09.ゆううつマドレーヌ(3)

 栞と飲んで食べたあと、胡桃は自宅マンションへと帰ってきた。時刻はまだ21時だ。少しお酒を飲んだけれど、頭はしゃっきりしている。

 隣の部屋の電気は点いていた。昨日まで帰省していたため、佐久間には年末以来会っていない。久しぶりに、彼の顔が見たくなる。


(……よし! マドレーヌ作ろう!)


 胡桃はエプロンを身につけると、威勢よく腕まくりをした。

 まず、卵とハチミツと砂糖をボウルに入れて混ぜる。薄力粉とベーキングパウダーとアーモンドプードルをふるって入れる。よく混ぜて、アールグレイの茶葉を加える。レモンの皮があったので、香り付けに少し入れてみた。

 溶かしバターを入れて混ぜて、1時間ほど生地を寝かせる。グルテンを少し休ませてから焼くことで、急激な膨張を防ぐ……らしい。理論的なところは、胡桃にはよくわからない。

 生地を寝かせているあいだに、ベランダに出て隣の部屋の様子を窺ってみた。締切が近いと言っていたし、おそらく佐久間は仕事中なのだろう。

 190℃に熱したオーブンを180℃に戻してから、13分ほど焼く。中を覗き込むと、マドレーヌにができていた。上手に焼けたら真ん中がぷっくりと膨らんで、可愛いおへそができるのだ。これを見るのも、マドレーヌ作りの醍醐味のひとつである。

 オーブンから甘い香りが漂ってくるにつれて憂鬱な気持ちは薄れていって、早く佐久間さんに会いたい、という気持ちが高まっていく。やはりお菓子作りは、最強のストレス発散方法だ。


 綺麗に焼き上がったマドレーヌを持って、胡桃は一目散に佐久間の元へと向かった。インターホンを押すと、ものすごい勢いで扉が開く。


「やっと来たか! 待ってたぞ」

「わっ、びっくりした」

「甘いものが食べたくて仕方なかったんだ。早く入ってくれ」

「あ、はい」


 強引に腕を引かれるがままにダイニングへと進んだ胡桃は、すとんと腰を下ろす。久しぶりに会った佐久間は、髪もボサボサで目も血走っており、かなり疲弊している様子だった。顔が見れて嬉しいけれど、少し心配にもなる。


「佐久間さん、なんだか疲れてますね」

「もう何日も寝ていない。いつのまにか年が明けていた」

「えっ。ちゃんと寝ないと身体に悪いですよ」

「わかりきったことを言うな。そんなことより、今日は何を持って来たんだ」

「あ、これです」


 佐久間は胡桃の差し出したタッパーの蓋を開けると、ぱあっと表情を輝かせた。


「マドレーヌ! しかもこれは……紅茶の香りか」

「はい。アールグレイ風味にしてみました」

「素晴らしいチョイスだ。やはりきみは最高だな。生まれてきてくれてありがとう」


 熱を込めてそんなことを言われると、なんだか愛の告白をされているような気分になってくる。寝不足のせいか、ナチュラルハイになっているのかもしれない。


(お父さんが作ったお菓子がうちにあることは、内緒にしておこう……)


 きっと佐久間は食べたがるだろうが、もし「胡桃の作ったものより美味しい」と言われたら立ち直れない。それが事実だとしても、胡桃はきっと落ち込むし父に嫉妬もするだろう。ワガママでごめんね、と心の中で彼に謝罪しておいた。

 佐久間が用意してくれたのは、マグカップに入ったホットミルクだった。「マドレーヌそのものに紅茶が入っているのだから、味と香りを邪魔しないものにした」らしい。


「では、早速いただこう」


 佐久間はそう言って、小さなフォークでマドレーヌを口に運んだ。しみじみと噛み締めるように目を閉じたあと、「美味い……」と唸り声を出す。


「フワフワの食感が素晴らしいし、香り高いアールグレイの風味が素朴な味わいに華やかさを添えている。しかもこれは……レモンが入っているのか? 爽やかでいいアクセントだな」

「はい。レモンの皮を入れてみました」


 いつものようにたくさん褒めてもらえて、胡桃はご満悦でホットミルクを飲んだ。ほこほこと温かいミルクはほのかに甘い。どうやら、ほんの少しハチミツが入っているようだ。

 佐久間に続いて、胡桃もマドレーヌを一口齧る。たしかに美味しかったけど、やっぱり父が作ったものの方が美味しかったな、としょんぼりした。遠い昔に父に教わった通りに作ったはずなのだが、一体何が違うのだろうか。


(佐久間さんは、褒めてくれるけど……やっぱりわたし、プロの腕には程遠いんだろうな……)


