第42話 殯の魔女 (2)

 西暦一九四五年、三月十日の事だった。


 太平洋戦争の趨勢すうせいも決しつつあったこの日、アメリカ軍による日本の都市への大規模な夜間空襲作戦が実行された。

 作戦名をミーティングハウス二号。通称、東京大空襲である。

 東京の下町を標的としたこの空襲により、推計で百万人超が罹災りさい、死者は九万五千人以上にのぼったとされる。


 この作戦において、米軍の爆撃機のうち一機が、極秘裏に開発途上の新型兵器を搭載していた。


 広島への原子爆弾投下から遡ること五ヶ月。限りなく少数の関係者を除き、アメリカ人にも日本人にも知られることなく、人類史上類例を見ない全く未知の実験兵器が、東京市深川ふかがわ、現在の江東こうとう区の片隅に投下されたのだった。


 その兵器の詳細な構造も、開発された経緯も、誰の着想によって作り出されたのかも、雁枝かりえは知らない。

 彼女に分かるのはその兵器が、世界のレイヤーを大きく破断させるものだったという事だけだ。


 ――『怪異の存在証明は第二次世界大戦末期のこと。米国で進められたとある研究によって、物理法則を超えた生命体の実在が明らかになった』


 歴史書にはそう記されている。

 人類が怪異の存在を再び信じ、認識したために、怪異は爆発的増加を見せたのだと。


 だがその前段階として、世界層レイヤーが人為的に壊され、物質生命体の世界と精神生命体の世界が異常に接近する事態が起きていた。

 この事実を知る者は少ない。今となっては世界中でも一握りだろう。


 そして、この空襲が行われた悲劇の夜に、いくつもの偶然が重なり、一体の怪異が誕生している。

 その経緯を知る者となると――最早、二人きりだ。

 一人はもがりの魔女、雁枝。

 もう一人、いやもう一体は……当の怪異である。世界層レイヤー同士の異常接近によって生まれた、パンデミック期最初の怪異。

 十万人分の悲鳴を吸収した仔猫から顕現した存在だ。



   ◇



 その時、雁枝は深川のとある神社を寝床としていた。

 正確には、神社の脇道から少々丘を登った先。岩肌にぽっかりと開く天然の小さな洞穴を利用した、ほこらが住まいである。


 神社の参詣者が足を向ける事も滅多にない、岩と石で築かれた祠。納骨室を思わせる石製の扉で厳重に締め切られた内部には、ひつぎが一つばかり納められている。

 居心地はそれほど良くなかったが、彼女は昼夜のほとんどを死者として眠りに就いて過ごしていたので、気にならなかった。


 雁枝は生ける亡者、吸血女と呼ばれる怪異である。

 戦国の世の頃に人として生を受けた記憶は微かにあるが、既に大方薄れている。

 人の生き血を啜って恐れられたり、天狗と縄張り争いをしたり、思う存分に暴れた時代もあった。

 だが、そうやって生き永らえるのにも飽きた。


 彼女はもう何十年も、一滴の血も口にしていない。不死身の吸血女とはいえ乾ききった肉体は老い、髪は白く染まり、老女同然の姿となっていた。

 このまま過ごせばあと数年か、あるいは数ヶ月のうちに、『もがりの魔女』と呼ばれた大怪異の命も尽きるだろう。

 それが相応しい末路だ、と彼女は思う。


 雁枝は、時代の行く末を悟っている。

 全ての怪異は、遠からず消滅する。

 文明が開け、人々は怪異を信じなくなった。やがては認識もしなくなる。そうなれば人類、すなわち物質生命体の世界層は、精神生命体の怪異の世界から遠く離れ、両者は二度と交わらなくなる。


「つまり、殯の魔女のお役も御免ってこと」


 転寝うたたねの心地で、雁枝はひとり呟く。


 人間は今や強大な存在だ。かつて畏怖を抱き祈りの対象だった神すら、軽く凌駕する武器を数多く生み出した。夜の闇は電気の流れる器具によって明るく照らされ、そこかしこの暗がりに細々と隠れ潜む怪異など、最早恐れる必要はない。

