第1765話・春を前の一息

Side:久遠一馬


 二月も下旬となると、尾張は春の気配が見え始めていた。観桜会、春祭りの日程も桜の開花を予測しつつ調整している。


 駿河の一件は、ようやく落ち着いている。処罰に関しては二通りあった。ひとつは織田家としての処分、これは主に謀叛人として個人を処罰するのと、一部の監督責任がある寺社に叱責と多少の罰を与えたくらいだ。


 もうひとつは寺社自らの処罰になる。監督責任がある中堅の寺社が、多くの謀叛人を出した末端に対して処罰を行なった。一部では廃寺や寺社の縮小もあるという、この時代では厳しいものになる。


 三河本證寺や伊勢無量寿院の件もあったことで、尾張では寺社による自助努力が重んじられることが理由だろう。もともと寺社は武士とは別の権威の下で生きたこともあり、本来は自裁するのが当然なんだけどね。


 ただ、身内に甘くなり、自分たちの勢力減退につながるような裁きはしないんだけど。


「甲斐も駿河の動きに驚き、一部の者は慌てておるとか」


「威勢がいいのは構わぬが、許されぬと示したことすら理解しておらぬのはいかがかと思うな。信濃の諏訪神社の件とて忘れてはおるまい」


 資清さんと望月さんがなんとも言えない様子で語っているのは、甲斐の現状だ。


 別に珍しくない。末端が従わないなんて駿河や甲斐でなくとも、どこでもあることだ。とはいえ、因縁ある今川の本領であった駿河と、風土病があり赤字体質の甲斐はどうしても目立つ。


 穴山と小山田が降ったあとも、末端の土豪やら寺社のいくつかは反発していて、この冬も食糧支援をしていないところがある。当然、飢えることで近隣の従ったところとトラブルになり、一部では攻め落としたところすらあるんだよね。


 そこまでいかなくても非協力的な者や、謀叛予備軍なんてのはいくらでもいる。中には未だに武田家の下で織田と戦う機会を狙う者も。


 義元さんの動きは、そんな者たちに自分たちが見限られる可能性を示したという意味では本当に有効だった。


 諏訪神社、別に軽視もしていないけどね。厚遇もしていない。それと信秀さんを怒らせたという世評が今も影響をしているんだよね。


「しかし、甲斐はどうしたもんかね」


 まあ、末端のことはいい。織田家の皆さんと現地の武田家臣が頑張っている。オレの頭を悩ませるのは、甲斐の今後だ。


 いくつかの鉱山が使えることは把握しているものの、風土病と生産性の低い農地。街道もお世辞にも整備されているとは言えないので、とにかくお金が掛かる割に開発するメリットが少ない。


 鉱山にしても、この時代の技術だと鉱夫を使い潰す形で採算が取れるかどうかという感じだし。やり方を変えるにしても簡単じゃない。


「捨て置くというわけにはいきませぬからな」


 太田さんも表情が渋い。なるべく正確な数字を求めると、あの地にリソースを割り振るのは得策じゃないんだけど。とはいえ甲斐を捨てるような政策をすると、織田家は僻地を捨てると勘違いする者もいるだろう。


 甲斐の場合、律令時代から上国だったこともあるしね。


 実は開発が後回しになっているところはすでにある。渥美半島だ。漁業で食える沿岸部と元から田んぼがあるところは人が残っているところがあるものの、知多半島と同様に貧しい地域だったらしく、街道整備の計画を立てて一部整えている以外は手付かずだ。


 三河も東海道とか河川の賦役はやっているんだけどね。費用対効果がそこまで良くないうえに戦略的にも必要性が薄くなると手が回らない。


 あと甲斐に関しては、武田家が動きたがっているんだよね。東国一の卑怯者という世評を変えたいということと、今川同様に末端や寺社に足を引っ張られて将来的に潰される可能性があることが気になるようなんだ。


 末端の斬り捨て。実をいうと尾張でもあったんだよね。所領を捨てると無駄に人を抱えているデメリットが大きくなるから。同盟やら家臣やら血縁やらでなんとなく従えていた者が邪魔になる。


