第29話 猫と死霊の剣舞 (2)

 『はーい! 根岸さんひっさしぶりやんなー。なんかあったん?』


 唐須芹子とうすせりこは相変わらずの明るさで、根岸からの通話に応答した。

 今年一月の半ばに彼女と出会い、共に事件に巻き込まれてから早一ヶ月半が経っている。その後何度か情報交換のために連絡を取り合いはしたが、声を聞くのは確かに久しぶりだ。


「お久しぶりです。何かあったって程ではないんですけど――」


 気になる事が出来た、と前置きした上で、根岸は芹子が栄玲大学を訪ねた時の、特に遠藤と共にいた間の動きについて改めて確認を取った。


『あん時の事なぁ。ええっと、思い出せる感じやと……』


 記憶の曖昧になっている部分もあったが、芹子は順を追って当時の行動を説明してくれた。


 結論としては、彼女の持つ霊験具れいげんぐ籠帳かごちょう』――『虫』と呼ばれる微小な怪異を封じ込める冊子――に、第三者が何かしらの細工を加えるチャンスは、何度かあった。


 虫喚びには和装の仕事着があるが、常に装束を着込んでうろついている訳ではない。着替える前は仕事道具一式をスーツケースに入れて運んでいる。

 事件の日には、文学部棟の職員用更衣室を借りて着替えた。

 授業前の挨拶や打ち合わせの際、数十分程度ではあるものの、ケースは無人の更衣室に置かれていたはずだ。ケースに鍵はかけられていたが、簡易な造りの南京錠だから、ピッキングのプロでも侵入したならば開けられなくはない。


