第47話 殯の魔女 (7)

 音戸邸に置かれている卓上電話は、家電として機能しているのが奇跡と思えるくらいに古めかしい、黒いダイヤル式の電話機である。

 根岸もミケも普段は専ら自分のスマホを使っているから、あまりこの電話に活躍の機会はないのだが、たまに年配の妖怪などからかかってくる事はある。

 この電話機が久しぶりに、こちらから外部への通話装置として稼働した。


 雁枝の電話を受けて、特殊文化財センタートクブン所長の上田が、多摩たま市からすっ飛んで来た。

 根岸が迎え出てみると、上田は大分疲労の色の濃い顔つきをしている。


 ――遺跡に出没する幽霊との接触を図ったトクブン職員が、現場で呪物の怪異を発掘し、更にその足で、反怪異国際テロ組織に遭遇した。テロリストによって陰陽庁の職員が死亡、警察官が負傷。七振りの呪われた日本刀と六体の幽霊が押収され、また都内大物怪異の使い魔が負傷した事により、眠っていた主人が目覚めた。なお、トクブン備品の測量器具が一つ壊れた。


 これだけの事件が一晩でいっぺんに起きたのだから、トクブン職員は巻き込まれただけとはいえ、責任者として疲れもするだろう。


「俺まで幽霊になりそうだ、過労で」

「やめて下さいよ」


 相手は冗談のつもりなのだろうが、根岸は本気で眉をひそめた。

 たった今、ミケがあるじの雁枝に殉じるかどうかの問答を間近で聞いたばかりである。殉職の話題は洒落にならない。


 八十年前のミケは、雁枝との主従契約による呪縛なしに、自分の力を抑える事が出来なかった。

 だが今は違うはずだと雁枝は言う。

 根岸が『もがり』の地位を継いだ暁には、ミケは魔女の耳目じもくでもなければ不死でもない、普通の猫として今度こそ自由な生を送って欲しい、それがコマの願いだったと。


 ただし根岸にせよミケにせよ、彼らが平穏に暮らすには、現在置かれた状況はいささか物騒だ。

 命を狙われつつの日々は平穏とは言い難い。ミケは闘争に駆り出される程に、身の内の深くに封じた獰猛な魂の炎を再び燃え立たせてしまう。


 根岸は、脅威を退しりぞける力を身につけなければならない。彼自身を守り、音戸邸の主従を守り、この街の怪異と人間を守って、平和な亡者として暮らしたければ。


 ――無茶振りでは?


 正直なところ、根岸はそう思う。

 生前、幼少期から取っ組み合いの喧嘩すらろくに経験していないのだ。いきなり槍など持たされても困る。


 根岸だけであれば脅威から逃げ切れるかもしれない。そういう選択肢もぎりはした。

 例えば故郷の山梨にでも帰って身を隠すだとか。


 実家近くには、人間・根岸秋太郎の遺骨が納まっている先祖代々の墓があるし、根岸家が檀家になっている寺もある。幽霊として化けて出たものの、遺族や僧侶に供養して貰えば徐々に『成仏』に至る怪異は少なくない。

 国際テロ組織とのいさかいになど巻き込まれたくないと固く拒絶するならば、永久に逃げる道は確かにあるのだ。


 家族は分かってくれるだろう。ミケも雁枝も咎め立てはしないと思われる。……だが。


「なんだ、根岸も浮かない顔だな。まあ無理もないが」


 靴から来客用スリッパに履き替えた上田が、そんな感想を述べる。


「……もう一度死にそうな顔してます?」


 力無く根岸が笑うと、上田は顔をしかめた。


「それこそよせよ」


 これもまた冗談としての遣り取りだったが、上田が根岸の身を案じているのは確かであるようだった。


 ――結局のところ、


 つくづくと根岸は思い知る。

 全てを投げ出して逃げ出すには、根岸の周囲には『縁』が多すぎた。黙って切り捨てたりしたくない、そう思える数多あまたの絆が。

 恩――と呼んでもいいだろうか。

 特段、並外れた生き方ではなかったはずだし、何より人としての生は短かったはずだが。

 要は幸運な人間だったのだろう。


 この幸運な縁の数々を、よく知りもしない悪意ある何者かのために、ぶち壊しにして終えたくはない。


「大丈夫ですよ、所長。僕は」


 そんな言葉が口を衝いて出る。

 傍から見れば多少唐突な物言いだっただろう。上田は不思議そうな顔をした。



   ◇



 ここ数年は眠りに就きがちで、人前に姿を現す事は滅多になかったという雁枝だが、それでも上田との付き合いは長いようだ。

 会合は近況報告と雑談がほとんどのなごやかなものとなった。血流し十文字を音戸邸で預かるという雁枝の申し出には流石に難色を示されたものの、最終的にいくつかの条件を出されて、一応の承諾を得た。


