第85話 灯火の尖塔へ (6)
「あっ――あの子が、血流し十文字の正体!?」
まさか、と根岸はすぐさま疑念を抱く。
かつて彼は、血流し十文字が怪異と成り果てる瞬間を追体験したはずだ。
槍の持ち主は、少女とは程遠い大男だった。八王子城の合戦で奮闘し、ついに力尽きて世を呪いながら死んでいった、歴戦の荒武者と思われた。十文字はその持ち主の怨念によって呪いをまとい、怪異となったのだ。
「なんだなんだ? 根岸?」
声を潜めて会話していたつもりが、いつの間にかトーンを上げてしまっていたらしい。
志津丸も
「えっと……すみません、僕にはお構いなく……」
「構うよ。大事なことだ」
頭を掻いて
「悪いが瑞鳶、お前の術の引き継ぎと同時進行でやらせて貰う。秋太郎と十文字の魂を繋げて、二人きりの結界に放り込む。そうすればはっきりと槍の声が聞こえるだろ」
「えええ?」
唐突な計画をすらすらと明かされ、困惑するしかない根岸である。
武器と幽霊を一つの結界内に閉じ込めるとは、どこかで聞いた話だ――と頭を捻って、彼は思い出した。
血流し十文字と同じ刀工集団によって鍛えられた、七振りの
つまり可能ではあるようだ。
「秋太郎、お聞き」
時間がないから一度きりね、と前置きした上で雁枝は説く。
「『
「……はい」
根岸は
ミケが初めて目の前で巨獣へと変容した時に幻視した、空襲の記憶。
ウェンディゴの孤独と、『灰の角』の青年との邂逅の瞬間。
そして、呪詛と共に命を落とした血流し十文字の持ち主。
やはりあれらの映像も殯の異能の産物だったのか。
しかし、それは奇妙だ。
雁枝の話では殯の能力とは、
通常の怪異には見通す事の出来ない、物理と物質のみが支配する世界。それを精神生命体の世界層から観測し、曖昧で不確定な怪異の存在を現実に固着させる。そういう力なのだと。
「この世界の過去を観測する事も、殯の異能のうちなんですか?」
過去とは、既に確定した現実だ。観測した所でその存在に干渉出来る訳ではない。
「異能の発現の仕方は、その持ち主次第だ。お前はきっと、何かを見極めたいと願った。だからそんな形で発現した」
「それは一体――」
「あとは、十文字に聞いてみな」
問答はそこで打ち切られた。
ふわりと、根岸の視界に音もなく暗闇が降りてくる。
テントサイズの暗幕に囲われたような具合だったが、勿論本物の幕を被せられたのではない。血流し十文字ともども、雁枝の張った結界内に放り込まれたらしい。
(結構無理矢理だな……)
胸中でぼやく根岸だったが、雁枝とハナコが時間がないと言う以上は、実際に切羽詰まった状況と見て間違いない。
血流し十文字と対話が出来たならば、戦いに協力して貰う事も可能かもしれない。打てる限りの手は打っておくべきだろう。
周囲は閉塞感を伴う完全な暗闇に包まれ、それと同時に物音までも消え去った。
――いや、ただ一つ。
ごく密やかな声が、すぐ傍から聞こえてくる。少女のすすり泣く声だ。
辺りを見回した根岸は、すぐにびくりと背筋を震わせた。
彼が右手で握る十文字槍の陰、ほとんど触れそうな位置に、いつの間にか少女がうずくまっている。
顔を伏せ、時折身を震わせる小袖姿の彼女には確かに見覚えがあった。
「あのっ……話を、聞いても?」
迷いつつも根岸は少女に問いかける。「血流し十文字さん」などと呼ぶのもあんまりだろうが、気軽に名前を
考えを巡らせ、ゆっくりと少女の肩に伸ばした手が止まる。
少女が顔を上げたのだ。
「うっ――」
我知らず、根岸は呻いていた。
少女の顔は半ばまで血に染まっている。頭頂部から額の左側にかけてがぱっくりと割れ、どろりとした肉色の塊が小袖の肩口にまでこびりついていた。
そんな状態で、少女は虚ろに根岸を見上げ、はらはらと涙を流し続けている。
(八王子城の合戦の犠牲者……)
根岸は昔読んだ文献の記述を思い起こす。
城内に攻め入られ、追い詰められた
「貴方は……この槍の」
以前、槍の穂に触れた時に幻視した、生々しい戦場と死の瞬間。もう一度体験したくはなかったが、根岸はその記憶の詳細も探る。
