第58話 秋の初風、石のおと (10)

 イーゴリが逃げ去る。

 彼は大量に失血し、動くのもやっとという状態なのは間違いなかった。

 ミケの方は片目をやられたものの、動作にはそう支障がなさそうだ。まだ燃え盛る巨獣の姿を保っているので、追いついてとどめを刺す事も、あるいは可能だったかもしれない。


 だが、ミケは迷わず人狼に背を向け、校舎の方向へと駆け戻った。


「おい、聞こえるか! 今すぐ全員ここから離れろ! 魔眼の呪いが発動する!」


 ミケの大音声が響き渡る。

 声は確かに学校中に届いたが、しかし子供や教員の大部分は、まだ戸惑いの中でざわついていた。

 あまりに何もかもが唐突に起きたのだ。誰もこの事態について行けていない。突如校庭で暴れ回った巨大な三毛猫に逃げろと言われて、すぐさま従順に行動出来る者はそうそういなかった。


 校内にヴィイの魔眼を仕掛けたというイーゴリの言葉が、逃げおおせるための嘘という可能性もある。しかしミケはそう考えていないらしい。

 イーゴリという怪異が『餌場を放棄する際のちょっとした保険』のために何をするか、彼は正確に把握している。

 このままでは一体どれほどの被害が出るかという予測も。


「呪いだって?」


 ペトラと陸号ろくごうが、志津丸しづまるの立ち尽くす空き教室に駆け込んできた。


「ヴィイの魔眼がここに!? そんな、とても全員の避難なんか間に合わない!」

「魔眼の方を今すぐ探し出すしか――」

「そっちの方が無茶だよペトラさん、どこにあるのか見当もつかない!」


 陸号がほとんど叫ぶように言い返す。

 しかし、ただあたふたしている風に見えた彼は、不意に志津丸の方へと向き直った。

 翼を生やした肩をがっしりと掴まれる。


「とにかく、志津丸! 君だけでもすぐに逃げろ。君は飛べるから!」


 え、と志津丸は思わず聞き返す。

 陸号の表情は真剣そのものだ。傍らのペトラも頷く。


(オレだけ、逃げる?)


 視界が暗くなる程の無力感と失望に、志津丸は包まれた。

 失望――というのは、他の誰に対してでもなく、自分自身に向いた感情である。


(今、オレ、『やった、逃げよう』って思った)


 一瞬ではあるが紛れもなく、逃げ道を用意されて安堵した自分に志津丸は気づいていた。


 ――天狗には翼がある。ここから逃げ出せる。自分は無力な子供だ。怪異だ。人間の命になど責任を負わなくて良いのだ。陸号もペトラも責めたりしない。だから、逃げてもいい。


(でも)


 身を震わせながら、志津丸は思考する。

 その震えが恐怖から来ているのか、自身への憤りから来ているのかも分からない。


「……師匠なら」


 志津丸は独白のように呟いた。陸号が怪訝な顔をする。


「志津丸?」

瑞鳶ずいえん師匠なら……逃げねえ!」


 一度、強く両目を閉ざしてから決意と共に開き、割れた窓の方を振り返る。


「何してんだ!」


 陸号とペトラの制止の声を振り切り、窓枠へと足を掛けた志津丸は、翼を羽ばたかせて外へ飛び立った。


「志津丸!?」


 獣の姿のミケが、志津丸の真下で金縁きんぶちの片目を瞬かせている。志津丸は滞空しつつミケを見下ろした。


「全員を逃がしてちゃ呪いが効き始めるのに間に合わねえんだろ。そんで、どうせお前は人間を置いては逃げねえ……」


 志津丸は右の手の平に意識を集中させた。


「てめーより先にオレが逃げるとか、ダッセェだろうがよ!」


 風の塊が手の中へと収斂しゅうれんし、愛用の木棒が現出する。


 ――そうだ、


 志津丸の脳裏に閃くものがあった。

 彼は山風やまかぜの使い手。そして瑞鳶もまた風使いである。

 稀代の大天狗たる瑞鳶には、風の精気と天狗の眼力がんりきを練り上げて編み出された異能がそなわっている。山風の吹き降ろすあらゆる場所を見通す力だ。


 ――千里眼。

 怪異達はかの異能をそう呼び慣わす。


「山風ぇぇぇッ!」


 声を限りに、志津丸は呼んだ。辺り一帯の風の精気を全てこの場へ、彼の眼球へ集約させようとした。


視出みいだせ!!」


 探し当てるべきは、ヴィイの魔眼。土地をけがし水源を毒に変える、それもまた眼力の作用だ。

 勝負してやる、と志津丸は足元の土地を見据えた。見つけ出してみせる、今ここで。


 ぶっつけ本番、瑞鳶の見様見真似に過ぎなかったが、彼は風を集め、そこに自身の視力を乗せて再び放つ事に成功した。

 ごうっ、と音を立てて、風が学校の敷地内を吹き荒れる。いくつかの窓がひび割れ、校庭の木の枝が折れて飛んでいった。初めて発動させた能力だから、まるで加減が利かないし、調整している余裕もない。


