第52話 秋の初風、石のおと (4)

 上空からの印象以上に、音戸邸は立派な邸宅だった。

 志津丸の育った山奥の天狗の里も堅牢ではあるし、別に気後れする必要はない。ただ、そもそも人間の街で他人の家を訪ねた経験が志津丸にはあまりない。彼はしばし、玄関前でまごついた。


 邸宅の玄関扉は、木造りの観音開きで古めかしく重厚だが、その横にはカメラ付きのインターホンが取りつけられている。

 無機質なカメラのレンズと睨めっこをしているうちに、ここまで来て尻込みしている自分に腹が立ってきた。志津丸は一つ深呼吸をして、叩き壊す勢いでインターホンを押した。


 屋内からの応答を待たず、大音声を上げる。


「だらっしゃあアア! 出てこいやあアアアア!!」


 すると、数秒と経たないうちに玄関脇の小窓が開き、そこから目にも止まらない速度で回転する何かが飛んで来た。

 避ける暇もなく、かつん、と志津丸の額に飛来物が当たる。


「いてっ!」


 地面に転がったそれをよく見れば、台所道具のシリコン製おたまである。


「こらっ。何考えてるバカタレ、近所迷惑だろうが」


 半端に開いた小窓の細い隙間から、器用にもするりと抜け出してきた小さな影が口を利いた。

 猫だ。

 日本猫らしい丸みを帯びた輪郭にはっきりとした模様の、毛並みの綺麗な三毛猫で、長い尻尾が根元から二つに分かれている。古くからの日本の怪異、猫又ねこまたである。


「その翼、天狗か?」


 玄関先に降り立ち、こちらに歩み寄りながら猫は小首を傾げる。声色は少年のようだが口調は落ち着いていて、志津丸の苦手な、ものの分かった大人のそれに聞こえた。


「そっ……そうだよ! オレぁ大垂水おおたるみの志津丸ッ! もがりの魔女と勝負に来た!」

「志津丸? ああ! 何だ何だ、大きくなったな」


 足元までやって来た猫が、暗闇の中で光る目を瞠る。

 急にフレンドリーな調子で話しかけられて、志津丸は戸惑った。


「音戸の使い魔のミケだよ。覚えてないか? お前が生まれた時に祝いに……それは覚えてないだろうが、五歳の時、袴着はかまぎの儀でも会ってるぞ」

「いや、知らね……」

「お前、俺を抱えたまま大泣きしたもんだから、こっちの腹毛が鼻水まみれに」

「知・ら・ね・え!!」


 永久に葬り去りたくなるエピソードを勝手に開陳されて、志津丸は真っ赤になった。


 しかし言われてみると、薄らと浮かび上がる記憶はある。


 幼い頃、酷く退屈な祝いの席に据え置かれて不貞腐れていたら、どこかの客人が連れてきた喋る猫が遊んでくれたのだ。

 志津丸は猫を気に入って、「このまま一緒に暮らす」と師匠にねだったのだが、どうもそれが無茶な物言いだったらしく、叱られて大泣きをした。勿論、猫は山にとどまってくれず、客人と共に帰ってしまった。


「……あん時の」

「覚えてるじゃないか」


 ミケは満足した風におたまを咥え上げて、志津丸を振り仰いだ。


「御主人ならもうご就寝だ。用事は明日の朝な。ステイ先の人狼、陸号ろくごうだったか? あいつには連絡入れとくから早く帰れ」


 てきぱきと告げるなり、回れ右をして立ち去ろうとする。

 思わず自然に見送りかけた志津丸だったが、はたと我に返り、「待てや!」と慌てて声を張り上げた。

 ミケが視線だけこちらに向けて「しっ」と諌める。


「だから声が大きい」

あるじが寝てるっつうなら、使い魔! テメーから勝負しろっ!」

「断る。明日の朝飯の仕込みをしたら俺も寝る」

「なっ、に、逃げんのかよ!」

「ああ」


 挑発の通じる相手ではなさそうだ。

 志津丸はやむなく、自身の霊威を右の手の平へと集中させた。

 右腕の周りでふわりと風が吹き、空気の塊が収斂しゅうれんして、仮初かりそめの物質が構築される。


 身の丈程の長さの棒。

 木製に近い手触りだが、本物の木ではない。これは志津丸の霊威と、周囲の自然界を巡る精気を練り上げて作り出した武器である。幻影などではなく、ぶつければ棍棒と同程度の威力を発揮する。

