第41話 殯の魔女 (1)

 驚きにしばし硬直していた根岸が、我に返って声をかけるより先に、もがりの魔女――雁枝かりえと名乗った彼女は、廊下の奥へと歩いて行ってしまった。


 根岸は慌てて靴を脱ぎ、ミケを抱えたまま奥へと急ぐ。

 行き着いた先は、音戸邸の中心に位置する十畳の座敷である。

 殯の魔女はこの部屋の中で、ここ一年半ばかり眠りに就いていた。座敷にはミケが毎日立ち入って、掃除をしたり空気を通したりしていたが、根岸が踏み入るのは初めてだ。


 座敷には、客間と同じく毛氈もうせんが敷かれ、中央にヒノキ製のひつぎが安置されていた。棺は蓋が外れて横に立て掛けられている。

 彼女は棺の中でずっと眠っていたのだろうか、と根岸は考える。ちらりと棺の内部に目を遣ると、上質そうなベロア生地の布が敷かれ、更に猫用と思われる厚手の座布団も入れてあった。眠りに就く際は、猫の姿を取っていたらしい。


「……貴方も猫の怪異だったんですね」


 部屋の最奥、ふすまの前に陣取る雁枝に向けて、根岸はそう呼びかける。

 彼女は古めかしいロッキングチェアに腰を落ち着けたところだった。


「いいや、違うよ」


 意外な答えが返ってきて、根岸は目を瞬かせる。


「違う? でも、さっき猫に――」

「この身体は借り物だ。数百年も生きるとね、になった身とはいえ、ヒトの肉体じゃガタが来る」


 吸血女、と根岸は口の中でその単語を繰り返した。

 欧州では最も有名な怪異のひとつである吸血鬼、その女性版。

 人の生き血を啜り、それにより長大な寿命と数々の異能力を保持する。眷族をやすタイプの怪異でもあり、血を奪った人間を吸血鬼化する他、コウモリやフクロウ、犬猫などの小動物を使役する。


「元は……人間だったんですか。その、数百年前までは」

「そうさ。秋太郎、お前と同じく」


 肘掛けに乗せた腕で頬杖をついて、雁枝はふっと笑いを漏らす。ミケによく似ているが、もう少し皮肉げな笑顔に見えた。


「今のあたしの身体は、八十年ばかり前に、コマという名の猫又から奪ったもの。その子の……ミケの姉にあたる怪異だ」

「ミケさんの――姉」

「そう。ミケの姉のかたきって事になるね、あたしは」


 驚くべき事実を矢継ぎ早に伝えられて、頭がついていかない根岸だったが、そこでようやく、自分の抱えているミケの容態を思い出した。


「あっ、そうだ。あの、ミケさんが怪我をして……昨夜からずっと目を覚まさないんですが」

「知ってるよ。だから起きてきたんだ」


 そう言って雁枝は、軽く根岸を手招いてみせる。


「その子をおせ。また無茶な真似をしたんだろう。このところ多いね。ちょっと前にも、四肢のどれかを失ったんじゃないか?」


 ウェンディゴと戦った時の事を言っているらしい。

 殯の魔女は眠りながらでも自分の屋敷に結界を張れるし、悪意ある者が自身の領域に侵入するのを許さない。以前からそう話には聞いていたが、それどころか、使い魔であるミケの状況までも詳細に把握されていたとは。


