涙がこぼれそう

 三番街をそんな風にして眺めるのは初めてだった。


 僕はアスファルトに倒れていた。固い地面は寝心地が良いとはいえなかったけれどひんやりとして気持ちが良かった。

 通行人の足だけが見える。彼らが皆、巨人に思えた。ハイヒールの打ち鳴らす音が耳に心地いい。


 駅前のロータリーで倒れた男の身を案じて、幾人かの善人が近づいてきたけれど、僕がはっきりと目を開けているのを窺うと、まるで幽霊でも見てしまったかのように足早に歩き去っていった。

 立ち上がる気力がないわけではなかった。体の節々は痛み、腫れた頬は熱を帯びていたが重症には程遠かった。その気になればいつだってそうすることは可能であり、すぐにでも道行く彼らの仲間入りを果たすことができる。ほんの少しの思い切りと、後はタイミングの問題だった。だけど今はまだ立ちたくなかった。


 地底から振動が伝わってくる。徐々に近付いてくるそれは、地下鉄の音響だった。まるである種の音楽のビートのようだった。規則的なバスドラムに、想像でスネアとハイハットを補う。そのリズムをまさしく全身で感じていた。



――事件は、ほんの数十分前に起きた。


 僕は三番街を彷徨っていた。果たして自分が何を求めているのかも解らなかった。何か目的があってスーパーマーケットに立ち寄ったものの、売り場にずらりと並んだ商品を眺めている内に何を買いに来たのか分からなくなる、そんな状況に似ていた。

 解決すべき問題がいくつもあった。だけどそれらが整然と眼前に羅列された瞬間、どこから手を付ければいいか分からなくなった。いや、そもそも僕は解法など求めていなかったのかもしれない。腹の底から込み上げる不安にも怒りにも似た感情に胸をムカつかせて、それらを解放する機会を窺っていた。


 激情と呼ぶにはやや熱量が足りない感情は、酸素が不足した不完全燃焼のように黒々とした煙を立上らせていた。それらを燃焼させるのに必要な燃料を求めていた。


 目に映るもの全てが憎く醜く感じられた。過度な幸福を演出する広告看板、往来の人々の無遠慮な狂笑、路傍に置かれたゴミ箱さえ、その全てが僕を苛つかせるために仕向けられた誰かの悪意であるように感じられた。

 いっそその辺にある物(無作為に選ばれた気の毒な無機物)を蹴り飛ばすことで、無軌道な感情を発散してしまいたかった。それを押し留めているのは理性と呼ばれる至極真っ当な合理性と、世間体という名の社会性だった。そしてリスクを恐れる己の冷静さが、僕をより一層不快な気分にさせた。


 導火線は準備されていた。あとはそこに点火する他動的な理由のみだった。そしてそれは間もなく、まさしく絶好ともいえるタイミングで齎せられた。


 ドラッグストアの前で談笑する男と肩がぶつかった。それについては大したことではなかった。どちらからか謝罪をすれば済む話だった。実際、普段の僕ならそうしていたことだろう。だがその時ばかりは余計なプライドが邪魔をした。それに加えて、相手方にも多少なりとも問題があった。


 二人組の男たちは、ひどく酔っぱらっていた。泥酔といえるほどの状態でないのがよりタチが悪かった。そもそも真っ直ぐ道を歩いていた僕によろけかかってきたのは向こうの方だった。それでもまだ少しの猶予はあった。互いの形式的な一言だけで、その場を丸く収めることは十分に出来た。


 だが彼らはそう考えなかったらしい。ぶつかったものが何か緩慢な動作で確認し、それが人であると分かった途端、僕に絡んできた。それなってしまえば、あとはもう仕方がなかった。売り言葉に買い言葉で平和交渉は決裂し、互いの利害は一致した。


 口汚い罵り文句を全身に浴びながら、僕はむしろ好都合だと思った。ターゲットを罠に掛けてやったような気分だった。


 怒鳴る声に対して低めた声で言い返す。それはもはや議論と呼べるようなものではなかった。合理性や社会性の介入する余地はなかった。血液が急激に脳に駆け上がるのが感じられた。手足の先がすうっと冷たくなっていくのが分かった。非日常の扉はすぐ目の前にあった。そこに手を伸ばすことが、ひどく甘美なものに感じられた。


