幕間

 一人の女性が、黒髪を風になびかせながら、眼下に広がる景色を見ていた。

 カルマート湾港を見下ろす高台。そこに設けられた公園の見晴台に立ち、海を、行き交う船を。まるで心を失った人形の様にうつろな瞳で。


 夫と娘を乗せた船が、カルマートに向けて出港したのは先年、早春のこと。ちょうど一年前の穏やかな日、二人に手を振り、出向する船を見送った日の事をよく覚えている。


 そう。鮮明に、覚えている。


 到着予定を過ぎても、二人の乗る船が、カルマートに到着していないことを知らせる一報が届いた日の事を。カルマートの領主から、彼の海域に対する迂回指示が発布されたとの知らせを受けた日の事を。


 軍によって、夫の、娘の乗った船の残骸が、発見された日の事を。


『残念ながら生存の可能性はありません。これはいまだ一般には発表していない事ではありますが、おそらく巨大生物との戦闘があったものと推測されます』


 要するに、乗組員は、乗客はみな喰われたのだと、商会と関係のあった軍人は彼女に告げた。残されていた遺体はどれも原型をとどめてはいなかったと。


 愛する者の死など受け入れられる筈もない。彼女は泣き崩れ、自暴自棄になり、まるで廃人のように項垂れるだけの日々を過ごした。

 もはや生きる気力など、ありはしない。生きる理由も、何も。

 周囲の者が欠ける言葉にも、意味を見出すことなどできはしない。


『お嬢様は、あなたのそんな姿など見たくは無いと思います』

『奥様は、旦那様たちの分まで幸せにならないと──』

『二人とも、今も奥様を見守っていますよ。だから、笑顔で二人を安心させてあげましょうよ──』


 ふざけるなと思った。

 口をそろえて、好き勝手なことばかり。自分たちは幸せに、家族に囲まれながら上から目線? 不幸な人間を見ながら優越感に浸ってるだけのクセに。可哀そうな誰かに同情してる自分に酔ってるだけのクセに。同じ立場になったら、途端に手のひらを反すクセに──と。


 暗く、沈んだ日々は半年に及んだ。


 その彼女が突然、カルマートへの渡航を宣言した。

 ある朝、突然に。

 一切の反論を許さぬほど、凛とした表情で、人が変わったように。

 カルマートに到着するはずの夫を、娘を出迎えるために。


 それがどれほど無意味な事であるのかと、その行為を諫めるものは彼女の周囲、商会の部下たちの中には居なかった。

 心の傷を癒すには、それも必要な事かも知れない。

 商会の重鎮たる年かさの男の呟きに、反論することのできるものなど、一人も居なかったからである。


 それから毎日、この場所に立って、入港する船を見続けた。

 晴れの日も。嵐の日も。

 来るはずの無い、船団の、船の姿を探して。


 彼女の心が呟く。


 後悔している。

 仕事の都合があった。だから二人を見送った。もしもあのとき、夫と、娘と、共に旅立っていたら──

 それはあの日の彼女の後悔。

 胸の内で何度も繰り返したその言葉に、目を閉じる。


 風が頬を撫で、髪を揺らした。


 ふと、嗅いだことのある匂いが鼻孔をくすぐる。

 後ろに立つ誰かの気配に、瞼を開いた。


 ゆっくりと振り返る。

 五メートルほど先。青々とした芝生で埋め尽くされた公園に、影法師が立っていた。


 子供のあそぶ甲高い声。どこか怒ったような母親の声。ペットの鳴き声。老人の笑い声。そんな日常の中に溶け込むことの無い、古風な、いや、華美な黒いローブに身を包んだ影法師が。


 影法師はすこし戸惑ったような表情を浮かべると、被っていたウィザードハットを脱ぎ、胸に抱えた。

 パラリと零れたストロベリーブロンドの髪が、柔らかな日差しの下、緩やかな風に揺れる。


 女性の目が大きく見開かれ、わずかに強張る。

 やがてそれは穏やかな笑みに変わった。


 知っている顔だ。

 見たかった顔だ。


 ずっと、ずっと。

 会いたかった。


 女性は手を伸ばす。影法師に向けて。


 大丈夫。この手は届くはずだ。


 だってこれは夢ではないのだから。

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