犬に良く似ている……大きさも同程度だ。しかし、ムギではない。

 鼻面の形も毛並みも、太刀型に伸びた太い尾も、犬とは明らかに異なる。


 狼だ。人語を喋る狼。その、成長しきっていない個体。

 つまり、この怪異の正体は人狼だ。

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