 呪いが効果を発揮するまでに、あと何秒の猶予があるのだろうか。早く、早く――ありったけの速さを。


 志津丸は、解き放った風から送られてくる膨大な視界情報を無我夢中で解析する。過集中のためか、鼻血が顎を伝って滴っていた。目の周りの毛細血管も切れたらしく、血が涙のように頬を落ちる。


「志津丸、よせ!」

「いや――えた!」


 ミケが志津丸を止めるのと、志津丸が敷地内の一点の違和に気づくのと、同時のことだった。

 地面すれすれを吹きすさぶ風が、その下の土から立ち昇る禍々しい霊威を感知した。

 球形の何か。鶏卵程のごく小さな、そしてとびきり凶悪な怪異。


「北校門! 花壇前だ!」


 そう叫ぶなり、志津丸は自ら北の方角へ空を駆ける。

 北校門は校庭とは反対側に位置する。イーゴリに怯えて避難した児童達が数人、まさに今その場所を踏み越えようとしていた。

 呪いの発動した魔眼の真上を。


「近づくなああああッ!」


 志津丸は上空から渾身の力を篭めて棒を振るい、旋風つむじかぜを巻き起こした。


「きゃーっ!?」


 門を抜けようとしていた子供が突風に煽られ、悲鳴を上げて地面に転がる。打ち身と擦り傷くらいは作ってしまったかもしれない。が、志津丸には他の方法が思いつかなかった。


「なんもかんも無茶だ」


 そんな呆れ声を上げたのは、いつの間にか校舎の屋上まで駆けのぼっていた燃え盛る巨獣、ミケである。


「だが、お手柄だぞ志津丸!」


 ミケは一息に校舎の北側へと飛び降り、花壇前の土を前足で大きく抉り取る。

 彼の掬い取った土の合間から、小石にしては大きな黒ずんだ物体が一つ、ころりと出てきた。

 タールにでたらめの絵の具を混ぜたようなこの不気味な色彩を、見紛うはずもない。音戸邸で瓶の中に詰められていたヴィイの魔眼、その片割れだ。


「……危うい所だったな」


 前足の近くへ転がってきた魔眼に、ミケが鼻先を近づける。


「ミケさん! 貴方でも危ないよ、それは慎重に――」


 陸号と共に狼の姿で追いついてきたペトラが警戒の唸り声を上げた。

 ところがミケは、躊躇するでもなく魔眼を咥え上げる。

 誰の引き止める暇もなく、彼はそれをひょいと口の中に入れてしまった。


「ちょっ! みっ、ミケさん! 大丈夫なんですか!?」


 陸号が大慌てで問いかける。志津丸も、ただでさえ鼻血まみれで息を吸いづらい状態で、呼吸が止まるかと思う程驚いた。


「いや、かなり不味い」


 ミケが髭をしかめる。


「駄目じゃないですか!」

「しかし放っとく方が不味いだろう。ほんの一時いっときだよ。――すまんが俺は安静にしとくから、誰か御主人の所まで連れてってくれ。魔眼を閉じ込められる結界を張って貰う」


 そこでミケはようやく、小さな三毛猫の姿に戻った。


「心配しなくとも、猫だからいざって時に吐くのは得意だ」

「どんな得意分野よ。ヴィイの魔眼を毛玉飲んじゃったみたいに言わないで」


 冷静だったペトラも色を失っている。


「……わーったよ。音戸邸に連れてきゃいいんだな?」


 揉める大人達の間に割り込んで、志津丸は片翼を挙手する風に持ち上げた。


「オレが一番速い。おら、行くぞミケ」

「いや志津丸、お前は休め。というかすぐに怪異医を呼べ。顔面血だらけでゼイゼイ言っとるじゃないか」

「音戸邸行ったら呼ぶ」

「それじゃ遅い――ああこら!」


 ニャーッと鳴いて抗議する猫を無理矢理抱きかかえ、志津丸は空へと舞い上がった。


「結局オメーが一番無茶してんじゃん」


 ミケをシャツの裾でくるみ高速で滑空する志津丸は、翼が風を切る音の合間に、ぼそりと文句を言った。

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