第39話 猫と死霊の剣舞 (12)

 根岸たちは警官に誘導されて、ぞろぞろと文学部棟を出た。夜の学内はパトカーの灯りに照らされて、昼間とはまるで異なる、非日常めかした空気を醸し出している。

 職員か学生と思われる野次馬が何人か、一体何が起きたのかと遠巻きに建物を眺めていた。


「根岸さん」


 とんとんと肩を叩かれて根岸が振り返ると、ミケがすぐ傍に立っている。何やらぼんやりとした表情だ。


「どうしました?」

「……悪いんだが、もう無理だ。眠い」

「え?」


 訊き返すより先に、ミケは細い煙を立てて三毛猫に姿を変えた。そしてそのまま目を閉ざし、ごろんと地面に横たわる。


「えっ、ミケさん! 大丈夫ですか!?」


 根岸は慌ててミケを抱え上げた。

 柔らかな猫の身体はぐったりしていたが、よく耳を澄ますと、プスー、と呑気な寝息が聞こえる。一先ず根岸は安堵した。


「傷の治りきらないうちから大暴れしたんでしょう。流石に消耗したのでは?」


 鶴屋が覗き込んでくる。根岸は腕の中でミケを抱え直した。


「目が覚めたら刺身盛り合わせをご馳走します」

「そうしてあげて」


 滝沢も横から頷く。


「でも私達、今夜中に家に帰れるかしら。……まだ研究室に残ってる、日本刀と幽霊達はどうする? 刀は根岸くんが『呪った』らしいから、放っとくと危ないかも」

「いずれも、陰陽庁の方で一旦回収します。今応援呼んでるから、すみませんがもーちょっとお待ち下さいねー」


 気軽い調子で鶴屋は頭を下げるが、この調子だと、事情聴取を終えて解放されるのは明日になるかもしれない。根岸は疲労感に瞼をしばたたかせた。

 幽霊も人間と同じ生活サイクルで暮らしていれば、正常に眠気がくる。夜通し墓場で運動会が出来る訳ではない。


 ミケを撫でながらぼうっと立っていると、不意にポケットのスマホが震えた。

 取り出してみれば、画面には『唐須芹子』と表示されている。

 そういえば、すっかり忘れていたが頼んでいた確認事項があったのだ。

 ウェンディゴの事件の後、彼女の証言を聴取に来たのは誰だったのか。


 しかし、昼間の時点では遠藤への疑念も確証に至っていなかったから、回りくどい探りを入れなければならなかったのだが、彼が逮捕された今となっては、それほど重要な情報ではないかもしれない。

