第99話 解放せよ骨髄の慟哭 (7)

 エスカレーターの下から飛び出した根岸は、ショッピングモールの入口前に槍を携えて立ちはだかった。


 そしてそれを見計らったかのように、八枚目――雁枝かりえが構築した最後の一枚の結界が砕け散る。


 物理的にガラスやコンクリートの破片を浴びた訳でもないのに、痛みにも似た痺れと風圧を根岸は感じ取った。

 異能による破壊力を目の当たりにしなくとも、肌感覚で分かる霊威の強さとはこういう事だろうか。


『秋太郎殿。先刻は不甲斐なき有り様を見せたの』


 ずっと沈黙を保っていた血流し十文字が不意に語りかけてきたので、根岸はこの状況の中、思わず安堵した。


「無事だったんですね」

『無論。しかし不覚をとった。さて、あやつが来おるぞ』


 根岸もとろもイーゴリによってタワーに投げつけられ、しかも本来の用途とは違う形で、根岸を助けるために呪いの力を振り撒いた。消耗しているだろうと思っていたが、彼の声は相変わらず機械音声のごとく冷静である。


 ミケや雁枝との会話に口を挟まなかったのは、気遣いからだろうか。単に雑談をするタイプではないのかもしれない。


 ともあれ、重要なのは今の彼の発言だ。

 イーゴリが来る。

 霊威は更に禍々しさを増している。ミケとの戦いで負った傷を、ミケの血を飲んで癒やしたのだ。


「何のつもりだ幽霊、猫を逃がすのに足留めでもしようってか」


 狼の形態で建物内へ踏み込んできたイーゴリは、根岸を前に人間へと変化し、軽く首を傾げた。


「石ころだってもうちょい踏みがいのある足留めだぜ?」

「さあ、どうだか」


 半ば強がりを承知で嘲りに応じ、根岸は十文字を構える。


 やってみなければ分からない。そう、根岸自身にもこれからどうなるかは分かっていない。

 ただ彼は一つ仮説を立てていた。


 他者を喰らい、魂を取り込み自身の力に変える。イーゴリのその能力自体は、他の『人食い』を行う怪異にも見られる。

 驚くべき点は、吸収の速度と効率性だ。


 物質生命体で例えるなら、消化能力が異様に高いという事だろうか。しかしここまで即座に食事で肉体の欠損を補う行為は、物理法則の通じない怪異とはいえ、どこかにひずみなり代償なりを生じさせるように思える。


 代償とは? ――例えば速度を優先するあまり、取り込んだ魂を自身にとしたら?


 先程、根岸がイーゴリの頭に乗り上げたあの瞬間。

 『もがり』の異能は、彼に何かをせようとした。あれは――


「らあァッ!」


 イーゴリが荒々しく吠えて仕掛ける。根岸はすぐさま思考を打ち切った。


 鼓膜を震わせる衝撃音。

 イーゴリの繰り出した拳を、血流し十文字は辛うじて受け流した。正面から車にでも衝突されたかのような重圧が両肩にかかる。

 間髪を入れずもう一撃。回避するなり、一瞬前まで根岸が立っていた位置の床板が砕け散った。


(『殯』の異能、発動しろ……! 頼むからしてくれ!)


 この調子では三分どころか数十秒ともたない。祈る程の思いで根岸は念じる。

 そこに、無造作な前蹴りが叩き込まれた。素早く十文字が反応し、肋骨をし折られるのだけは何とか防いだが、根岸の身体は派手に吹っ飛んで、割れたドアから建物の外まで転がり出る。


