第53話 秋の初風、石のおと (5)

 ようやく上体を起こしたものの、志津丸しづまるはどうすれば良いのか分からなかった。

 眼前では伽陀丸かだまるが、喉元に爪を押し当てられて硬直している。

 志津丸の相手をしていた時と異なり、今のミケの瞳には明白な怒りと殺意が宿っていた。下手に動けば伽陀丸が死ぬ。そう確信出来た。


「やっ……やめろ! やめてくれよ!」


 夢中で志津丸は叫ぶ。


「魔女を倒しに来たのはオレだ。伽陀丸は助けてくれただけで……たっ、頼むから放してやってくれ!」


 最早、意地もへったくれもない。自分のせいで伽陀丸を死なせる訳にはいかないと、志津丸はそれだけを考えてミケに懇願する。

 ミケがこちらを見た。

 怒っているのかと思えば、そうではない。どこか哀しげな表情だ。


「ミケ」


 唐突に、新たな声が湧いた。

 音戸邸の玄関扉が開き、そこに一人の少女が立っている。容姿も背格好もミケと良く似ていて、人間で言うところの双子の姉弟きょうだいのようだ。


「御主人」


 ミケが少女に呼びかける。

 ミケの主人。つまり、彼女が『もがりの魔女』。高尾の大天狗瑞鳶ずいえんの盟友にして、齢五百の吸血女、音戸雁枝おとどかりえ


「ご苦労だったね。あとはいいよ、あたしがやろう」


 雁枝がゆるりとこちらに足を進める。それに合わせて、ミケは爪を伸ばしたまま、慎重に伽陀丸から身を離した。

 伽陀丸と志津丸の丁度中間地点に立った雁枝は、軽く片腕を掲げ、合唱の指揮者のようにくるりと指を回す。

 途端、志津丸は奇妙な感覚に包まれた。

 包まれたというのは比喩でなく、自分の身体の周囲にごく狭いテントが突然張られたかのように、外界から遮断されたのを感じ取ったのだ。


「なんだ……これ、結界?」


 そろりと前方に手を伸ばすと、やはりそこには不可視の壁が存在していた。頭上にも背後にも壁が張り巡らされ、志津丸が自由に動けるスペースは、その場で立ったり座ったり出来る程度しかない。

 壁には硬さを感じず、触れたところで熱や痛みも走らないが、不思議と押しても叩いても破れなかった。


 志津丸は伽陀丸の方へ顔を向ける。彼もまた、同じように閉じ込められている様子だ。


「そう、結界だ。お前は逃げたりしなさそうだけど、まあ少しそこで反省しな」

「……」


 雁枝に正面からにっこりと笑いかけられて、志津丸は恐ろしさに声もなく震えた。これから何をされるのだろう。


「おや、どうしたの。……あのね、ミケが何かおどしたかもしれないけど、あたしは昔から乱暴な真似は苦手なんだ。そんなに無茶なお仕置きはしないさ」

「どうかな?」

「これ、ミケっ」


 使い魔が横からぼそりと茶々を入れ、雁枝が叱る。ミケは視線を逸らし、「ニャオ」と猫の声で鳴いた。


「――でもね伽陀丸、これはやり過ぎだよ」


 と、雁枝が改まった厳しい表情で伽陀丸の方を向いた。

 彼女は片手に小瓶を携えている。

 自家製ジャムでも入っていそうな、特に変哲のないガラス瓶だ。しかし、その中に納められている物は異様だった。


 ネット状に編み込んだわら。それが球形の何かをいましめている。藁の合間から見える球は鶏の卵程度の大きさだが、真球に近く、タールにでたらめな絵の具を混ぜ入れたかのような毒々しい色彩だった。


「……眼?」


 直感的に、志津丸はそう口走った。

 雁枝が首肯する。


「ああ。『ヴィイの魔眼』。東欧生まれの呪物であり、こいつ自身が怪異だ」


 魔眼、あるいは邪眼、邪視と呼ばれるたぐいの怪異は、欧州を中心に世界各地で恐れられている。

 視線というものには神秘的な力が秘められていて、それによって魔を祓う事も出来るし、時には災いを呼び寄せると人々は信じた。


 『ヴィイの魔眼』――その呼称は十九世紀、当時のロシア帝国領の作家によって提唱され、怪異パンデミック後に世界的に定着した名だが、原型となる怪異は遥か古代から存在し、人間の眼に取り憑いてはるもの全てに災厄を振り撒いたという。