 今後の人類史において、人間が恐怖を抱く相手といえば、同じ人間だけとなるだろう。


「この世界にる意味も失せちまった怪異は消えるのみさ。あとはよしなに、だ」


 そうして、棺の中で音もなく寝返りを打ったその時だった。


 ――声が聞こえる。


 しかも子供の声だ。外はもう夜中のはずだが。

 人間の子供は、夜には寝るのではなかったか、と雁枝は首を傾げた。電灯とかいう発明品が普及し過ぎて、遂に子供も眠らないようになったのか。


「……ここが、カリエサマの祠?」

「お願いごとを叶えてくれる神様だって。うちの父ちゃんも言ってたよ」

「ねえでも、暗くて怖いよ。絶対すごく怒られるって。帰ろうよ」

「大丈夫だろ。ほら、コマが案内してくれるんだし」


 耳を澄ますと、そんな会話が聞こえる。

 そして子供の会話に混ざって、小さな猫の鳴き声がした。

 その鳴き声には聞き覚えがある。


 面倒事の予感が沸く。億劫に思いながらも、雁枝は身を起こした。

 石造りの戸をずらして、月明かりの中で目を凝らせば、小さな人影が四つほど確認出来る。そしてその手前に、より小さな獣の影が一つ。


「コマ。何をしてんだい」


 雁枝は獣の影に呼びかけた。

 途端、小柄な人間達は一様に身を竦める。


「わっ、わぁーっ!? オバケっ……」

「しーっ!」

「か、カリエサマだ! ほんとにいた!」

「すっごいお婆ちゃんじゃんか」

「あんたも、しーっ! そんなこと言わないの!」


 少年二人に少女二人。いずれも年齢は八歳かそこらだろう。怯えてがたがたと震えている者もいれば、好奇心に目を輝かせる者もいる。

 そして一行の先頭、祠のすぐ前に四つ足を揃えて佇んでいるのは、一匹の猫だった。


 身体の大部分が白く、額と背にだけ小振りな斑点のある三毛猫である。ほっそりとした身体つきの美しい猫だが、尻尾だけは妙にふさふさしている。

 それもそのはずで、この猫の正体は尾が二股に分かれた怪異、猫又なのだ。

 今は人間の目の前だから、尾を一本に見せかけているのだろう。


 この猫又コマと雁枝は、顔見知りだった。

 より詳しく述べると、コマの一族、先祖代々からの顔見知りだ。


 コマの一族は、雁枝の住まう神社に程近い墓地を縄張りとする、塚守つかもりの猫である。

 単に代々墓地をねぐらにしているだけの猫達なのだが、何代かに一度、猫又に化けるものが現れる。


 猫又といっても、そう大袈裟に祟ったり、人を取って食ったりはしない。

 かつてはそれくらいの力を持っていたはずだが、今代の彼女は至って大人しい。他の猫より多少賢く長命な程度だ。人の言葉は理解しているものの話す事は出来ないし、昔のように人の姿に化けたりもしない。