混戦の中、十文字槍を振るっていた鎧の男。
彼は背後の崖を振り返り……そして、川面に漂う血に染まった小袖を目にした。十代の少女に似合うような、華やかな柄の。
次の瞬間彼は怒りに我を忘れて絶叫し、致命的な隙を作った。敵に脇腹を貫かれ、崖下へと。
「この槍の持ち主の、家族……?」
少女は十四か十五か。あの鎧武者とはそれなりに年齢差がある。娘だろうか。
虚ろだった少女の目に、初めて感情が灯った。
彼女は何度か唇を動かし、たどたどしく声を発する。
「……ちちうえ」
「――お父さんが」
もう半歩、少女に歩み寄ろうとした根岸は、不意に強烈な頭痛に見舞われて目を閉ざした。
痛い――頭が割れそうに痛い。いや、実際に割れているのではないか。容赦なく血が流れ、失われていくのを感じる。しかも水中でもがいているかのように身体が冷たく重い。
閉ざしたはずの
流水と砂利。
川だ。血に染まった川の中に浸かっている。
周囲にはおびただしい数の人間が倒れていた。槍も弓矢も散らばっていた。
視界が、痛みと動揺に揺れる。
血と泥にまみれ、目を見開いた鎧武者が、手を伸ばせば届くほどの距離で川底へと沈んでいくのが見えた。
既に命は尽きているだろうに、彼はまだ槍の柄を握りしめていた。その手指からも程なく力が抜け、十文字の槍は赤く染まった川を下り流れてゆく。
――父上。
割れた額から流れる血に、涙が混ざり落ちたように思えた。
……この感情は。怒りでも恨みでも憎しみでもなく、ただ――
――そこで、景色はぷつりと暗転した。
周囲は元の暗闇である。目の前には小袖の少女が座り込んでいる。
自分の視界を取り戻した根岸は、何度か深く呼吸して
(今のは多分、彼女の最期だ)
冷たい汗の浮いた額を押さえて、根岸はそう納得した。
正直言って、とてつもなく
多くの怪異にとっての最も強い記憶といえば、自身の悲惨な死の瞬間だ。その時に溢れ出た怒り、憎悪、怨嗟。それらが怪異の力の根源となる。
根岸の異能はその根源を自動的に探り当て、我が事として味わわせてくるものらしい。まるでありがたくない。
(でも……今回だけは、この力に感謝だな)
姿勢を整えた上で、根岸は少女に向き直った。
先程雁枝に説かれた謎めいた言葉を、彼は理解しかけている。
無意識下で、根岸の異能は何を見極めようとしたのか。とっくに確定した過去の観測によって、何に干渉しようとしたのか。
実のところ――過去は、確定などしていなかったのだ。
死の瞬間にあってなお、言語としても事象としても定まりきらない淡い感情が存在する。
槍の持ち主である鎧武者の、強すぎる怒りと呪詛によって、同時に槍に憑いたもう一人の少女の思いは不安定なまま覆い隠されてしまっていた。
淡く不安定でおぼつかない、世を呪うにも戦うにもあまりにも弱い、その感情の名は。
根岸は少女へと語りかけた。
「悲しかったんですね」
少女が目を見開く。
「貴方はただ、お父さんが目の前で亡くなったことが悲しかった。城が、親しかった人々が、
槍の穂先を、根岸は眼前に掲げた。
「二つの思念が憑いていた。貴方と、貴方のお父さんと。――お父さんの死は激しい戦いの最中だった。娘さんの死に我を忘れるほどの怒りを発露し、それがそのまま呪いとなった。
……彼は強い人だったし、貴方のことを何より大事に思っていたからこそ、そうなってしまったんでしょう。でも、貴方は……『悲しい』という感情は……誰かを呪えるほどには強くない」
かつてミケが言っていた。
怒りや怨みから生まれた怪異は強い。
怒り狂った猫の怪異は、空でも飛べる。
怨念、恐怖、妄執。それもまた生命への執着の一形態だ。怪異にとっては武器となる。
逆に言えば――『武器』となるものを持たず、不安定なまま存在し続ける弱々しい怪異もまた、いるのだ。存在していて良いはずだ。
根岸の異能は、この少女の存在を、感情を観測しようとしていた。
あるいは、ミケやウェンディゴの内側に沈む無数の押し隠された悲哀をも。
彼らが怪異となるその時、そこにあったのは一つきりの激しい感情だけではなかった。