「ピッキングのプロですか」

『大学にそんなん、入ってくる? 事務室のすぐ隣やったんよ、更衣室』


 無論、遠藤はじめ大学関係者に不審な印象は抱かなかったと言う。気になった点があればとっくに打ち明けているだろう。


『根岸さんや諭一くん以外で直接会話したんは、遠藤先生に学部長の先生に、事務員さん、学生さんと……あーあとは、大阪戻る前に、陰陽庁の人が来はったわ』

「一応陰陽庁に説明したんでしたっけ、虫の暴走の件」

『遠藤先生が大体、間に入ってやりとりしてくれたけども。エナちゃんとクッチーがおかしゅうなったっちゅう所までは言うといたわ。根岸さんと諭一くんの話はしてへんよ』


 ほんまは正直に話した方がええのかもしれへんけど……と、芹子は言葉尻を濁した。


 ウェンディゴの存在を秘密にしておくという決意には、多少の葛藤や後ろめたさが伴った様子だ。

 怪異側の都合だけ考えるならともかく、彼女は安全な人の社会に暮らす人間なのだから、その感情も当然だろう。

 根岸も余計な耳目を集めないよう、彼女に庇われた身である。思わず彼は、「すみません」とスマホに向けて頭を下げた。


『いや、これはうちが勝手に決めた事やから。根岸さんにも諭一くんにも助けられたんやしな。怪異と付き合う仕事しとったら、ようある話やろ』

「あまり頻繁にあっても困りますが」


 そこでふと、根岸の脳裏にぎるものがあった。

 彼は質問を口にする。


「……ひょっとして、その証言を取りに来た陰陽士……鶴屋つるや司令補、なんて名前じゃありません?」

『えっ? 名前なんて言うたかなぁ……確認しとこか、名刺もろてたと思う』

「良かったらお願いします」


 根岸は礼を述べて通話を終えた。


 暗くなったスマホの画面を、たっぷり二十秒ばかり眺めた根岸は、げんなりと顔色を沈ませながらも電話帳を開き、『鶴屋琴鳴つるやことなり』の文字列をタップする。


 長いコール音の後、『ただいま電話に出る事が出来ません……』と、単調な機械音声が応答した。がっかりしたような拍子抜けたような気分で、根岸は電話を切る。


 ――出ないなら仕方ない。正直なところ、珍種の幽霊としては陰陽士と積極的に関わりたくない。


 溜息を吐いて気を取り直し、居間の壁に掛かっている古めかしい振子時計を見上げた。午後四時五十分。

 もうすぐ仕事の時間だ。今日はJR高尾たかお駅に滝沢と集合予定となっている。


 鞄と上着を抱えて居間を出ると、どういう訳かミケもコートを着込んで玄関に立っていた。


「あれ、ミケさんも出掛けるんですか?」

「ああ。俺はちょっくら、大学を調べてくるよ。遠藤先生も気になるし、学部棟の防犯面も」


 あまりにけろりと告げるものだから、根岸は「へえ」と相槌を打って素通ししかけ、すぐに仰天して扉に手をかけるミケを引き止めた。


「いや、ちょっ、駄目ですよそんな気軽に! 人が死ぬレベルの事件に繋がってるかもしれないんだから」

「なんだなんだ、悪の組織の秘密基地に忍び込もうってんじゃないぞ。調べるったって、学生が出入り出来る所までだよ」


 と、ミケは学生証をひらひらと振ってみせる。


 現在、栄玲大学は春休み中で閉鎖されている。しかし大学図書館や学部棟の端末室を利用する学生はそれなりに多い。単に家にいても暇だという院生が、研究の名目でコーヒーを片手に駄弁っていたりもする。

 学生証がカードキーになっているので、オートロック式の夜間出入り口を通れるのだ。今も時間帯からして、無人という事はないだろう。


「根岸さん、今日は終電近くなるんだろ? それまでには帰るし……ああ、家帰ったら一度LINE入れとくから」


 なっ、とミケは宥める風に根岸の肩を叩く。

 根岸は先刻とは異なる感情からの嘆息を漏らした。


「……危ない真似はしないで下さいよ」

「分かってるさ」

「ほんと、ミケさんは何でそう人がい……猫が好いんですか」

「あまり聞かない慣用句だな」

「笑い事じゃなくて」


 一連の事件を根岸が調べているのは、いわば自分自身の仇討ちのためだ。

 異変の正体を追ううちに、何故自分が不可解な能力を持った幽霊としてこの世にとどまっているのか、その真相にも近づけるかもしれない。そんな淡い期待もある。


 こうも個人的な事情に、ミケを過度に巻き込むのは気が引けた。しかしこの老練にして面倒見の良い家令は、殊に怪異が困っているとなると、放っておけない性質たちであるらしい。


「あんたが言う程お人好しって訳じゃない」


 ミケは牙を覗かせて照れ笑いを浮かべる。


「気に入った奴の世話しか焼かんよ、俺は」


 言うなり彼は、半端に履いていたスニーカーの踵を整えて、音戸邸の重たい木造りの扉を押し開けた。



   ◇



 午後六時五分、八王子はちおうじ市。高尾街道上。

 既に陽は沈みきり、空は紺碧に近い。西側の地平線のきわあたりだけ、微かにオレンジがかって見えた。


「あの遺跡に入る道、細くて分かりづらいのよね。悪いけど根岸くん、私が見落としそうだったら言って。左手にあるはずだから」


 前方の夜道から目を離す事なく、運転席の滝沢が零す。


 本来なら部下である根岸の方が運転手を務めるべきなのかもしれないが、根岸は死亡した時点で運転免許を失効している。

 しかも幽霊はしばしば、乗ったはずの乗り物から置き去りにされるのだ。「自分は座席に座っている」という認識が曖昧だとそうなるらしい。


 定番の怪談に、タクシーに乗った客がいつのまにか消え去っていて、どうやら幽霊だった、などという話があるが、あれも幽霊の方が不本意に放り出されていたのだとすると、笑い話になってしまう。根岸としては真剣に困っているのだが。


「はい。……それにしても、良かったんですか滝沢先輩。こんな時間に車まで出して貰って。僕が半分私情で志願した仕事なのに」

「何言ってんの。現場仕事は基本、二人以上で当たる事になってるでしょ。暗い中で一人きりなんて危ないじゃない」

「いや僕幽霊なんで」


 どちらかと言うと、夜に人間を脅かして危ない目に遭わせるのが幽霊ではないだろうか。


「幽霊でも、うちの職員である以上はダメ」

「……はい」


 あっさり押し負けて、根岸は引き下がった。どうにも彼の周囲には、押しの強い世話焼きが多い。


 ――今二人が向かっている先は、八王子市郊外に位置する発掘調査中の近世遺跡。最近になって夜間に幽霊が出没するようになったという場所だ。

 凶悪な怪異ではないし、昼間は姿を現さないので調査を妨害されることもない。が、場所が場所なだけに、一応トクブンに連絡が入った。


 その際提供された情報に、気になる点があったのだ。それで根岸が担当を志願した。


「出没する幽霊は、歴史上に記録の残る人物を自称してるとか。下原刀匠したはらとうしょう山本康重やまもとやすしげ……ですか。確か、後北条氏に仕えた刀鍛冶の一族ですよね」


