ニュクスの星にて

御御

第1話 プロローグ・星の夜①

 いつかの夜が、そこにはあった。

 透き通った空、煌々と輝く満天の星々の下で、彼は遠い記憶に思いを馳せる。

 其処此処と、無邪気に結んだ光の線は、今も変わることなく、漆黒のキャンバスに旧い物語を紡ぎ続けている。


 「あっちで、待ってる」


 胸の内側を、かすれた声が駆け抜けた。

 すとんと、何かが抜け落ちるような感覚がして、彼は思わず身を起こす。

 言葉にならない呟きが、冷たい夜風の中に消えてゆく。

 そうして帰ってくるのは、どこまでも続く、深い闇。黒鉄色の大地の上に、ヴェールのように広がる、藍色の宙。かすかに指を伝う、鈍い感触。

 我に返った彼は、しばらく手のひらを見つめながら、静まり返ったこの夜に、自分が独りであることを思い出す。

 すべては、つかの間の夢。見上げれば、星々はすでに失く、蠢く夜のに飲み込まれて、茫漠とした天上には、もう何の輝きも残されてはいなかった。

 あんなもの、見なければよかった。

 ひりりとした後悔が、頭の奥を締めつける。


 「珍しいね、雲が晴れるなんて。もう何年ぶりだろう」


 ふと、けらけらとした声が、頭の中に割って入る。


 「知ってるかい? ヒトはいつか、皆そこに行くんだってさ。土から離れて、誰も知らない、遠いどこかに連れて行かれてしまうんだ。不思議だね」


 それには、どこか機械的な響きがあった。

 男とも女ともつかない、甲高くも時々低いその声音には、わずかなノイズ音が混じっていた。


 「も、いつかそうなるのかな」


 迷信だ――彼は、頭の中のに向けて、静かにつぶやく。


 「子供だましだ。ヒトは、星にはなれない。土から離れることも、行ってしまった遠い誰かと逢うことも、ない。だからこそ――」


 そこで、彼は一息飲んだ。

 そして、それはゆっくりと立ち上がる。黒々とした大地に、泡ぶくのように浮き上がる、小さな影。雲の隙間から差し込む雷光が、モノクロの瞬きの中に映し出す、ヒトの姿。


 「俺たちは、を殺すんだろう」


 それは、ただ人類のために呪われた者たち。

 遠い進化の果てにさえ、決して生まれるはずのなかった、許されざる人々。

 ゆえに、その姿は歪んでいる。

 彼にはもう、ヒトとしての顔は残されていない。そこにあるのは、図形化された無表情な顔型の凹凸と、真っ赤に光る一対のランプだけ。軋みをあげる両手は獣のように鋭く、がちゃがちゃと音を立てる両足には、鱗に似た金属製のスパイクが無数に張り付いている。

 果たして、その下にヒトの名残りが埋まっているなど、誰が信じるだろう。

 彼の全身は、いまや何もかもが、夜よりも濃い闇色に染め上げられていた。


 「――来た」


 ふと、彼は呟く。

 気がつけば、にわかに騒ぎ始めた夜風に乗って、この世ならぬ生暖かい霧が立ち込め始めていた。


 「早いな。《バベル》、雲の状態は?」

 「およそ300メートル。想定通り、海に引かれてる。心配無用だよ」


 そこには、「当然」という響きがあった。

 彼は、一瞬のためらいを感じつつ、もう一度空を見上げる。

 薄く伸びきった夜の雲は、それの言うとおり、ゆっくりとした動きで彼の後背に退きつつあった。

 しかし、一方で辺りに立ち込める霧はいよいよその濃さを増し、彼の周りに、明らかな熱を持って収束しつつあった。

 彼は、自らの右手首に据えつけられた、半円柱状のコッキングレバーを引く。すると、それまで上腕に乗っていた無骨な杭が、乾いた擦過音とともに前腕部へと滑り落ちる。その先端には、雀蜂を思わせる鋭利な針が突き出し、中腹部には管楽器に似たいくつもの「あな」が備えられていた。


 「なら五分だ。五分ぴったりで撃て。たぶん、それ以上はもたない」

 「了解。ところで、《ジャン・ジャルジャック》の部隊が近くにいるようだけど?」

 「それは計画にない。接近してくるようなら、警告しておけ」


 その言葉とともに、両足のスパイクが一斉に歯を立てる。

 全身にふつふつと熱が灯り、黒い外殻のところどころから、熾火のような黄金色の瞬きがちらつき始める。

 早く来い――。霧は、なおも舐めるように揺らめく。それは常だ。しかし、それでも彼は、高鳴り始める鼓動の波を感じずにはいられなかった。


 ――そして、それは《星》となる。


 一瞬の静寂を置き去りに、すべての霧が、獅子のような咆哮を上げる。

 耳をつんざく爆発音が渦を巻き、それまで揺らめくばかりであった意志なき霧が、一斉にそれを得て形を為す。

 彼は、地上にあって、星々の世界を目にしていた。一点に集結した白い塊が、すさまじい衝撃波とともに爆発し、熱と光が、無明の荒野をなぎ払う。

 そうして現れるのは、蹄を持った恒星。天にも届くような巨躯に、星々の純白の輝きを纏ったそれは、全身に毛皮を思わせる無数の触手を波打たせ、乾いた大地に、四つの巨大な足跡を刻み付けていた。そして、ゆっくりと持ち上げられたその頂きには、まるで矯められたかのような異様な造形美を放つ二本の巻き角がそそり立ち、その中心で、煌く琥珀色の一つ目が、不気味なほどの穏やかさでもって地上を見下ろしていた。


 《牡羊アリエス


 そう呼び名されたのも、無理からぬことだろう。

 それは、石を小突くような高い音を立てて、彼の前にその巨大な前足を踏み出す。そこには、羊のそれと瓜二つな、象徴的な二つ割れの「蹄」が備わっていた。

 しかし――、


 「《ロット・ワン》より《ダーガー》へ。の出現を確認した。これより、交戦する」


 それでも、それは羊ではなかった。

 《星の竜》――それこそが、「彼ら」に与えられた名前だった。

 その証に、対する小さな二つ星は、それの後背部で一際輝く、蜻蛉のような一対の薄翼へと向けられていた。


 「俺は、生きるよ。だから――もう死んでくれ」

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