「あなたも」
少女が、思いのほかはっきりと言葉を紡いだ。
「あなたも、悲しいのですか?」
「……ええ」
根岸は身を屈め、少女と目線を合わせると、シャツの袖を軽く捲った。
幽霊となる直前に負った手首の怪我が、生々しい傷口を
「僕もどうにも弱くて。大切な人を守れないうちに死んでしまう事が、心配だったし……そうですね、悲しかったです。物凄く」
少女は根岸の手首の傷を見つめ、しばらく沈黙していた。
ややあって、彼女の両目から思い出したように大粒の涙が零れ落ちる。
「かわいそう……」
「あ、どうも……いや貴方の方が大分見た目重傷ですけど」
気まずくなって、にわかに根岸は
そんな彼を前に、今までよりも激しく、幼児のような仕草で少女は泣きじゃくる。
「父上……おかた様……みな、みなが辛く、可哀想で。ずっと、悲しかったのです……」
だとすると彼女の父親は、と根岸が思いを馳せた時、卒然とその場に新たな声が落ちた。
「――その声は」
ごく低い声だった。
血流し十文字から湧いて出たように聞こえて、根岸は危うく握っていた柄を取り落としかける。
「
少女もまた、驚いた様子で鈍色の槍の穂へと視線を注いでいた。
「父上……?」
暗闇の中、光源もないというのに、槍の穂の表面に何かが映り込む。
赤黒い、水中に落とした墨汁のような影。
辛うじて人の形と呼べるかどうか、といった形状である。
(槍の持ち主。人としての意識を取り戻したのか?)
根岸は息を呑み、同時に痛ましさを覚えた。
彼は槍と融合し、呪具そのものへ変貌してしまった怪異だ。たとえ理性が蘇ったとしても、最早人間らしい姿も生き方も取り戻せないだろう。
何より、数百年にわたって死人を出すほどの呪いを撒いてきた事実と向き合うのは、常人の精神には荷が重すぎる。
槍の穂先から、ずるりと赤黒い影が這い出した。
何本か指が欠けているが、籠手を装着した右腕であるようだ。
「我が娘よ……よもや、再び……この目に映せるとは……」
半ば溶けかけた手指が、
少女は徐々に顔を綻ばせ、泣き笑いの表情を浮かべた。
「父上――幸はずっと、おそばにおりました」
「なん……と……」
声が打ち震える。
喜びからか悔いからか。両方かもしれない。
血流し十文字は、やはり人の姿を取る事は出来ないらしく、根岸が話しかけるより前に不明瞭な影へと返り、闇に溶け崩れた。
あとは鈍色の槍の穂に、僅かに赤黒い揺らぎが残るのみである。
(流石に対話や頼み事の出来る相手じゃないか……)
あわよくば協力を求める、などという目論見は浅はかだったかもしれない。
ひとつ息を吐いた根岸が槍から顔を上げると、少女が彼に向けて両手をついて、深く頭を下げている。
「……あの?」
何とも態度を取りかねて、根岸はそれだけ呼びかけた。
「お礼申し上げます」
と、少女は応じる。
「どのような姿であれ、父と再び言葉を交わせるとは、ゆめゆめ思うておりませんでした」
「そんな。えっと……顔上げて下さい」
あたふたと根岸は手を振った。外見上は少女でも、推定で四五〇年ほどの歳月を生きてきた相手なのだ。
「幸――さんというんですね」
再度膝を折って、彼女の名を口にする。
こちらの目論見はどうあれ、彼女は自身の名前も思いも、観測と確定によって取り戻した。父親と対話を果たした。そこは心底、殯の異能に感謝するところだ。
「良かった。良い名前です」
自分に言い聞かせるかのように、根岸は呟いた。
その時、二人を覆う暗黒が揺らいだ。
突然視界に光が飛び込んできて、根岸は闇に慣れきっていた両目を瞬かせる。
そして文字通りその瞬きの間に、幸の姿は消えてしまっていた。
「幸さん……?」
周囲を見回し、それから手元の血流し十文字に視線を落とす。
もうすすり泣く声は湧かず、槍の穂は不吉な鉄の色を帯びるばかりだ。
「根岸。時間切れになっちまったよ」
後方から、雁枝の固い声がかかった。
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