第54話 秋の初風、石のおと (6)

 夜の明ける頃には、音戸邸はすっかり騒がしくなっていた。


 まず雁枝から電話を受けた中村陸号なかむらろくごう西東京にしとうきょうからすっ飛んで来て平謝りをし、続いて高尾山たかおさんの天狗の里から天狗達がぞろぞろと、こちらは文字通り飛来した。


 頭領の瑞鳶ずいえんは、会合のため京都に出掛けていて不在だったが、予定を繰り上げてこちらに帰還すると言う。


 現在、邸宅の客間では天狗達が雁枝と額を付き合わせ、志津丸と伽陀丸の当面の処遇について協議している所だった。



   ◇



 「なあ陸号、もういいから座敷に上がんなよ」


 徹夜明けのミケは猫の姿で重い瞼を瞬かせながら、玄関の土間で『伏せ』の体勢を取りっぱなしの狼の肩を前足で揺する。

 獣形態の陸号である。

 栗色を基調としたふさふさした毛皮で、タイリクオオカミに近い風貌だが、鼻筋の丸っこさとやや小柄な体躯は、絶滅したニホンオオカミも想起させた。


「さっき藪の中も通ったんで……汚れておりますので……」


 ミケの二倍以上の全長の狼は、消え入りそうな声を漏らした。


「そっちに足洗い場あるから。俺だってよく泥まみれで帰ってくるんだし気にするなって」

「クゥーン……」

「うん、預かってた子がこんな事になってショックだよな」


 ついにさめざめと泣き始めた陸号を前に、ミケは溜息をつく。

 同じ獣型の怪異でも、人狼は猫又に比べて社会性の高い個体が多い。その分、群れの掟やマナーに対して厳格で情にも厚く、身内と見做していた相手から裏切られた時の落ち込みぶりときたら、尋常ではなかった。


 それでもどうにか陸号を足洗い場まで引っ張って行き、泥を落としてやっていると、雁枝がミケを呼びに来た。


「ミケ、二人の処遇が決まったよ」

「御主人。案外早いな、どうなった?」


 タオルを咥え上げて陸号に渡してから、ミケは人の姿に化ける。猫の姿で狼を洗ったりしたものだから、大分身体が濡れてしまっていた。

 動物と対話する時は動物の姿をしていた方が、言語以外のコミュニケーションに便利なのだが、それも良し悪しだ。


「伽陀丸の方は一旦、山に連れ帰られる。その先の決定は瑞鳶が戻ってからだ。志津丸は逃亡の可能性なしと見做された。人間の掟に添って小学校の転出手続きを終えるまでは、この街で処分保留」

「なんだい、要は結論先延ばしか」

「頭領が不在だしね。天狗の里は合議が基本だ」

「かっ……雁枝様は、それで良いんですか?」


 自分の髪をタオルで拭きながら応じるミケより、余程従者めいたおずおずとした態度で、陸号が口を挟む。


「夜分に道場破りみたいな真似をされて……」

「あたしは慣れてるし気にしてない。それに、現代の人間の法律では違うらしいが、天狗の掟では格上の怪異に決闘を挑むのは処罰の対象にならない」


 決闘に関する取り決めなどと、現代の日本人からすると時代錯誤に思えるかもしれないが、怪異は他者とまともに対話の出来る種族ばかりではないのだ。

 縄張りを奪い奪われ、自身の霊威の強さを誇示する事でしか存在し続けられない怪異にも、相応の秩序は必要となる。次善の策と言えるだろう。


「厳密にはきちんと相手の合意を得た上で闘わなきゃならないんだが。今回は子供のした事だしな」

「慣れてる――んですか? 道場破りに?」

「御主人に挑みに来る怪異はちょいちょいいるぞ。今んとこ、俺を突破した奴はおらんがね」


 ミケが肩を竦めた。


「ミケの強さは、人も怪異も見誤りやすい。普段は力の大部分を抑制してるからな」


 何故か自慢げに、雁枝はタオルの上からミケの頭を撫でる。


「かつてはあたしが無理矢理封じてたもんだったが、数十年かけて、この子は自力で自分の霊威の解放具合をコントロール出来るようになった。今ではあたしの封印はほんの用心程度だ。大した子だろう」

「今はそんな話いいよ御主人」


 急に使い魔自慢をされても、傷心の陸号が困るだけだ。ミケは慌ててあるじの話をさえぎった。


「いや、今回の件にも関係してるんだよ。――伽陀丸は、弟をおとりに使って不意を打てばお前を始末出来ると踏んでた。多分あの子をそそのかした何者かも。大分甘い見込みで動いてたって事だ」


