第51話 秋の初風、石のおと (3)

 思い立ったが吉日。

 『裏技』で修行を強制終了して郷里に帰る決意を固めた志津丸しづまるは、伽陀丸かだまると共に早速中村家のベランダから抜け出し、猛禽類のそれに似た天狗の翼を広げて夜の街を滑空していた。


 西東京市の南西に位置する小金井市を目指して、冷たさを帯び始めた秋風を切る。

 東京都と言ってもここは二十三区外、眼下にはベッドタウンらしい住宅地が連なり、今は夜の九時過ぎだ。既に人の気配は乏しかった。


 志津丸は飛ぶのが好きだった。というより、高速で移動し身体に風を感じるのが好きだ。

 人間の乗り物で言うと、自転車は悪くないと思っている。将来はバイクでも買ってみようかなどとも。


「志津丸はどうせ、正面から一対一タイマン張るつもりだよな? もがりの魔女相手に」


 隣を飛行する伽陀丸が、風切り音の合間に語りかけてくる。


「うん。最初はその、使い魔って奴が出てくるのかな」

「多分ね」


 請け合ってから、伽陀丸は少し考えて付け加えた。


「俺は屋敷の裏手から仕掛けようと思う。志津丸が危なくなったら加勢するからな」

「えっ……二対一でも、倒したって認めてくれんのか? あんまり卑怯な形で勝っても、後で文句言われるんじゃねえの」

「さぁー。でも、認めてくれると俺は思うな。少なくとも魔女の方から文句は出ないよ」

「なんで?」

「大物怪異は大概プライドが高い。修行中の半人前怪異にけるなんて、どんな事情があっても大恥だ。その挙げ句、みっともなく言い訳をするなんて事はまずないだろう」


 そこで伽陀丸は、少しばかり顔を曇らせる。


「俺は人間なんて軽蔑してるけど、年寄りの怪異達のそういう所も嫌いだ。個人主義っていうか、手前勝手なんだよ。こんなだから怪異は、パンデミック以来これだけ増えたのに人間に勝てない」

って?」


 怪訝に思って、志津丸は率直にたずねた。


 人間は勝負の相手ではない。志津丸はそう認識している。

 彼らの畏敬の念や未知への恐怖によって、怪異はこの世界に顕現するのだ。人類が、死や大自然を恐れる程に複雑な知能を持つ物質生命体へと進化しなければ、精神生命体も形を得ず、異層の世界を揺蕩たゆたうだけだった。

 ある意味で怪異の生みの親は人類という事になる。


 ただ、だからといってあれらの脆弱で臆病な種族と懇意にする必要はない。怪異の大多数はそう考えているはずだった。互いに奇妙な隣人として、折り合いを付けていればそれで十分だ。


「まあ、それもおいおいな……」


 囁くような声で伽陀丸は話を打ち切る。

 幼い頃から兄弟同然に過ごしてきたはずなのに、時折、伽陀丸の考えている事が志津丸には分からなくなるのだった。


「――見えてきたぞ。あの森の中だ」


 伽陀丸が前方を指差す。

 示された先に、森よりは木立ちと呼ぶに相応しい、生い茂る木々が見える。その中央に瓦をいた広い屋根。二階建てながら、かなり大きな邸宅のようだ。城郭を思わせる物々しさがある。


「こんな所まで来たの初めてだ」


 近場の電柱の上へと降り立って、志津丸は辺りを見渡した。


「伽陀丸は来たことあんの? よく場所知ってたな、オトドテイ……だっけ、あれ」

「来るのは初めてだけど。出発前に地図覚えといただけ」


 住所は瑞鳶ずいえん宛ての手紙を見て知っていた、と伽陀丸は樹上で肩を竦める。


「殯の魔女は瑞鳶様の旧友。いつか訪ねる日も来るかと思ってさ」

「ふうん、色々考えてんだ……伽陀丸ってやっぱすげぇのな」

「まだ何もしてないじゃん。胡麻擦ごまするなら俺がカッコよく助けてやってからな」


 一つ苦笑を漏らすなり、伽陀丸は翼を再び広げ、森の向こう、音戸邸の裏手方面へと飛び去った。


「……んだよ。助けが要るかどうか、やってみなきゃ分かんねえっつの」


 言い返す前に逃げられてしまった。志津丸は仕方なく一人でそう零して鼻を鳴らすと、電柱から路上へと舞い降りた。



   ◇



 「……うん、そう。そこはさっき雁枝かりえ様にも相談したんだけどね。小学校はあと半年だし、もう無理に通学とか考えずに……志津丸の成績? うーんちょっと不安。でも音戸邸の家令さんがウチで勉強見てもいいよって言ってくれてて」