 幾人かの通行人が若干の興味を示しつつも、下手に巻き込まれまいと逃げるように通り過ぎていく。そして僕がほんの一瞬よそ見をした瞬間、相手の拳が飛んできた。その衝撃は僕の右頬を正確に捕らえ、脳が揺さぶられた。同時にカチッとスイッチが押される音がはっきりと聞こえた。


 僕は感情のままに腕を相手に向けて突き出していた。それは拳と呼べるものでさえなかった。だが相手はひどく酔っていた。男はアスファルトに盛大に尻餅をついた。その様子を眺めている内に、頭に上った血液が急速に鎮まっていくのが感じられた。このまま家に帰ったなら、ぐっすり眠れるだろうと思った。


 さらなる問題は相手が二人組で、連れの男の方が倒れた男よりも幾分か酔いが浅く喧嘩慣れしていることだった。二、三発ほど殴られて僕が地面に蹲ると、倒れた男も立ち上がってさらに五、六発の蹴りが加えられた。その間僕にできたことといえば、亀のように丸くなって一刻も早くこの時が終わるのを願うことだけだった。


 抗うことのできない「力」というものを、僕は生まれて初めて体感した。あるいはこれまでだって違う形で幾度も経験してきたものなのかもしれない。だがこんなにも直接的な暴力という形ではっきり痛感させられたのは、やはり初めてのことだった。


 一拍の間をおいて最後に強烈な一撃をお見舞いしたことで満足したらしい二人組は捨て台詞のようなものを吐きつつ去って行った。薄れゆく意識でそれを聞きながら、まるで陳腐な映画のワンシーンみたいだと思った。


 満身創痍の身体を引きずって、駅に向かう人の群れに加わる。激痛を堪えながら、なるべく平常を保ちつつ、日常の住人たちに歩調を合わせる。

 僕としては巧妙に擬態しているつもりなのだが、それでもすれ違う人々から次々と好奇の眼差しを向けられる。その主な原因が僕のワイシャツに刻み付けられた足跡であることを知り、さらには顔を拭った際に付着した赤い血が袖口に滲んでいることに気づくと、途端に何もかもがどうでも良くなって僕はロータリーに倒れ込んだ。


 重力を味方につけたような気分だった。全能感らしきものが全身を満たしている。あらゆる巨力に敗北した感覚。そのようにして僕はこの場所に辿り着いたのだった。



 再び地面から振動が伝わってくる。それは遠くからでなくすぐ近くで鳴っている。うつ伏せのまま左ポケットを漁って、携帯端末を取り出す。画面には愛すべき名前が表示されている。僕は電話に出た。


「もしもし」

 積上げられたトランプタワーを崩さないようにするかの如く、潜められたその声。

「どうかしたの?」

 すかさずリリーは用件を訊ねてくる。焦燥に駆られているような、だが慎重そうな様子が窺われた。

「あなたから掛けてきたんでしょ?」

 リリーの言う通り、僕から電話を掛けたのだ。彼女は折り返しただけに過ぎない。

「こう見えても私、それなりに忙しいのよ? この後も予約が入ってるんだから」


 電話越しの無言。彼女は端末を持ち替えたようだった。右手から左手に、あるいは左手から右手に。片手間に話すのを止め、僕の不手際を許すつもりになったらしい。


「珍しいわね。私を買うつもりにでもなったのかしら? あなたなら大歓迎よ!」

 試すように愉しそうに宣う。そこでふいにリリーの職業を思い出す。彼女は娼婦。〈電話一本で、男の欲望を満たしに駆けつけるコールガール〉


――この街を出ようと思うんだ。

 前後の文脈も関係なく僕は言い放つ。前後不覚に身を委ねるように、正常な判断を放逐してしまったかのように。あくまで独断専行の個人的な計画をリリーに伝える。

「また連絡する」

 最後に彼女はそう言って、やがて通話が途切れる。不通音はモールス信号のように僕たちの間に横たわる膨大な距離を否応なしに実感させるのだった。


 朝になっていた。カラスの親子が呼び合っている。繰り返す日常を哄笑する輪唱に僕は嬉しくなってアスファルトから身を起こす。後ろ暗い未来に後退りするように、移ろいやすい過去と虚ろな今に後ろ髪を引かれながら――。


 それでも、いつかは立ち上がらなくてはならない。不器用なレジスタンスとしての比喩ではなく、卑屈な一人の屈従者として。

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