 全く予想外の急展開があったとはいえ、芹子には申し訳ない事をした、と思いつつも根岸は電話に出た。


「唐須さん?」

『はーい根岸さん、お待ちどう。調べとく言うてたの、分かったよ。うちが会った陰陽士さん……』

「そ、その件なんですけどね唐須さん――」

『えっと、山東希燕さんとうきえんさんって中央局の人やね。珍し名前やなあ』

「――?」


 謝罪の言葉を口にしようとしていた根岸は、そこで硬直した。


「……山東さんが。お一人で?」

『うん。陰陽士さんって二人組で動くもんやと思うてたけど、そうでもない時もあるんやな』


 山東が単独で聴取に。

 鶴屋は根岸に注目するに至った。


 何も特別不自然な話ではない。陰陽士のバディ制はそこまで厳密なものではないと聞く。中央局ともなれば仕事は膨大だし、尚更だろう。

 だが、奇妙な胸のざわめきを根岸は覚えた。


「そういえば……山東さん、どこです?」


 内心の動揺を抑えて、根岸は周囲を見回しつつ鶴屋にたずねた。

 彼女の姿が、先程から見えない。


「え? ああ、そこの車ですよ。無線で他の車両に連絡を」


 陰陽庁の緊急車両を、鶴屋が指差す。西洋型霊柩車を思わせる造りで、白地に浅葱色あさぎいろのラインが入った塗装、屋根にはランプが付いている。


 指し示された運転席のドアが開き、山東が降りてきた。彼女は制服の内ポケットを探り、そこから何かを取り出して、握り込んだ両手を胸の高さまで掲げる。


 バン、と乾いた破裂音がして、全く突然に、根岸の目の前で鶴屋が倒れた。


「……は」


 辛うじて根岸は、掠れ声を絞り出す。

 俯せに倒れた鶴屋の身体の下から、じわりと赤黒い液体が染み出し、地面に広がっていく様が、ランプの灯りによって照らされている。

 すぐ傍に立つ滝沢が、根岸と同じく呆然とした表情で、息を呑む音だけを漏らした。


「動くな」


 冷え冷えとした声がその場に落とされる。山東の発したものだと、数瞬遅れて根岸は理解した。

 彼女は両手の中に、拳銃を握っている。その銃口を根岸と滝沢へ、更には異変に気づいて身構える警官達へと順番に向けて、彼女は言葉を続けた。


「遠藤周を解放しなさい。それから警官は銃を捨てて、地面に伏せて」

「な――何を!?」


 鳥山が動揺しながらも、自分の携帯する拳銃を取り出した。


「銃を捨てろと言ってるの。もたつくなら次はそっちの女を撃つ」


 山東の銃が再び滝沢へと向けられる。

 頭の中は混乱しきって真っ白になっていたが、根岸は咄嗟に銃口と滝沢の間に割って入った。抱えているミケの身体も、両腕で出来る限り覆い隠す。

 山東はそんな根岸を見て、小さく唇の片側を吊り上げた。


「この銃弾は清められた聖物。残念ながら人間は勿論、怪異も数発撃ち込まれれば死ぬよ」


 慣れた手つきで銃を構えたまま、山東がこちらへとゆっくり歩み寄って来る。


 遠藤は単独犯ではない、それは推測出来る事だった。何らかの組織の一員として行動していると。

 ――山東もまた、彼と同じ組織の一員?

 陰陽士でありながら?

 しかもこの様子を見るに、明らかに素人ではない。陰陽士はスペル・トークンや霊験機器、霊験具を扱うが、銃を携帯する事はないはずだ。

 素人でないとすれば……一体彼女らは、何の専門集団なのだ。


「動くんじゃないッ!」


 腹に響く鋭い怒号。鳥山の声だ。その気迫は流石に警視庁勤務の刑事である。


「こちらは複数だ、拳銃一丁で逃げられる訳ないだろう! 何者だか知らんが、諦めろ!」


 鳥山の射撃態勢もまた、訓練を受けた正確なものと見えた。他の警官達も、鳥山より狼狽した様子ではあるものの、あっさり遠藤を解放するつもりはなさそうだ。

 山東は鳥山を横目で一瞥し、ふっと鼻先で嗤う。


「拳銃一丁? ……だと思ってる?」


 その言葉の直後、大学敷地内に再度異音が響いた。

 鳥山ががくりと膝を折る。銃を取り落とした彼は、右肩を庇うようにして呻き、地面に倒れた。

 山東に撃たれたのかと根岸は一瞬考えたが、おかしい。鳥山は後ろからの衝撃を受けたように見えた。山東に身体の正面を向けていたはずなのに。


 根岸ははっとして、夜の闇の向こうへと目を凝らす。

 途端、鳥山や警官達の背後数十メートル先――大学図書館となっている建物の陰から、凄まじいスピードで車が一台飛び出してきた。近くに立っていた野次馬が数人、悲鳴を上げて暴走車を回避する。


 車はタイヤを軋ませて強引に右折し、停車するパトカーの合間へと突っ込んだ。二人の警官に両側を固められていた遠藤が、待っていたかのように顔を上げてその場から駆け出し、警官達を振り切る。


「Steig ins Auto!」


 根岸には聞き取れない言語で、車の運転手が叫んだ。ドアの大きく開かれた助手席側から、運転席でハンドルを取る者の姿が僅かに覗く。ゲルマン系と見られる、アッシュブロンドの長身の女だ。


 遠藤が車の助手席に素早く乗り込んだ。

 同時に山東は、油断なく銃を構えたまま、車の方へと後退する。後ろ手に後部座席のドアを開けつつ、彼女は倒れた鶴屋へ冷たい視線を投げた。


「予定は大分狂ったけど、あんたを殺せたのは収獲だね。うんざりしてたんだよ、怪異贔屓が」


 そう言い捨てるなり、山東は車の中へと身体を押し込み、運転席の女と何事か短く言葉を交わした。

 車が、現れた時と同じく猛スピードで発進した。

 地面に倒れた鳥山が微かに身じろぎ、「待て……」と唸るような声を上げたが、テールランプは容赦なく大学敷地内を遠ざかっていく。


 無事でいる警官達が慌ただしく動き出した。数名は鳥山の元に集まり、もう数名は無線でどこかへ連絡を取っている。そして根岸達の前にも――正確には鶴屋の前に、警官がやって来た。


「鶴屋司令補!」

「つっ、鶴屋さん!」


 根岸もまた、ミケを片手で抱いたまま鶴屋の身体に触れた。

 俯せになった身体はぴくりとも動かない。僅かに横を向いた彼の顔を、根岸は祈る思いで覗き込む。

 頸動脈近くを撃ち抜かれたのか、鶴屋の首から顔の半分までは血に染まっていた。両目が見開かれ、唇からは呼吸の痕跡も読み取れない。既に絶命しているのは明らかだ。


 根岸は虚脱感に負け、その場に両膝をついた。もう何も考えられない。立っている事すら出来ない。


 遠くから、新たなサイレンの音が聞こえてきた。陰陽庁の緊急車両とパトカー、二種類のサイレンが、無機質で虚しい和音を形成していた。

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