第43話 殯の魔女 (3)

 墓地の隅の物置小屋に、ミケは臥せっていた。

 子供達が持ち込んだらしい、不器用に縫われた端切はぎれに水飲み用の茶碗、何故かぬいぐるみなども置いてある。可愛がられているのだなと雁枝は思う。


 ミケはコマよりも黒毛と赤毛の多い、模様のはっきりした三毛猫で、線対称になったハチワレの顔立ちが特徴的だ。もう少し毛並みが良ければ綺麗なものだろう。今はひどく痩せていて、メスであるコマより小柄に見える。

 雁枝が近づいても、ミケはちょっと目を開けてまた閉じるだけだった。


「なるほど、良くないようだね」


 ミケのぱさついた毛を撫でて、雁枝は呟く。

 コマがミケの鼻先を自分の鼻でつつき、ニャア、と呼びかけた。


「分かってるよ、始めよう。水場があると都合がいい。……この近くに小さい池があったな」


 予想より時間がなさそうだ。雁枝は端切れでミケをくるんで抱え上げると、池のほとりへと向かった。


「それと」


 歩きながら、雁枝は後ろをついて来る子供達の方を振り向く。


「お前達は家に帰りな」

「ええーっ」


 きっぱりと告げると、最もやんちゃそうな顔つきの少年が、即座に不満の声を上げた。


「やだよ、おれミケが元気になるまでここにいるかんな」

「わっ、わたしも!」


 おさげ髪の少女も挙手をする。今時の若い娘ときたら、まるで怖いもの知らずだ。雁枝は溜息をついた。


「このまじないには時間がかかるんだ。ここで待ってたら日付が変わるどころか、夜が明けちまう。凍えるよ」

「いいからぁ」

「よかァない」


 子供との押し問答は面倒だった。雁枝はくるりと指先を振ってみせる。

 途端、子供達はふらふらとその場にしゃがみ込み、折り重なるようにして眠り始めた。


「ミッ」


 コマが驚いた声を上げる。


「大丈夫だ。無事終わったら起こして追い返すさ」


 すぐさま雁枝はもう一度手をかざし、子供達の周囲にごく狭い結界を張った。

 熱気冷気を防ぐ効果のある結界だ。ぬくぬくとは言えないが、凍え死にもしないだろう。


 吸血女たる雁枝が最も得意とするのは、結界術である。それに子供は催眠術にかかりやすい。これくらいの手品ならば、今の彼女にも可能だ。


「さあやるよ」


 暗い池の淵に、雁枝はミケを抱えて立った。

 凪いだ池の水面みなもには、白い影が映る。緩く結われた雁枝の髪は白く、着物もまた白地で、帯には鼠色と銀色の糸が織り込まれている。

 どこか死装束を思わせる着物は、この最期の仕事におあつらえ向きだと思えた。


「コマ、まずはお前とあたしの魂を繋ぐ。そして、あたしからミケにお前の生命力を注ぐ。そういう流れになるからね。お前にも長いこと踏ん張って貰うよ」


 雁枝の語りかける言葉に、コマは大きく頷いてみせた。

 布を広げてミケを池の岸に寝かせ、雁枝は一度、懐中時計を確認する。


 ――三月九日、午後九時三十八分。

 殯の魔女は、長大な呪文の詠唱を開始した。



   ◇



 ……遠くから、重い振動音が近づいて来る。


 雁枝はそれに気づくと同時に、言いようもない胸のざわめきを覚え、唱え続けていたことばをつと中断した。


 被術者であるコマは朦朧としている。ミケも同じく。子供達は後方の結界内で眠っている。虫の季節には早く、周囲は静寂が支配していた。

 ただそこに、滑り込んできた異音がある。


「……空?」


 雁枝は星の瞬く夜空へと視線を上げた。


 飛行機、と呼ばれる人類文明の発明品を、雁枝は一応知っている。ここ数ヶ月の間、アメリカ製のそれは頻繁に日本の上空に飛来し、いくつもの街を焼き払ってきた。東京も例外ではない。