 雁枝の言葉に、陸号が「そっか」と顔を上げた。


「この近辺に縄張りを持つ怪異なら、ミケさんの強さは知ってるはずです。長年んでればね。『そそのかした何者か』は、全くの余所者……」

「そんなに知られてんのかい?」


 勘弁してくれとばかりに、ミケは眉尻を下げた。本音を言うと、彼は己の身の奥に潜めている闘争心を掻き立てられるのが好きではない。それは常に苦い記憶と共にあった。


「ま、お前には気の毒だが、ここいらの治安のために噂の的になっとくれミケ。あたしが耄碌もうろくしちまってんのは事実だからね」


 雁枝は茶化すが、実のところ笑ってもいられない話だった。彼女は長年生き血を断ち、そのために寿命が尽きつつある。そこまでは『何者か』に把握されているという事だ。


 ただし、使い魔のミケの力は雁枝から供給されている訳ではない。

 半不死の能力だけは、吸血女と使い魔の『血の契約』によるものだが、それ以外の力は彼自身に、顕現したその時からそなわっている。


 伽陀丸はこの辺りの事情を知らなかったものと思われた。

 実際、普通の動物に血と力を分け与え、使い魔にして使役する吸血鬼は多いのだ。その場合、使い魔の力は全てあるじに依存している訳だから、主が弱った時は使い魔も弱体化する。

 間近で霊威を抑制した状態のミケを目にすれば、彼もそのタイプだと思い込む方が寧ろ自然だろう。


「伽陀丸にヴィイの魔眼を与えて、妙な入れ知恵をつけた奴がいたとしてだ。そいつの狙いは?」


 顎に手を当てて呟いたミケは、そのまま考えに耽る。


「俺は伽陀丸が二重の囮って可能性を考えてたが」


 それもあってミケは、一晩中まんじりともせずに、音戸邸の屋根の上から周囲を警戒していたのだ。

 中学生を利用して、人死にが出るレベルの呪物を使わせる輩など、ろくでもない相手に決まっている。用済み扱いの伽陀丸や志津丸に危険が及ぶ事も考えられた。

 が、現時点までで彼は、雁枝が呼んだ陸号と天狗達以外に、この邸宅に近づく怪異を感知していない。


「あたしもそう思ってたけど。今のところ怪しい動きはないね」

「これだけ怪異のいる家を襲撃するのは、相手がどんなに油断しててもイヤじゃないですか?」


 少なくとも自分なら御免だ、と陸号は言う。


「ミケさんの隙を伺ってるうちに、僕や天狗が集まってきたから襲撃を諦めたとか」

「まあ、それもあり得るっちゃあり得るが……フアァ」


 ミケは口内で欠伸を噛み殺した。

 彼の本能は猫に近いので、薄明薄暮性で徹夜は苦手だ。


「ミケはもうお休み。ご苦労だったね」


 と、雁枝がまた頭を撫でてくる。

 二人きりの場であれば、ここで猫の姿になって耳の裏から腹まで撫でて貰うのもやぶさかでないが、流石に陸号の前では体裁が悪い。


「休む前に……お客さん方に茶のお代わり出してくるよ。あと御主人の朝飯用意しなくちゃな」


 誤魔化しがてら、陸号の方を振り向く。


「陸号も飯食ってくかい?」

「いえ、まさかそんな」


 陸号はくるりと尻尾を丸めて恐縮した。


「志津丸を連れ帰る許可が出たら、すぐおいとましますんで……帰りにマックでも寄ります」

「そっか」


 ミケは二人の若い天狗に思いを馳せる。

 現在二人は庭の結界から出されて、音戸邸内へと移動させられていた。一緒にしていると掴み合いの喧嘩になりそうだったので、伽陀丸は一階の和室に、志津丸は二階のミケの部屋に放り込んでいる。


「――あいつらも腹空かしてるかな」


 飯を食べたいとか、飯が美味いと思えるうちはまだ大丈夫だ。

 ミケはそんな持論を掲げている。

 遠い昔、これ以上この世に存在したくもないと絶望して暮らした日々が、彼にもあった。その頃は何を口に入れても、砂を噛むような気分だった。


 恐らく志津丸は今日、一生に何度もは経験しないレベルの、この上なく不味い朝マックを食べる事になる。

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