「くっ……」


 ガラスの破片が散らばる地面の上で身を起こすと、視界からイーゴリが消えていた。


 どこに、と戸惑う暇すらない。

 右肩に走った唐突な激痛と拘束される感覚に、根岸は藻掻もがきながらも振り仰いだ。

 広い場所に出て再び獣の形を取ったイーゴリが、根岸の背後から肩口に噛みついて彼を咥え上げている。


「っが――うあぁッ!」


 じわじわと肩の肉に牙が食い込み、骨が軋み始める。


「ほらよ、もっと泣き叫んでクソ猫呼べよ。どうせその辺にいるんだろうが」


 一口で半身をかじり取る事も出来たはずだ。そうしなかったのはミケをおびき出すためか、と根岸は途切れそうな意識の中で考えた。

 視界が勝手に明滅する。駄目だ、目を開け、と首を振った。『殯』の異能は視覚で認識しなければ。


 ――だが。


『……いよ』


 意外にも、彼の五感のうちで最初に反応したのは聴覚だった。


『こわいよ……おとうさん……おかあさん……』


 囁きよりももっとはかなげな、少女の声だ。

 続いて、断片的な映像が頭に流れ込んでくる。

 山の中の道路。大破した車。運転席と助手席には血を流しぐったりとしている男女。

 視界の主は道路に投げ出されているのか、地面に倒れその光景を見上げているようだった。マスコットキーホルダーのついた子供用のリュックが傍らに転がっている。


 フラッシュバックめいた映像はものの数瞬で頭の中から拭い去られた。即座に根岸は身を捩る。


 思いのほか間近に、彼女の姿はあった。イーゴリの毛皮に半ば重なる、ぼんやりとして厚みを感じない人影だ。

 十一歳か十二歳か、それくらいの幼い少女だった。長めの前髪の奥に、下がり気味の眉尻が見え隠れする。彼女はただぽろぽろと、静かに涙を零していた。


「な――名前、を」


 とても落ち着いていられる状況ではなかったが、根岸は出来る限り声音を和らげて語りかける。


いても?」


 ――思い出してくれ、自身が何者なのかを。

 狼に食われ取り込まれたとしても、最早彼の一部などではない。

 悲しんでいる。怯えている。恨んでいる。それらの感情が確かに存在したと『観測』してみせる。


 ミケはかつて言っていた。

 怨嗟も憎悪も悲鳴も、もっと生きたかったという思いの表れでしかないと。それもまた、そのひとが生きていた証だと。


「ま――」


 少女が口を開き、声を出せる事に驚いたかのように一旦息をつめて、それからまた発声した。


「まゆ。わたし、


 次の瞬間、おぼろな虹のようだった少女の輪郭が、はっきりと形づくられた。

 イーゴリの身体から放たれ、ふわりと空中に舞い飛ぶ。


「――っ!? 何だ……何をしたッ!」


 驚きと困惑に三対の眼を見開いたのはイーゴリだ。

 今までになく狼狽する彼の唸りを掻き消すかのように、金毛に覆われた巨体から、一斉に大勢の声が上がった。言語も年齢も種族も様々な嘆きの声だ。


「痛い」

「怖い」

「悲しい」

「悔しい」

「どうして」

「どうして、こんな目に」


 同時に、根岸の脳裏にはとても追いきれないほどの、無数の他者の記憶が怒涛のごとく押し寄せてきた。

 そのどれもが悲惨な死の瞬間だ。獣に身体を噛み千切られ、悲鳴を上げ、恐怖に泣き、何故こんな酷い真似をと嘆いていた。


『秋太郎殿。秋太郎殿、起き上がれるか』


 突如、耳元で十文字から呼びかけられて根岸は目を瞬かせる。

 現実の景色が目の前に戻ってきた。

 先程までイーゴリに咥え上げられていたはずの彼の身体は、地面に倒れている。いつの間にか投げ落とされたらしい。


『立てるか』


 重ねて、血流し十文字が問い質した。「ええ」と頷いて上体に力を篭めた途端、噛みつかれた右肩に鋭い痛みが走る。

 次いで顔に違和感を覚えたので手をやると、鼻血でぬるりと滑った。


「『殯』が……発動してくれたのか」


 やはり、対象の身体に直接触れると発動しやすいのだろうか。利かん気の異能はようやく根岸の狙い通り、イーゴリの肉体に残っていた犠牲者たちの感情を『観測』した。

 それは良いのだが、一度に何十という亡者の過去を『観測』したせいで、根岸の精神の方がパンクしかけたらしい。どうも、使いこなすには今しばらくかかりそうな能力だ。


「グルぁあああっ!」


 広場に咆哮が上がる。

 イーゴリが全身を激しく震わせ、悶えていた。


 その彼の周囲には無数の淡い影がまとわりついている。

 あるものは足元でのたうち、あるものは毛皮の上に漂う。人型もいれば獣に近い形状のものもいる。


『あれは、秋太郎殿の浮かび上がらせたる亡者か。我が娘こうと同じく』

「そのはずです。イーゴリに殺された犠牲者……単独の怪異としては顕現出来ず、しかし彼と完全な一体化はすることなく、微かな嘆きの感情を抱えて存在し続けていた」


 痛みをこらえ、十文字に縋りつつ根岸は立ち上がった。右腕は動かすのも億劫な有り様だが、それでも槍の柄を握りしめる。


 イーゴリの濁った青い目が、憎々しげに根岸を睨みつけた。


「クソがっ……この、雑魚どもがぁ――!」

「誰が雑魚なもんか!」


 湧き上がる憤りのままに、根岸は叫んだ。

 まゆ、と名乗った少女が最期に感じた恐怖と悲しみを、そして他の全ての犠牲者の嘆きを、根岸は我が事として味わっている。


 彼らは怒りに必要な力を持てなかった。その事実が堪らなく悲しい。


「皆、懸命に生きていたひとたちだ! まだ生きたかったひとたちだ! 亡者の皆、貴方たちは――この理不尽に怒っていい! 憎んでいい! 骨髄に徹するそのうらみを、僕が見届ける!」