 この怪異のとりわけ厄介な特徴は二点。


 一つは、人に取り憑き邪視を振り撒く程に呪物としての力を増していき、力を増幅させた個体は、憑いた人間が死してもなお眼球の形で顕現し続けるという点である。

 たとえ土中に遺体ごと埋葬されてもその土地をけがし、周辺では作物が枯れ果て水には毒灰が混ざる、というのだから凄まじい。


 もう一つは、邪視の呪いが怪異に対しても有効であるという点だ。

 亡者の遺志によって生まれる妖怪や怨霊が、生者の生命に霊威で干渉しようとする呪いの力は、より霊威の強い怪異相手だとはじかれてしまう場合が多い。

 が、魔眼は『る』事で視界に映る土地を穢す。

 そこで採れた水や食べ物を摂取する者は、動物であれ怪異であれ、魔眼の毒の影響を受ける。とかく怪異は、視認という形での干渉に弱いのだ。


「つまり、ヴィイの魔眼は御主人にとっても危険ってことだ。人の血をってからは、人間と同じ飯食ってるし」


 雁枝の説明の後、ミケがそう付け加えた。


「好き嫌い多いけどな」

「余計なこと言うんじゃないよミケ」


 炊事を担当しているらしい使い魔を一睨みしてから、雁枝はまた伽陀丸に向き直る。


「でもま、そういうことさ。――あたしはどうとでもなっただろうが、この屋敷にはミケもいるし、怪異や人間の客人も多い。それに」


 雁枝の目が、すうと冷たく細まった。


「お前、この屋敷の敷地内でなく……上水道に魔眼を仕掛けようとしたね。人間や小動物、特に子供がこの呪いにやられると、ひとたまりもないってのに。何人殺す気だったってんだい」


 伽陀丸もまた、酷く温度の低い視線を雁枝に返す。

 志津丸は、頭から水でもかけられたような気分で両者を見比べていた。


 ――天狗は無闇に殺生を行ってはならない。


 それは強靭な存在として生まれ出る者への当然の戒めであると、志津丸も伽陀丸も、幼い頃から言い聞かせられて育ってきたはずだ。

 大人達の物言いに反発したりはするが、その教えが間違っているとは、志津丸は思っていない。

 だから今回も、殯の魔女に勝負を挑みはしたが、命の遣り取りをするつもりは露ほどもなかった。ましてや無関係な子供や動物の命を、毒で奪おうなどと。


「嘘だ!」


 我知らず、志津丸は叫んでいた。


「伽陀丸が、ンなひでー真似するかよ! デタラメ言うな!」


 するとミケが、憤るとも嘆くともつかない息を短く吐く。


「……数日前から、音戸邸の敷地周りを探ってる奴がいた。何らかの呪物を土地に埋め込もうとしてる風だったが、屋敷には御主人が結界を張ってるし、周辺は俺が見張ってる。それで上手い事近づけなかったみたいだな。

 残り香からして相当に危険な呪物を持ってると分かったから、放置するのはまずいと考えて誘い出す事にした。読みどおり、を俺にぶつけて、手薄になった裏手の上水道へ、って作戦に出たようだが……」


 そこで彼は言葉を切り、伽陀丸の方を見て眉根を寄せた。


「まさかそのおとりが志津丸だとは思わなかったし、伽陀丸、お前が主犯だとも思ってなかったよ。……残念だ。サプライズにしちゃあ悪趣味が過ぎる」


 伽陀丸はまだ沈黙している。先程から口を閉ざしたきりで、こちらに一瞥も寄越さないのが志津丸は気になった。呪いを撒こうとしたなどと、そんな与太話は早く否定して欲しかった。