 尾張は賦役とか警備兵とかで食えることで軟着陸させたけど。


 当然だけど、みんな自分の家と暮らしが第一だから、調整も楽じゃない。


 ほんと、周りから見るほど楽じゃないんだよね。




Side:今川義元


 愚か者を相手にするのは疲れるの。


 終わってみれば、己と一族の名と命を懸けて戦った者は一握りもおらぬ。わしの名と今川の権威で戦をしようなどと勝手なことを。


 あえて口に出せぬが、清々したわ。


 駿河における警備奉行や武官大将、それと朝比奈など主立った者を集めて、労いの宴を開くが、皆も安堵しておるようじゃの。


 かつては手に入らなんだ珍しき酒から食材が、此度の労いとして数多く清洲より届いたのじゃ。


「心情は察するが……」


 酒も進むと、皆も本音が出てくる。


「武士であろうが寺社であろうが所領を認めぬ。内匠頭殿がそれに拘るわけがよう分かる」


 朝比奈備中守の言葉にわしも思わず本音を漏らした。己が所領となると手放すのを惜しむのが当然であろうが、かように愚か者が多いと、所領を与えたままではいつまでも荒れた世が治まらぬと考えたのも道理じゃ。


「言い方が悪うことになりましょうが、凡将でも世が乱れぬ国が内匠頭殿の目指すところでございましょう」


 警備奉行である丹羽修理亮長政が皆にも分かるように内匠頭殿の狙いを教えると、周囲は静まり返る。


「あの御仁の恐ろしきところよの。されど道理じゃ」


 雪斎と共にここまでやってきたわしならば分かる。並みのやり方では上手くいかぬのじゃ。わしや雪斎、先人らとて喜んで乱世のままにしておるわけではないからの。


 そして雪斎や内匠頭殿、奥方衆のような者が常におるとは限らぬ。愚か者ばかりになっても荒れぬ政にする。壮大な夢じゃと思うわ。


「織田が乱れぬ理由でございますな。武衛様、清洲の大殿、内匠頭殿がおる今こそ、世を変えねば織田とて先行きが分からぬと」


しかり。某は内匠頭殿とさほど親しいとまでは言えませぬ。されど大殿の下命があらば、この命を内匠頭殿の目指す世に捧げましょう。もっとも内匠頭殿は左様なことを嫌う方だがな。そしてその代わりに、覚悟を以って生きて主に尽くせと教える御仁だ」


 朝比奈備中守が織田の強さの真髄を語ると、丹羽修理亮が噓偽りなき様子で確固たる信念を語った。その姿に家臣らが驚き見入るのが分かる。


 臣下でもない男に命を懸けると言わせるのじゃ。さらにその覚悟を我らに教えてくれる丹羽修理亮の器量の大きさも示した。


 相手がいかなる者らか、ようやく皆も悟ったであろう。


 雪斎、そなたが恐れておったことは避けられたぞ。命を懸けたそなたの働きが、織田と久遠を動かし、今川を救ったのじゃ。


 ひとつだけ惜しいのは、そなたと共に穏やかな余生を過ごせぬことか。


 共に穏やかな余生を過ごしたかったがの。


 わしにはまだやることがある。これが、世の変わり目にて、今川家を継いだわしの定めであろう。


 今川を残すことで、そなたの名と功を後の世に示してくれようぞ。



◆◆

 永禄三年、一月。駿河代官として駿府に戻った今川義元は、駿河、遠江における反織田の姿勢を示していた者たちを一斉検挙して捕らえた。


 当時の情勢として織田の治世が末端まで理解されておらず、駿河や遠江では頃合いを見て義元が挙兵するのだと信じていた者が相応にいたと資料にある。


 ただ、義元や今川家臣に対して、当然のように挙兵を期待することを口にする者たちに義元は危機感を強めており、疑われる前にすべてを処罰する決断を下したようである。


 この頃、太原雪斎が第一線を退いたことで、駿河、遠江では今川による寺社の統制が緩んでいたと思われ、主に今川に従っていた末端の僧侶と商人の一部にいた過激派と思わしき者たちがこの件で処罰されている。


 実のところ、清洲ではこの程度の反発は新領地ではよくあることであり、あまり懸念を強めていなかったという資料もある。


 とはいえ斯波家と因縁があり、織田家とも幾度か争った今川家としては、懸念は出来るだけ減らしたいのが本音だったらしく、斯波義統と織田信秀の許可の下でのことであったようだ。


 織田家臣従の際に義元を駿河代官にと推挙したのは、久遠一馬と大智の方こと久遠エルだったこともあり、今川家が織田家中で生きていくには、久遠家から受けた恩をなんとしても活かす必要があったとも推測されている。


 

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