 志津丸しづまるから教わったとおりに槍術の構えを取り、全力で地面を踏み切る。


慟哭どうこくを、解放しろっ!!」


 亡者たちは、彼に応えた。

 耳をつんざく程の、嘆きの唱和だ。思うがままに泣き叫び、恨み言を吐き散らす。曖昧な影に過ぎなかった彼らは次々と形を持ち、イーゴリから解き放たれる。

 イーゴリの霊威が変質した。正面に立つだけで痺れの走るようなあの圧力が、見る間に萎んでいく。


 ――今ならば。


 ある種の確信と共に、根岸は槍を繰り出した。


「グガああッ!?」


 金毛の合間を縫い、血流し十文字の穂先がイーゴリの前脚に突き立つ。

 岩盤を想起させるほどのあの頑強な体皮を、根岸の一撃は深々と穿ったのだ。


『鎧が剥がれた』


 あくまで淡々と、血流し十文字が呟く。


『こやつが鎧としていたのは、己が食らった者らの無念そのものじゃったか』

「そういう――事ですッ!」


 穂先を引き抜き、もう一突き浴びせるべく根岸は姿勢を整えようとした。

 だが直後、横合いから高速でしなる何かにはじき飛ばされる。


「ぐッ!?」

「調子乗ってんじゃねえ、クソ雑魚が!」


 地面に転がった根岸はイーゴリを見上げ、そして息を呑んだ。


 狼の右脇腹に開いた口からは長い舌が伸びている。根岸はこれに殴り倒されたのだろう。

 しかしそれ以外にも、左右の口からはみ出ているものがあった。


 ブギーマンの腕だ。

 右から一本、左から二本。


 牙もおかしい。サイズこそ巨大だが、側腹部の口に並んだ牙の形状は獣のそれだったはずだ。しかし今やそこからは、針とも刃物ともつかない異様な形の乱杭歯がでたらめに生えている。


「な……これはっ……」


 おののく根岸の眼前で、イーゴリは更に変異していく。


 三対の青い眼の上に、色の異なる新たな眼が現れ、ぐるりと辺りを睥睨へいげいした。

 複数の絵の具を混ぜたような黒ずんだ眼球は、ヴィイの魔眼を思わせる。

 頬の辺りにも二つ三つ、いずれも異なる色合いの眼が開いた。


 背中の金毛がざわめき、ばっくりと割れ、そこがもう一つの口となる。その口からも舌が伸び、それと一緒に折り重なるようにして、いくつもの猛禽類の翼が生えてきた。


「変身能力が暴走している……!?」


 他者の命で補ってきた肉体、体表を固めていた『鎧』。それは防備のためだけでなく、身体の形状を維持するためでもあったのだろうか。

 彼の変身能力は確かに異常なレベルだった。ともすれば容易に暴走を起こしかねないその力を、『鎧』に覆って抑えていたとすれば。


「ああこの野郎、すっかり腹が減っちまったじゃねえか!」


 以前より大きく裂けた頭部の口で、イーゴリは高々と遠吠えを響かせる。


「こいつは街中食い尽くさねえと止まんねえなあああッ」


 いくつあるのかも把握しきれないイーゴリの眼が、根岸を見下ろした。彼は後退あとずさって立ち上がるも、あまりにも非常識な形態となった相手を前に、そこからどう動いたものか決めかねる。


 最早狼の原型を留めないイーゴリの副腕が、根岸を薙ぎ払おうとしたその時。


 いきなり背中側からシャツを持ち上げられて、根岸はその場から引っさらわれた。

 目を瞠った彼の顔に、三色の猫の毛がふわりと擦れる。


「ミケさん!」


 紛れもなく、根岸はミケに咥え上げられている。無論牙を立てられてはいない。ただ、ミケの身の丈は唖然とするほどに巨大化していた。今のイーゴリとほぼ同等だ。


「おう根岸さん、待たせた。何だい、あいつは随分と様変わりしちまってんな」


 呑気な声を上げつつ、ひとっ飛びで大きくイーゴリと距離を開けたミケは、周囲をうごめく亡者たちに鼻先を向け、ふんふんと匂いを嗅ぐ。


「……そうか、こりゃあ奴の犠牲者たちか。あんたが解放してやったのかい」

「はい。弱体化を狙ったんですが……すみません、余計な事をしたかも」

「何も謝るこたぁないだろ」


 一旦根岸を降ろしたミケは、上体を低めて目配せした。

 乗ってくれ、と言いたいらしい。確かに、約束したとおり『万一の事態』が起きた時には彼のそばにいる必要がある。

 ミケの炎のたてがみは、いつもより更に勢いを増して燃え盛っていたが、不思議と熱を感じず安全そうだ。根岸は意を決して彼の背中へと這い登った。


「張りぼての鎧は剥がれた。あれこそが霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネそのもの……。後腐れなくていいじゃないか」


 イーゴリがこちらへと這い進んで来る。

 あらゆる形状の脚を使い、翼を引きずり、その動きはまるで左右非対称の蜘蛛のようだ。


るぞ、イーゴリ。お前さんの無尽蔵の食い意地に付き合うのも、これっきりだ!」


 ミケが宣言し、老若男女の悲鳴と空襲警報の混ざり合った音で、高く高く鳴いた。

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