「は……はい、一ヶ月前に左腕を……わざとでしたけど、無くしてます」

「仕方のない子だ」


 促されて根岸は、眠るミケを雁枝に手渡した。つい先程、ミケの姉の仇、と自ら告げた言葉が気がかりではあったが、現状他に頼れる相手もいない。


 彼女は慣れた様子で三毛猫を抱きかかえ、傷のある胸元を軽く撫でる。そして彼の耳に唇を寄せて、小さく呪文めいた囁きを紡いだ。

 すると間を置かず、ミケが尖った耳をぴくりと動かした。


 雁枝が片手を離す。心臓部を貫いていた傷が、拭い去られたように綺麗に消えている。

 まさしく、魔女の所業だった。

 思わず身を屈めて近づく根岸の前で、ミケは身じろぎ、欠伸をひとつと顔を拭う仕草を見せてから、薄っすらと目を開けた。


「……。おう、根岸さん……と、御主人……?」


 寝惚けているのか、ミケは髭を傾け、二人を見上げて何度か瞬きをする。


「御主人なのかい?」


 雁枝の腕の中でするりと身を起こし、ミケは、根岸が聞いた事もない程に切なげな声を上げた。


「ああミケ、随分と長らく屋敷を任せちまったね」


 と、雁枝はミケの顎の下を指先で掻く。

 ニャア、とミケは猫の声で高く鳴いた。額を雁枝の腕にぐりぐりと擦りつけ、二本の尻尾を緩く振る。まるきり普通の猫の挙動である。


「おはよう御主人」


 いくらか満足するまで猫らしく甘えてから、ミケはいつもの落ち着きを取り戻した声で言った。


「起きるのは久しぶりだろう。何がしたい? 食べたいものがあったら何でも作るよ」


 すとんと床に降り立って、雁枝の方を振り向くと同時に、ミケは人の姿を取った。


「ん?」


 とそこで、彼は自分の身なりを見下ろす。

 今のミケは、最後に人から猫に化けた時のままの服装である。つまり、血痕のべっとりと付着した冬用コート姿だ。


「……そうだ、しまった。根岸さん、あれから事件はどうなった?」


 畳の上でスニーカーを脱ぎながら、ミケは急ぎ根岸に問い質す。

 根岸は躊躇ためらった。主人と久々の再会を果たしたばかりのミケに、あの後の顛末を明かすのは荷が重い。

 とはいえ、黙っている訳にもいかないだろう。彼はやりきれなさを抱えて口を開いた。



   ◇



 根岸が説明を終えると、座敷には沈黙が降りた。

 靴とコートを片づけたミケは、畳に胡坐を掻いて、じっと口元に手を当てている。


「……鶴屋司令補が」


 短く呟いて、ミケが口元に当てていた手で今度は額を覆う。


「元はと言やあ、俺が油断したばかりに――」

「そんな事は」


 根岸も滝沢も、刑事の鳥山も、昨夜から散々同じような顔つきで落ち込んできた。だから今更他人を諫められる立場でもないのだが、遡って責任を追及し始めたらきりがなくなる、という結論にしか至らない。


「これは滝沢先輩の受け売りですけど。そう思わせる事が、彼らの狙いなんです。人間社会にはテロリストって呼ばれる政治的な犯罪集団がいて……」

「そりゃあ知ってるさ」


 けどな、と嘆息混じりに言い返すミケの声音は沈鬱である。今日はよくよく、ミケの珍しい表情を見る日だ、などと場違いな感慨をぎらせる根岸だった。


「ミケ、秋太郎」


 今まで黙って根岸の話に耳を傾けていた雁枝が、突如朗々とした声を室内に響かせた。


「厳しい事を言うが、塞ぎ込んでる暇はなさそうだ。お聞き」


 悠然とした動作で、彼女は椅子から立ち上がる。濃紺のワンピースは足首までを覆い隠し、裾に広がりが少ないため、随分と細身のシルエットに見えた。

 雁枝は襖をからりと開け放ち、朝の陽光が降り注ぐ庭を睥睨へいげいする。


「その反怪異の人間共が狙ってるのは、あたしの命だ」


 事も無げに雁枝は言った。

 根岸は瞠目し、返すべき言葉を探る。何も浮かばない。隣のミケに視線を投げると、彼は驚いた様子もなく主人の次の発言を待っている風だった。


「ミケを殺そうとしたのもそのためだ。あたしはもう、ろくに動けやしない身体だからね。使い魔であるミケに、目となり耳となって貰ってる。もしその子が死んじまったら……平静じゃいられないし、この老体に鞭打ってでも自ら動くしかなくなるだろう。その時が連中の狙い目ってわけ」

「動けない、とは……?」


 ようやく根岸は、そう疑問を口にした。

 見たところ、雁枝は老体を名乗るには若々し過ぎる。何しろ、ミケと双子同然に瓜二つなのだ。せいぜい十七、八の少女としか思えない。


 それに、今し方ミケの傷を治癒してみせた力。人間には方術でも科学的な医療でも、あんな奇跡は引き起こせない。根岸は以前、怪異の専門医にかかった事があるが、彼らでも難しいのではないか。

 そんな強大な霊威を持ちながら、自ら動けないとは?


「あたしの本来の寿命はとっくに尽きてるのさ」


 雁枝は根岸の方を振り向いて説く。


「吸血女のくせに、ろくに血を吸わずに歳食ってたもんでね。最期に一働きする必要が出来たから、コマの身体を乗っ取ったが……それもあくまで借り物だ。際限なく命を引き延ばせる訳じゃない」

「御主人」


 ミケが雁枝を呼ぶ。


「ミケ、お前もよく分かってるはずだよ」


 主人に言い聞かせられ、ミケは目を伏せる。

 続けて、雁枝は根岸へと再び向き直った。


「そっちはよく分かんないって顔してるね。この際だ、全て話してやろう。八十年前にこの世界で何が起きたのか。何故あたしの命を人間がつけ狙うのか。それに……根岸秋太郎、幽霊のお前をこの屋敷に引き止めた、その理由も」


 ――全て事の起こりは、ひとつきりなのさ。


 殯の魔女は、そんな風に語り始めた。

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