 本当は刃を付けて薙刀なぎなたの形にしたいのだが、繊細な形状の金属刃は構築が難しく、今の志津丸では現出させられない。


「おい、使い魔! かかってこい!」


 志津丸は棒を構えて、ミケの背に吠えた。


 ……正直言って、怪異だとしても猫を棒で叩くような真似はしたくない。ミケは猫又だから化けられるはずだ。人の姿を取ってくれないものか。


 臨戦態勢に入ったまま志津丸が手をこまねいていると、不意にミケが足を止め、尖った耳を忙しなく動かした。


「――こいつは」


 一つ呟いて、彼は身をよじる。細い煙が立ち昇り、猫の姿が消えたかと思うと、代わって暗闇から卒然と、人間の少年が現れた。

 少年と言っても志津丸よりは年嵩の、十代後半くらいに見える。匂いを嗅ぐような仕草で明後日の方角を睨む、その横顔が陶器人形のように整っていた。

 ただし服装は、明らかにパジャマと思われる薄手の上下に素足という出で立ちで、ちょっと気の抜ける雰囲気ではある。

 が、この機を逃す手はない。


 志津丸は改めて棒を握り直し、腰を沈め体勢を整えてから地面を踏み切った。


「りゃあッ!」


 ミケの頭上まで一息に跳ね上がり、全体重を乗せた一撃を振り下ろす。

 霊威を伴う彼の棒術はインパクトの瞬間に鋭い風圧がかかるため、常人の攻撃より遥かに重い。速さと重みを兼ね備えるのが、山風を操る天狗の持ち味だ。


 が――渾身の打撃は、ミケの真横を素通りした。


 はじかれたのでもかわされたのでもない。

 ミケは片手に持つおたまを、突き出された棒の進行方向に沿わせる形でかち合わせ、風圧共々方向を変えて受け流したのだ。

 上体を負荷のかかりそうな角度に捻り、それでも平然としているのは流石に猫科の怪異である。


 バランスを崩しかけた志津丸だったが、この程度は彼も想定内だ。瞬時に背の翼を広げて体勢を維持し、もう一撃を加える。これも同じように手応えなく流された。

 更に踏み込んで一振り。志津丸が距離を詰めた分ミケが後ろに退いたように思えたが、それはフェイントで、彼は滑るように横合いへと動いていた。

 死角に入られる、と焦った志津丸は足を組み替えて隙を塞いだが、ミケは仕掛けて来ない。


(屋敷から引き離せればそれでいいってか、気に食わねーッ!)


 立ち位置を誘導されたと気づいた志津丸は、攻勢を緩めないまま歯噛みする。


「てめ、かかってこいっつってんだろ! やる気あんのか!」

「ある訳ないだろ」


 この格好を見ろ、とミケは続ける。確かにぐうの音も出ない。そもそも夜討ちに近いやり方を決めたのは志津丸と伽陀丸かだまるだ。


「しかしお前こそ、俺が猫でいる間に仕掛ければ良かったじゃないか」

「嫌なんだよ! なんかそういうのは!」


 打ちかかりながら志津丸は言い返す。これは紙一重でかわされた。

 相手は速度も挙動も平凡の域を出ない。今にも仕留められそうだと思えるのに、いざ得物を振るうと命中はせず、つい深追いして距離を詰めてはまた良いように誘導される。

 恐らくミケは、抜群に間合いの取り方が上手いのだ。そこまでは分析したが、しかし打開策が思いつかない。


「小さい頃からお前は動物が好きだったからなぁ」


 ミケがふっと懐かしげな笑みを浮かべる。


「だが、怪異が敵の見た目に惑わされてちゃあらちが開かんぞ。太刀筋は悪くないってのに」

「うるせ!」


 怒りに任せた全力の一突き。

 今度こそ捉えたか――と思ったその瞬間、突如志津丸は手首を掴まれた。同時に、足首を掬い上げられる。足払いにしては痛みすら伴わず、ごく自然に重心を移動させられたような感覚だった。


「よっと」


 ミケの素っ気ない声が上がり、気づけば志津丸は芝生の上に背中から転がされていた。

 片手首はまだ掴まれている。傍らにおたまを置いたミケは、空いた手で志津丸の棒を苦もなく取り上げ、握る手に力を篭めた。棒がばきりと音を立てて半ばからへし折れ、元の風の精気へと戻って虚空に溶ける。