 ――この音は飛行機のエンジン音だ。


 コマが意識を取り戻し、まじないを中断した雁枝を不思議そうに見上げる。


「嫌な予感がする」


 長時間絶える事なく詠唱を続けていた疲労から、いくらか痺れる喉のあたりをさすって、雁枝はきびすを返した。

 懐の時計を再度確認する。十日の午前〇時を回ったばかりだった。


「悪いけどコマ、少し待ってな。やはり子供達を家に帰そう。おい、悪童共……」


 結界を解除し、少年達の肩を順に揺さぶる。ううん、と寝惚け声が上がったその時だ。


 ごおっ――と耳を貫く轟音が響き渡る。

 反射的に顔を上向けると、ぎょっとする程の低空を、黒々とした鳥のような形状の鉄の塊が通り過ぎる所だった。

 そこから間を置く事なく、突如真昼のような明るさに辺りが包まれる。

 光源は、墓地から程近い丘の中腹だ。石段を上った先、雁枝が寝床とする神社。その社殿と鳥居が、爆発に近い勢いで燃え上がったのだ。


 そして雁枝の両眼は、、強烈な閃光が夜空から注ぐ様をも捉えていた。


「あッ……!?」


 あまりのまばゆさに、雁枝は顔を覆い、がくんと膝をつく。


「ばあちゃん!? あっいや……カリエサマ!?」


 爆音に跳ね起きた少年が、雁枝と彼方の炎を見比べて狼狽した。

 たった今雁枝の眼をいた閃光は、彼には見えなかった様子だ。


 ――あれは世界層レイヤーの亀裂か。


 混乱しながらも、雁枝はそう推測する。

 怪異にすら、あれを観測出来る者はそうそういない。『もがりの異能』を持つ者だけに視認可能な、この宇宙の複層構造。


 そもそも『殯』とは、古代における貴人の風習だった。

 死者の遺骸を直ちに葬らず、長い時間をかけてその死が確実なものである事をする。この世ならぬ存在となって肉体から離れゆく魂に敬意を表す。そういう儀式である。


 一体いつの世に、誰が名づけたものなのか。

 複数の世界層レイヤーを透過して観測し、その存在を安定させる異能を、怪異たちは『殯』と呼ぶ。

 極めて稀に、偶然にしか顕現しないと言われるこの異能者の役目――『殯の魔女』は、ひっそりと受け継がれ語り継がれてきた。


 その役目も、怪異と人間が分かたれ、互いの世界を忘れてしまえばそこで終わりだと、そう思っていたというのに。


「っ……、まさか……層の破断なんてものを、この目の黒いうちに観測するとはね……」


 まだ痛む瞼を押さえてからどうにか開き、雁枝は唸る。

 今し方間近を飛び去った軍用機、あれが焼夷弾と共にを投下した……それによって神社が炎上し、同時に雁枝は世界層レイヤーに亀裂が生じるのを目撃した。


 つまり――人間が、兵器を以て人為的に世界層レイヤーを壊した?


 そんな事が果たして可能なのだろうか。『殯』の異能ですら、出来るのは観測までだ。ただ、層と層の合間は常に不確定で不安定なものだから、観測するだけでも大きな干渉となる。

 それを、破断などと。


「あ、あっち! 町が!」


 悲鳴に近い子供の声が耳元で聞こえて、雁枝は我に返った。

 少女が丘の麓を指差す。下町のあちこちから火の手が上がっていた。警報機のサイレンが、遠く虚しくこだまする。


「うちが――母ちゃんがっ!」


 少年が顔色を変えて駆け出そうとした。


「行くんじゃない!」


 雁枝は襟首を引っ掴んで制止する。直後、何かを引き裂く音と共に石段の上から、火の固まりが降ってきた。

 折れた鳥居が周囲の木々を巻き込んで、燃えながら転がり落ちてきたのだ。

 降り注ぐ火の粉の傍には、まだ二匹の猫がうずくまっている。


「コマぁ! ミケ!」


 少女の一人が動転して悲鳴を上げた。

 雁枝は少女をその場に押し留め、黒煙と異臭に顔をしかめつつも池の畔へと駆け寄る。


「お前達!」


 コマとミケは並んで倒れていた。落下物の衝撃で吹っ飛ばされたのか、煙を吸い込んだのか、共にぐったりとしていて無事とは言い難い。

 しかしまだ息絶えてはいないようだ。とにかく、雁枝は二匹を抱き上げた。


「ここに留まってても危ない。とにかく今は、少しでも遠くに逃げな」


 泣きじゃくる少年達を叱り飛ばす勢いでかし、まだ火の燃え広がっていない坂道を選んで進みながら、雁枝の胸中には、ほとんど自嘲に近い感情が湧き上がる。

 とは一体どこだ。火の海に囲まれ、亀裂の入った世界のただ中で、八歳の子供と瀕死の猫を連れて、一体どこに逃げれば良い?

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