 人間には近づかせないとの確約と、定期的な所在の報告。根岸に課せられたのは主にそうした条件である。

 とはいえ、万一の事故や事件が起きたら法的なリスクを負うのは文化財センターだ。よく承知してくれたものだなと根岸は感心した。雁枝はどんな交渉をしたのだろうか。


 これは、山本康重やまもとやすしげの霊に報せにいく必要がある。きっと喜ぶだろう。彼らの鍛えた七振りの刀も、いずれ陰陽庁の保管庫から解放されれば良いのだが。


 ちなみに『バカボー君』を武器に使った上で壊した件については、根岸がきっちりと説教を喰らった。


 そうして、雁枝は仕事を片付けたのちに――


 再び棺の中で深い眠りに落ち、目を醒まさなくなった。


 ミケが、今夜は彼女の好物をご馳走すると言って、買い出しに出掛けていた最中の事である。



   ◇



 「材料を三人前買っちまったもんで」


 苦笑、と呼ぶにはもう少し寂しげな微笑を浮かべたミケによって、根岸の前に二匹目のメバルの煮つけが置かれた。


「食えそうなら、根岸さん食ってくれ」

「あ、はい……頂きます……」


 いたたまれない気分でもあったが、大の男の哀しいさがで、煮魚くらいはどうとでも腹に納まってしまうものである。


 根岸は手を合わせてから箸を取った。


 吸血女の眠りは、仮死状態に近い。

 猫の姿で眠る雁枝を、ミケが一度抱き上げ、棺の中で姿勢を整えたが、彼女は身じろぐでもなく、呼吸すらひっそりとしていた。


 この状態で、いつ目覚めるかも分からないまま数ヶ月、あるいは一年以上。待つ方は辛いだろう。


 棺の蓋を閉ざすミケの横顔はごく冷静なものだったが、根岸は我知らず目を伏せていた。


 そして今――根岸の向かいに座ったミケは、残ってしまった雁枝の分の鶏手羽大根煮を口に運びながら、酒を飲んでいる。いつもよりペースが早い。

 根岸も多少がれたが、元より彼はあまり酒に強くない。こちらがちびりちびりやっている間に、ミケはほとんど一升瓶を空にしかけている。


「吸血女だからか、御主人の好みってのはどうしても肉魚に偏りがちで」


 いくらか滑りの良くなった舌で、ミケは語る。


「野菜の好き嫌いが多めなんだよな。ニンニクとか」

「ニンニクは種族としての弱点では……」

「百年二百年生きると、だんだんその辺は平気になってくるらしいぞ。でも未だに味が駄目なんだと」

「ははあ」


 そういえば、以前ミケが焼き餃子を作ってくれた事があったが、あれはニンニクの入っていない和風紫蘇餃子だった。

 多分、彼の料理のレパートリーは、主人の好みに沿っているのだろう。


「俺はあんまり優秀な使い魔じゃなくってな」

「ミケさんが? まさか」

「本当に」


 目を瞠る根岸に対して、ミケは肩を竦めた。


「最初の数年は、まぁーものの役に立ちゃあしなくて、逆に御主人の世話になりっぱなしだったよ。……ここんとこ、ようやく恩が返せるかと思えてきたんだが、そうしたら今度は御主人が、いよいよ起きてられなくなった」


 コップに酒が追加される。


「ままならんなぁ」


 そう零すミケの声音には、いくらか諦念の色が込められている。

 八十年にわたって仕えた主人だ。彼女の寿命のことも、自身が殉じるか否かも、昨日今日から思い悩み始めた訳ではない。


「方法によっては……吸血鬼および吸血女は、不老不死に近い生命を得られると」

「誰かを犠牲にすればな」


 雁枝は、最早それを望まない。

 のはコマで最後だ、本当にもうたくさんだよ、と切々と語られて、以来ミケから彼女に延命を勧めるのは諦めていると言う。


「だから根岸さん――御主人はあんたを後継に指名したが、別に一生を犠牲にして欲しい訳じゃない。好きなように生きたって構わないと、きっと思ってるぜ。『もがり』の力自体は取り外しの出来るものじゃないだろうが」

「ええ」


 そうなんだろうな、と納得しながら、根岸はほぼ骨だけになったメバルを見下ろした。気分はどうあれ、ミケの作る煮つけは美味い。


「勿論、もし音戸邸にとどまってくれるってんなら、あんたの事は俺が命に代えても守る。家令としてな」


 軽くコップを掲げ、ごくあっさりとした口調でミケは根岸に告げた。


「……駄目ですよ」

「駄目?」

「そんな簡単に、命に代えないで下さい。お姉さんも雁枝さんも、貴方に生きて欲しいと願ったんです」


 真剣な顔で言い返す根岸に、ミケはちょっと呆気に取られて、「そうは言うが」と顎に手を当てて思案する。


――守ればいいじゃないですか」


 根岸は言った。

 延々と考え続けた果てに、現時点で根岸が吐露できる思いはそれだけだった。食べさしの夜食が並ぶテーブルを前に、場違いな表明ではあったが。


「目に映る限りの守りたいものを全部。この街も屋敷もあるじも、人も怪異も……ついでに、自分の平和な老後も。僕ら二人が力を合わせれば、出来ます」


 大真面目に言い切って、先程ミケに注がれたコップの酒をあおる。一気に喉を通し過ぎて軽くむせた。慌てて湯呑みの茶を飲んで中和し、ふと正面を見ると、ミケの姿が消えている。


「ニャア」


 足元で鳴き声が上がり、そちらを見遣る。と同時に、猫の姿となったミケが膝上に飛び乗ってきた。


「ミケさっ……どうしました?」


 湯呑みを置き、前脚を揃えてこちらを見上げるミケと向かい合う。

 三毛猫は器用にも、童話に出てくる笑う猫のような表情を浮かべてみせた。


「いやぁ、どうやら俺はあんたに敵わんらしい」


 久しぶりにミケが声を上げて笑い、根岸もそれにつられて相好を崩した。

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