『音戸の家令? あの魔女のコチカ? 随分と上等な猫の手を借りるもんだねぇ』

「人間の学問が趣味だとかで、この前まで高校通ってたそうなんだよ。だから自分の勉強の復習も兼ねて、だってさ」

『彼、もう七十過ぎじゃなかった? 高校……。噂には聞いてたけど、変わった……いえ、奇特な使い魔ね』


 陸号ろくごうは「ほんとに」と相槌を打って、頬と肩の間に電話の子機を挟み、空いた手で冷蔵庫内に食材を押し込んだ。


「しかし、お店も休みだってのに悪いねペトラさん。こんな夜中に愚痴なんか聞かせて」

『あっははは、別に構やしないよ、暇してたもの。もう仕事終わったんでしょ、これからオンライン飲み会に移行する?』

「いやあ、明日の朝には音戸邸行かないとだから」

『あら、それならやめとこうね』


 電話の相手は、ペトラという名の人狼である。

 『人狼ゲームを楽しむ人狼の会』の一員で、既に年齢は五十を超えるが、三鷹みたか市で東欧料理を出すバーなどを数店舗経営しているやり手だった。生まれはチェコ共和国で、東欧のいくつかの国を渡り歩いた経験があるらしい。


 東欧の情勢は、ここ四半世紀にわたって複雑な様相を呈している。


 一九九一年、翼長二.六キロメートルという途方もない大きさのドラゴンがモスクワに顕現した。

 アメリカ合衆国分裂後、政情は不安定ながらも世界唯一の超大国と呼ばれてきたソビエト連邦は、この事態により崩壊。以降旧ソ連圏の人々は、航空写真でなければ全貌も確認出来ない巨竜とその眷属達を相手に、果てない闘争を繰り広げている。

 戦乱の影響は、中東欧および中央アジアの全域に及んだ。


 当該地域にてパンデミック以前から人の世に潜んで暮らしていた怪異達も、ドラゴン達とは折り合いがつかず、移住や放浪を繰り返している。


 ロシア語の堪能なペトラは、ドラゴンに追われて旧ソ連圏から逃げてきた人狼の子供達の面倒を何人も見てきた。まだ三十そこそこの陸号にとっては、育児の大先輩と言ったところだ。


「でも、お陰でいくらか気が楽になったかな。天狗は基本的に僕らより長生きなんだし、長い目で見ないとね」

『まあ――そうは言っても難しい年頃だから、気をつけてはあげなよ。上の子もね』

「伽陀丸? あの子は割としっかりしてて」

『優秀な子ほど、悪い奴に目をつけられたりするもんよ』


 そういえば、とペトラは声の調子を変えた。


『イーゴリって名乗る人狼を、そっちで見かけたりしてない?』


 聞き覚えのない名前に、陸号は目を瞬かせる。ロシア語圏の名だろうか。


「知らないな。うちのサークル参加希望だとか?」

『まさか、冗談じゃない。人でも怪異でも取って食う危険な人狼だよ。わたしが五年前、ハバロフスクでそいつの事を知った時にはもう悪名高かった。“霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネ”なんて呼ばれて』

霧中トゥマネ?」

変化へんげ能力が際立ってるんだ。本来の姿を知る奴はほとんどいない。シェイプシフター級……日本の怪異で言えば、狐や狸に匹敵するくらい』

「そりゃ凄い」


 現代において、多くの怪異は種族を問わず、自身の姿を変える異能をそなえている。

 特に獣が化けた怪異――人狼、猫又に化猫、古狸、妖狐、化狐といった種は、ほぼ完璧に人間の姿を模し、その姿を維持したまま日常生活を送る事が可能だ。


 ただし、狼や猫は戦いに秀でている分、変化能力の面で狐や狸に一歩を譲る。化けられる人の姿は一種類のみという個体がほとんどで、年齢も性別も自由自在とまではいかない。

 本来の姿が分からないレベルの変化能力とは、まるきり『人狼ゲーム』の人狼役並みではないか。


「人狼ゲームの人狼の設定、過剰だよなって常々思ってたけど……そもそも毎晩人間食えるような食欲ないし……いる所にはいるんだなそういう奴」

『何を馬鹿な感心してるの』

「はい」


 ペトラの声色はあくまで真剣である。陸号は慌てて態度を改めた。


「それでその、“霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネ”が……まさか来日してる?」

『都内で、あいつに似た手口の事件があったって聞いた。無害な怪異が、人狼に襲われて食い殺された』


 短い嘆息が電話口の向こうから漏れる。陸号としても思いきり悪態を吐きたい気分だ。


「勘弁してくれよ同族ぅ……」

『都心部の陰陽士の監視網を避けて、ここらの街に逃げ込むかもしれない。呑気な獲物ならこっちの方が多いだろうしね。重ねて言うけど、天狗の子達のこと、気をつけてあげて』

「分かったよペトラさん。情報ありがとう」


 礼を述べてから陸号は、ふと天井を見上げた。

 ……先程から物音がしない。それに、怪異の匂いもしない。

 陸号は荒事は得意でないが、狼らしく嗅覚は確かだ。


『陸号? どうかした?』

「いや、何でもない……といいんだけど」


 電話の子機を持ったまま陸号は階段を上り、そして無人の子供部屋を目の当たりにして、素っ頓狂な声を上げた。

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