「まだやるか? 使いっぱしり相手にこの有り様で、どうやって御主人と戦う」

「クッソ……!」


 志津丸は跳ね起きようと手足をばたつかせたが、片腕の肘と両膝にし掛かられて押さえ込まれた。

 相手は細身だというのに、ひぐまでも覆い被さっているかのように重い。動けない。


 見上げれば間近にミケの顔がある。

 こちらを見下ろす猫又の視線を真正面から受けて、初めて志津丸は背筋の冷えるのを感じた。

 朱色を湛えた金縁きんぶちの瞳。その奥底に、温度のない暗い炎がゆらめいている。

 彼はまだ自分の霊威を、まるで表出させていない。

 先程までは単なる二本尾の猫で、今は人間の少年の姿を取っているが、彼の真の姿はのだと志津丸は察した。


 手加減されている。駄々っ子をあやすように。彼が本気だったなら、志津丸は瞬き一つ分の間に消滅させられていた。


(……これで使い魔? 使いっぱしり、だって?)


 彼のあるじたるもがりの魔女は、一体どんな力の持ち主だというのだ。


 志津丸は絶望感に支配され、徐々に手足を弛緩させていった。戦意を失いつつあると見做したのか、ミケの方も身を離す。


 その背後に、迫る影があった。


「――ッ!」


 短く密やかな気合と共に、空気を斬る鋭い音が響く。

 寸でのところでミケは地面に手をつき、大きく身を翻してその場から飛び退すさった。


「伽陀丸!」


 志津丸は思わず兄貴分の名を叫ぶ。

 ミケの眼前に舞い降りたのは、猛禽類の翼を広げた伽陀丸。先端に六角の金属塊のついたバトン状の武器を二振り、両手に構えている。すいと呼ばれる鈍器である。


「伽陀丸、お前か」


 志津丸と同じく、伽陀丸も幼い頃ミケに逢った事があるのだろうか。見知った顔を確認する口振りでミケは彼を呼んだ。

 しかしそこに、志津丸に見せた昔を懐かしむような色はない。それどころか妙に無表情に思えた。


 伽陀丸の方も、旧交を温める気はないらしい。彼は無言で姿勢を低めて地面に指先を触れさせた。

 直後、ミケの足元で異変が起きる。

 地面に敷かれた細かな砂礫が、蛇が鎌首をもたげるかの如くざらりと隆起した。

 砂礫の蛇は開いたあぎとでミケの足首に噛みつき、見る間に硬化する。ミケは地面に繋ぎ止められた格好だ。


「天狗の礫塵れきじん使い――」


 捕らわれた自身の足首をちらりと見遣って、ミケは低く呟く。


「お前も筋は良かった。どうしてこんな」


 途端、皆までは言わせないとばかりに伽陀丸が仕掛けた。

 凄まじく速い。しかも、その動作は流麗で捉えづらい。

 ミケの足を封じながらなおも正面からは攻めず、伽陀丸は側面に回り込んで薙ぎ払うように双錘を振るった。


 その時、微動だにしなかったミケの姿が掻き消えた。猫へと化けたのだ。人間のミケを捕らえていた砂礫の足枷は瞬時の変化へんげに対応出来ず、猫を取り逃がす。


 そこからは――志津丸にも、恐らく伽陀丸にも目で追う事が出来なかった。


 微かな金色の眼光の軌跡だけを残して、ミケが疾駆した。

 伽陀丸の背後を取り、彼が振り向くより早く再び人の姿に変わる。伽陀丸がミケと視線を交錯させた時には、彼の首にミケの手指が添えられていた。

 指の先には、いつの間にか万能ナイフ程の刃渡りの爪が伸びている。それが伽陀丸の頸動脈に食い込む寸前の位置で、ぴたりと止まっていた。


「……、なっ……」


 目を見開いた状態で、双錘の構えも解かず、動けなくなった伽陀丸の喉奥から、微かな呼気の音だけが聞こえる。


「勝負を挑むくらいならともかくな、伽陀丸。


 ごく静かな声音で、ミケが告げる。


 志津丸にはその言葉の意味が理解出来なかった。

 ただ分かるのは、この夜襲が失敗に終わったという事だけだ。ただの一太刀も、標的に浴びせられないまま。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る