 怪異は全般に、弱くなりつつあるのだった。


 ともあれこの塚守一族は、近所の人々からは地域猫として可愛がられている。コマという名前をつけたのも人間だ。母猫はタマと呼ばれていた。


 今現在、雁枝の前でおっかなびっくり身を寄せ合っているのは、以前からコマに餌を運び、特に可愛がって世話をしていた近所の子供達であるようだ。


「かっ、カリエ、さま」


 子供のうちの一人が、恐る恐る一歩を踏み出し、雁枝に向けて両手を合わせた。


「かしこみかしこみ、おたのみします! ミケを助けて下さい!」

「ミケを?」


 雁枝は目をすがめた。


 ミケとは、コマの弟猫である。彼は怪異となる才能を持たない、普通の猫だった。しかしコマに残された唯一の家族だ。


 戦争の長期化に伴う物資不足と相次ぐ空襲により、今や犬猫も無事では済まない時代となった。動物は避難や疎開の妨げとなる上、戦地では毛皮が不足している。

 塚守の猫の一族は、ほとんどが捕まって軍に供出された。

 残されたのは逃げ延びたコマと、たまたま近所の子供にかくまわれたミケ一匹のみだ。


 ミケは名前のとおり三毛猫で、珍しい事にオスである。ただし、生まれつき身体が弱い。

 誕生からおよそ一年、この時世によく命を保ったものと思うが、いよいよ危ない状態に陥っているらしい。


 子供達は弱ったミケを何とか助けようと看病していたが、どうにもならず、遂に神にすがる事を決めた。

 その縋る相手が、どういう訳か雁枝になってしまったようだ。


 ――確かに雁枝は、かつて少しばかりの信仰を集めていた。


 東京がまだ江戸と呼ばれていた時代、雁枝が気まぐれに人の生き血を啜って生きていた頃の事だ。

 ただ血を奪うだけというのも芸がないし、義理を欠く。そう思い立った彼女はこれまた気まぐれに、血を捧げる者の願いを聞き届けるようになった。

 吸血鬼および吸血女の能力は、全怪異の中でも特筆すべき高さを誇る。人探し、失せ物探し、復讐……それくらいの願いごとであれば、叶えるのは容易だ。


 一時期、雁枝の眠る祠は評判を呼び、夜ごと石扉の前にかしこまって頭を下げる人間が現れたものだった。

 それも、かれこれ百年以上は昔の話だ。今となっては、雁枝が人前に姿を現す事は滅多にない。街の様子が眺めたくなれば、人間の老女のふりをして出かける。


 それでも少年達の言うには、「願えば叶うカリエサマの伝説」は、人々の口碑に僅かながら残っているらしい。

 全くのところ、人間は不可解だ。個体としては脆弱ぜいじゃくな割に、恐ろしくしぶとい。


「コマ。お前が連れて来たのかい、こんな子供達を。弟を助けるために?」

「ミィ」


 甲高い声でコマは鳴いた。

 この猫又は、口は利けないが策士だ。夜更けに子供が祠前で騒ぎ立てれば、雁枝が腰を上げざるを得なくなると踏んだのだろう。


「あのねえ、コマ。お前には一度説明したが」


 雁枝は祠の前の岩に腰掛けて、コマだけを招き寄せる。

 遠巻きに見つめる子供達には聞こえないよう声を低めて、彼女は説いた。


「寿命の尽きかけた生き物を救うだけの力は、今のあたしにはもうないよ。自分が死にかけてるくらいなんだから。出来る手立てがあるとすれば――他から奪うこと」


 数日前にも一度、コマが弟を助けてくれと請うた事があった。

 思うがままに生き血を奪い、力を振るっていた頃の雁枝であれば、仔猫一匹救うくらいは造作もなかったかもしれない。だが、今の彼女にはもう吸血女としての能力はほとんど残されていない。


 ただ、昔覚えたまじないの知識ならば活かせる。


 ミケの命を永らえさせたければ、一つ方法はあった。コマの生命力を分け与える事だ。

 猫又の命は長い。――といっても、せいぜい人間と同程度かやや短命なくらいだ。他者と分かち合うには、いささか短い。安易には提案出来ない手段である。

 だがコマの望みがあくまで、唯一の血族とというものであるならば、彼女にとっては価値のある選択かもしれない。


 雁枝は選択肢を提示したが、気は進まなかった。若い頃には吸血女として、幾人かの寿命をいじったりした覚えもあるが、いずれもあまり良い結末を迎えてはいない。


 恐らく、これが雁枝の永い生涯で最期の一仕事となるだろう。後々に悔いや心配事を遺して消えたくはないものだ。


 しかし――コマはこうして、再び救済を求めて訪れた。同じ望みを持つ子供達まで引き連れて。

 子供達は、ミケを助ける方法の詳細など知らずにここに来たのだろう。コマは喋れないのだから、伝える手段もない。


「ニャーオ」


 強く訴えるような声色で、コマは鳴いた。

 雁枝は嘆息する。


「覚悟を決めてきたってわけかい。仕方のない子だね」


 コマを抱き上げ、雁枝は自然が作り上げた岩の階段を降りて行った。


「それで、弟猫はどこに?」


 子供達は、恐怖と安堵と歓喜がない交ぜになったのか、泣き笑いのような顔を互いに見合わせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る