第40話 猫と死霊の剣舞 (13)
根岸が音戸邸へと帰り着いたのは、すっかり夜も明けた頃だった。
見慣れた邸宅が目に入っても、安堵の息すら漏れない。
今日は休日。取り調べも終わり、これから体を休めるべきなのだが。
家の前の通りまで社用車で送ってくれた滝沢に、礼を述べて車を出ようとすると、「根岸くん」と呼び止められた。
「今はまだ、こんな事言うべきじゃないかもしれないけど……自分のせいで、なんて思っちゃ駄目よ」
「――ええ」
「あれはテロリスト。ああやって手あたり次第に人を委縮させるのが目的。悪いのは彼らなの」
「分かってます」
あえて強い口調で語る滝沢が、自分自身にも言い聞かせているのは察せられた。彼女こそ巻き込まれたに過ぎないのだが、一連の事件を数ヶ月にわたって追っていた身として、ショックが大きいのだろう。
◇
――
数時間前、根岸は鳥山との別れ際にそう問いかけた。
千代田区霞が関、陰陽庁中央庁舎の玄関前での事である。すぐ隣には警視庁本部庁舎が建っている。いわゆる桜田門だ。
警察の情報を怪異に流す事を、鳥山は大分躊躇した様子だった。が、今や根岸は事件の当事者と判断したのか、悩んだ末に重い口を開いてくれた。
「……反怪異の過激派組織のメンバーだ。全容は俺らも、公安も陰陽庁も掴めてない。拠点は海外にある」
「海外――西アメリカ共和国だとか?」
「西アメリカに東ドイツ……反怪異かつ非イスラム系の国が多いって話だな。ただ、それらの国家からも公的に活動を許可されてはいない」
反怪異国と言っても、スタンスが怪異容認国と異なるだけなのだから、何も危険なテロ国家だらけという訳ではない。彼らなりの社会秩序を守って生活しているし、制限されているものの怪異容認派諸国との交流も貿易もある。
自分達の主義主張を広めるためならば殺人も厭わない国際テロ組織は、反怪異国にとっても頭の痛い存在なのだという。
当然、日本においてもそんな組織の活動は認められていない。
この組織の望みは、日本をはじめとする怪異容認国の世論を引っくり返す事である。
怪異は人間社会にとってのリスクで排除すべき存在だと、より多くの人類に思い知らせ、ゆくゆくは政治を、そして国際社会を動かそうと言うのだ。
殊に、日本の方針転換は東アジア情勢の均衡を突き崩すために重要だと彼らは考える。
だからこそ、怪異による事件を誘発する。反怪異を標榜しながら怪異を利用するというのも無茶苦茶だが、彼らの中では矛盾する行動ではないらしい。
近年、公安や警察を悩ませているのは、組織が日本の若者の勧誘に積極的に乗り出した事だ。
研修旅行や講演会がメインの、ちょっとした社会活動サークルだ、といった誘い文句で学生を引き込み、簡単には脱退出来ない状態にさせる。借金、暴力、薬物などを利用して組織に縛りつけるケースもあり、あちこちで行方不明者が出ている。
そうした組織の暗躍の犠牲者と目されたのが、失踪した
栄玲大学内に出入りし、綾も所属していたサークルは、鳥山が捜査に乗り出した時点で既に解散し、主催者は雲隠れしていた。
が、鳥山は大学周辺で聞き込みを続け、綾の勧誘に准教授の遠藤が関わっていたとの情報を入手する。
何とかして遠藤の身柄を逃亡前に押さえられないかと焦っていた矢先、陰陽庁側から一色綾の怪異化事件を追っていた鶴屋に、情報提供を持ちかけられたのだ。
「その――失礼ですが、鶴屋さんと貴方は」
「……ただの古馴染みだ。
ぶっきらぼうに応じてから鳥山は、「古馴染みだった」と言い直した。根岸は沈痛な思いで目を伏せた。
「その組織に名前はあるんですか?」
「正式名は知られてないが、仮称はある。組織内では互いに『ノマライズド』と名乗ってるようだ」
「ノマライズド。……正常化された者、ですか」
この社会――
彼らは絶対的にそれを信じている。
故に、怪異の抹殺だけでなく人殺しも厭わない。狂った世界で平然と怪異と共存する人間など、彼らにとって排除すべき危険人物でしかないからだ。
――間違ってるって言われてもね。
鶴屋の、あっけらかんとした声音が脳裏に
――私が生まれた時にはこういう世界でしたし、勿論根岸さんだってそうでしょ。
怪しげな面もあったが、鶴屋はあくまでこの世界を肯定し、怪異との平穏な共存を願っていた。
こんな事になるなら、陰陽庁での身体検査くらい応じておけば良かった。そんな風に根岸は悔やむ。
「そう延々と辛気臭い顔してんなよ。幽霊に悼まれたって仕方ねえや」
鳥山が鼻から息を吐いた。無造作に煙草の箱を取り出しかけ、はたと気づいた表情を浮かべてまた仕舞う。千代田区は全域が禁煙区域である。
「俺達の仕事にはいつだってあり得る、こういう事はな」
陰陽庁からまた連絡が来るだろう、それには素直に応じろ――そう言い残して、鳥山は警視庁の庁舎の方角へ去って行った。
◇
「ミケさんは?」
運転席から再び滝沢に呼びかけられ、根岸は我に返った。
彼の腕の中のミケは、昨夜から眠りっぱなしで未だ目覚めない。身体の傷も治りきっていないので、三色の毛並みに血が滲んでいる。
ミケは恐らく、ある程度までこの事態を予見し、危惧していた。遠藤が単独犯でないという推論を鶴屋に伝えたのは彼だ。
だからこそ、体力の続くぎりぎりまで意識を保とうとしていたのだろう。
「……まだ眠ってます」
「心配ね」
「このまま怪我も治らないようなら、天狗の知り合いとか……誰か頼れるひとを呼ぶんで、大丈夫ですよ」
案じる滝沢に対して根岸は請け合ってみせたが、彼女を安心させるような表情が作れていない事は自覚していた。
こういう事態の時、根岸が一番頼れる相手といえば、他ならぬミケなのだ。心細い上に、不甲斐ない気分でもある。
滝沢の車を見送り、根岸は音戸邸の重い玄関扉を開ける。
――目の前の上がり
「おかえり、
と、猫は口を利いた。
根岸は数瞬混乱して、自分の腕の中のミケと目の前の猫を見比べた。どちらも三毛猫で、大きさも顔かたちもよく似ている。尾が根元から二股に分かれている点も同じだ。
ただし、毛並みは異なっていた。上がり框の猫は、額と背に水玉模様めいた黒毛と赤毛がぽつぽつ確認出来るが、身体の大部分は白い。
「おやおや。家主が出迎えたってのに何をポカンとしてんだい」
呆れた風に言うなり猫は、その場でくるりと身を
代わって出現したのは、ごく若い人間の女性だった。
幸いというべきか、服は着ている。濃紺のワンピース姿だ。
癖のある黒髪はショートカットに近い。陶器人形を思わせる白い肌と整った容貌、大きな瞳に長い睫毛、吊り上がり気味の目尻。
人間の姿までもミケにそっくりだ。彼が異性となったら、丁度こんな具合だろう。
「あ――貴方は?」
ある一つの予感を抱きながらも、根岸は彼女に
「あたしは『
と、猫から化けた少女は応じた。
「名を、
【猫と死霊の剣舞 了】
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