 やっぱり今の仕事を続けるしかないのか、などと考えて、また会社のことを思い出してしまう。無遠慮な視線と漏れ聞こえてくる陰口を思い出して、だんだん息苦しくなってきた。


「……どうしたんだ。顔色が悪いぞ」


 落ち込んでいる胡桃に気付いたのか、佐久間が仏頂面のまま問いかけてきた。胡桃は慌てて笑顔を取り繕う。


「いえ、何でもないです」


 佐久間も疲れているのだろうし、余計なことを言って心配をかけたくない。

 しかし彼は退かず、胡桃の言葉を促すようにじっとこちらを見つめている。根負けした胡桃は、小さな声で「元カレ絡みでちょっと……」と呟いた。佐久間の表情が、みるみるうちに険しくなる。


「また性懲りも無く、きみに接触してきたのか」

「いえ、そういうわけじゃ。ただ、会社で変な噂流されちゃったんです。わたしに無理やり迫られたせいで婚約破棄された、みたいな」

「……」

「そ、それで。ちょっと会社に居づらくなっちゃって」

「……あの下衆男。救いようがないな」


 佐久間はそう吐き捨てた。忌々しげに眉を寄せる彼に、胡桃は俯いて「ごめんなさい」と詫びる。


「どうしてきみが謝るんだ」

「聞いてて、楽しい話じゃないでしょ。佐久間さんも疲れてるのに」

「いまさら何を言ってるんだ。そもそも、きみの愚痴を聞く代わりにお菓子を食べさせてもらう、という話だったはずだが」

「……」


 佐久間の言葉に、胡桃は俯いて押し黙る。

 たしかに当初はそうだったが、今はすっかり手段と目的がすり替わってしまった。胡桃はただ佐久間に、自分の作ったお菓子を食べてほしいだけなのだ。愚痴を聞かせて、嫌な思いなんてさせたくない。できることなら、胡桃と一緒にいる時間を楽しいと思ってもらいたい。


「……ほ、ほんとに。ぜんぜん、平気なんです。先輩も、わたしのこと信じて味方してくれるし。あ、今日初めて二人でごはん行ったんですよ!」


 胡桃は佐久間を安心させるように、できるだけ明るい声でそう言って、ニッコリ笑ってみせた。しかし彼は余計に不愉快そうな顔をして、「ふーん」とマグカップを持ち上げる。


「……悪かったな、役立たずで」

「そ、そんなこと一言も言ってないです! 佐久間さんは、わたしの作ったお菓子食べてくれるだけで充分ですよ」

「それでも……納得できないな。これではタダ食いしているのと同じだ」


 不服そうにモグモグとマドレーヌを頬張る佐久間に、胡桃は勇気を出して「……じゃあ、ひとつだけ」とおそるおそる手を挙げた。


「なんだ」

「あ、頭撫でてもらってもいいですか……?」


 胡桃の申し出に、佐久間はダイニングチェアからずり落ちそうになった。あからさまに狼狽した様子で、声を荒げる。

 

「はあ!? な、何を言っているんだ。こ、子どもじゃないんだぞ」

「い、いいでしょ、べつに! 佐久間さんに頭撫でてもらえたら、が、頑張れる気がするんです!」

「……それは……いや、まあ、しかし……それぐらいなら……」


 佐久間は躊躇いつつも立ち上がり、ヨロヨロとこちらに歩いてくる。胡桃のそばに立つと、ぽん、と頭の上に手を置いてくれた。胡桃の大好きな、大きくて温かいてのひら。

 胡桃が目を閉じると、彼の手がぎこちなく頭の上を動く。動物が苦手なひとが、おっかなびっくり犬を撫でるような手つきだ。


「……佐久間さん」

「なんだ」

「……頑張れ、って言ってください……」

「きみはもう、充分頑張ってるだろう」

「……偉いね、って褒めてください……」

「……はいはい、偉い偉い」


 やや投げやりな口調ではあるが、彼はきちんと胡桃のリクエストに答えてくれる。彼の不器用な優しさに触れるたびに、恋心はどんどん大きく膨れ上がっていく。


(……やっぱりわたし、このひとのこと好き)


 たとえそれが、手作りお菓子と引き換えの優しさだとしても――今はそれで、充分幸せだ。


「……ありがとうございます。明日からも頑張れます」

「……気にするな。マドレーヌ代だ」

「じゃあ次は、胡桃ちゃん世界で一番可愛いねって言ってください」

「……バカ。調子に乗るな」


 どんどん要求がエスカレートしてきたところで、パチンと額を弾かれた。耳を赤く染めてこちらを睨みつける男を見ていると、くだらない憂鬱なんてしゅわしゅわと消えてしまう。

 温かいミルクとともに、ぱくりと頬張ったマドレーヌは、父が作ったものには程遠いけれど――やっぱり、とても美味しかった。

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