「何も知らせないまま、弟を巻き込んだのか? どうしてこんな真似したんだ」


 静かだが有無を言わせない口調で問うミケを、伽陀丸がきっと睨む。


「弟? 勝手に決めるな」

「同じ峠で生まれた天狗同士じゃないか」

「だから何だ。天狗に――怪異に、親子だの兄弟だの必要ないだろ。人間みたいで気色悪いッ」

「伽陀丸!」


 ミケが伽陀丸の物言いを咎めた。だが伽陀丸の憎々しげな言葉は、堰を切ったように止まらない。


瑞鳶ずいえんが悪いんだ! お前達みたいな、人間一人食い殺すのも遠慮する弱腰の老害をいつまでも珍重して! 後継に選んだのは扱いやすい単純馬鹿じゃんか! 俺なら改革してもっと上手くやれるのに、遠ざけられて――」

「瑞鳶はまだ後継を選んじゃいないよ」


 首を振りつつ、雁枝が口を挟んだ。


「久しぶりに直弟子を取った事を言ってるなら……まあ、何せマイペースな奴だから真意は分からないけど……別に志津丸の将来をそれと決めつけての意図じゃない。伽陀丸、お前に対してもだ」

「知った風な口利くなよ!」

「お前よりは瑞鳶を知ってるさ、長い付き合いだ。それに似た者同士。あいつもあたしも、身贔屓出来るほど器用じゃない。相応しいと判断してしまったら、昨日生まれたポッと出の幽霊でも後継ぎに指名するような奴だ」

「――御主人、そんな予定が?」


 ミケが思わずといった様子であるじへと目を瞠る。


「今の所ないけど。もしそうなったら後継ぎのおりはミケの役目だね」

「……」


 困惑に閉口する使い魔を後目しりめに、雁枝はゆるりとした足取りで伽陀丸へ歩み寄った。


「お前がどんな大層な『改革』とやらを夢見てたのかは知らない。それに、あたしみたいな年寄りが大きな顔してると気に食わないってのはよく分かる。若い天狗達の道に口を出す気なんかないさ……。ただし、こんなやり方は流石に許容出来ないよ」


 魔眼の入った瓶を片手に、雁枝は淡々と告げる。


「お前達の身柄は天狗達に引き取りに来て貰う。どこで魔眼こいつを手に入れたか、誰にそそのかされたか……その時正直に話しな。で、一度瑞鳶にしっかりとお説教される事だね」


 そんな言葉を最後に、雁枝は屋敷の扉の向こうへと消えた。

 後に残ったミケは、再び猫に姿を変え、玄関の庇に飛び乗って欠伸をひとつしてから丸くなる。見張りとして残るが、これ以上余計な口を利くつもりはない、という意志表示らしかった。


「……伽陀丸」


 静まり返った屋敷の前庭で、志津丸は兄貴分――そう呼ぶ事を否定されたばかりの――に声をかける。

 伽陀丸は結界の中で座り込み、俯いたままだ。返事も寄越さない。

 志津丸は、急速に腹立たしさを覚えた。


「何とか言えよッ! 本気だったのかよ、呪いを仕掛けようとしただの、オレをおとりに使っただの……何考えてんだ、バッカじゃねえの!?」

「お前に馬鹿呼ばわりされたくない!」

「アんだと!」


 怒鳴り合いになりかけた所で、明後日の方に目を背けられる。罵倒でも何でも良い、こちらと正面から向き合って話して欲しい気分だというのに。しまいに志津丸は泣きたくなってきたが、ミケも見張っている前でそんな真似は出来ない。


「俺の……思いどおりに事が運んだら、その時はお前だって仲間に入れてやるつもりだった」


 いくらか声のトーンを沈ませて、伽陀丸は呟いた。


「仲間って――」


 と志津丸は、先程から頭にわだかまっていた疑問を口にする。


 ――伽陀丸はどこで魔眼を手に入れ、誰にそそのかされたのか。


 東欧生まれの怪異にして、力を蓄えきった呪物。日本の中学生が簡単に手に入れられるはずはないし、天狗の伝手つてで取り寄せられるものとも思えない。


「仲間って、……」


 志津丸のその問いかけもまた独り言のように、暗い庭の芝生の上へぽつりと落とされた。

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