 助手席側の窓の向こうに注意を払いつつ、根岸は滝沢から渡された資料の内容を思い返す。


「そう、下原鍛冶。山本家の二代目が、戦国大名北条氏康ほうじょううじやすから『康』の字を与えられて、康重やすしげと名乗るようになったって話。余程の名工だったのね。北条氏が滅亡した後も代々『康重』の名乗りを継いで、徳川家の御用鍛冶を務めてた。実用性重視だったみたいで、美術品として現代いまに伝わる作品は少ないのが惜しいところ」


 運転に集中しつつも、滝沢はすらすらと、これから会いに行く幽霊のプロフィールを述べた。


 幽霊とはいえ歴史上の著名な人物に会えるとなれば、心躍る仕事となりそうだが、この手の案件、実は安易に浮かれられるものではない。

 昔の人間、それも広く知られる人物が化けて出た怪異は、実際の本人とは全く異なる存在であるケースが多いのだ。

 知名度の高さゆえに、伝説や想像を含めた、後世の人が持つ様々なイメージをごちゃ混ぜに取り込んで顕現けんげんしてしまうのである。


 人気の高い歴史上の英雄――例えば織田信長や土方歳三などといった人物だと、同時に三体も四体も別々の場所に化けて出て、しかもそれぞれがまるで似ておらず、人格もあやふや、生前の思い出を語ってみせても正室の名前すらばらばら、という無茶苦茶な事態も起きている。


 落語の『頼朝公御十四歳のみぎりのしゃれこうべ』のような話だが、当の故人にしてみればたまったものではないだろう。それこそ化けて出そうだ。


 中には、非実在人物の幽霊が顕現した例もある。

 しん怪異国のイングランドでは降霊会が盛んで、今までに数回、シャーロック・ホームズの降霊に成功している。勿論彼はフィクションの登場人物である。


 日本も他人事ではない。都内でも有数の大怨霊、四谷於岩稲荷よつやおいわいなりに住まう幽霊『お岩様』は、実在した田宮岩たみやいわという女性とはまるで別人なのだが、江戸の人々の『お岩様』への畏怖が掛け値なく真実であるために、彼女は大怨霊であり続けている。


 怪異学者たちが幽霊なるものの定義に頭を悩ませる一方で、歴史学者はこれらの現象に冷めた反応を示した。

 怪異へのインタビューなどによって得られた『史実』への証言は、論拠と認めない。それが現代の史学界の常識である。法律上の怪異の扱いと概ね同様だ。

 結局、怪異は元になった故人とは別の生き物であり、どこまで信用が置けるか誰にも分からないのだから、致し方ない結論ではあるだろう。


 しかし、中にはほぼ『本人』がそのまま化けて出る場合もある。いよいよややこしい。


「あ、先輩。そこです曲がり角」


 不意に根岸は首を傾け、斜め前方を指差した。案の定見逃しかけていた滝沢が、慌ててウィンカーをともす。


「うわ、分かりづらっ。ありがと!」


 どうにか安全に、車は左折した。


「よく見えたね。あそこ街灯もちょっと心許なかったのに。……幽霊になってから、視力回復した?」

「いや、見えたっていうか――」


 眼鏡の鼻当て部分を押し上げて、根岸は眉根を寄せる。残念な事に、人を超越する力を得たはずなのに裸眼の視力は悪いままだ。

 代わりに根岸は幽霊となって以降、不思議な匂いを嗅ぎ取るようになった。線香と異国のスパイスと、ある種の花の香りを混ぜたような。時々によって異なる匂いだが、不快だと思った事はない。


「あっちから匂いがしたんですよ。幽霊の。そしたら曲がり角が」

「幽霊の匂い……?」


 滝沢が怪訝な目でこちらを見遣った。無論、彼女には理解し難い感覚のはずだ。


「怪異っぽい事言うようになっちゃって」

「ミケさんにもそれ言われました」


 ミケも今頃は栄玲大学の構内だろう。

 何事もなければ良いのだが、と根岸は案じた。月明かりもなく暗さを増す夜空が、彼の不安を煽るかのようだった。

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