第1764話・商人のいま

Side:とある商人


 海が見える。かつて日ノ本一の湊と言われた堺の海だ。


 湊には所狭しと船が泊まっておったと聞き及ぶが、わしが知る限りでは風待ちや海が荒れた時に逃げ込むくらいで、あとは通り過ぎてしまう。


「何故、かようなことになったのであろうな」


 誰もおらぬ故に漏れる本音も、吹き抜ける風に流されて消えてしまう。故郷である桑名は、織田の治める地として変わりつつあるという。


 旧知の服部様に頼まれて武具を売っただけだ。商人には敵も味方もない。誼ある者を遇してなにが悪い。とまあ、ずっとかような不満を持っておった。


 されど、わしとて分かっておる。商人が誰と商いをしようと勝手だ。だが、それは向こうも同じ。織田と久遠がわしらを絶縁したのもまた奴らの勝手と言えよう。


 織田に絶縁されたことで、桑名は旅人が通り過ぎるのみの町となった。わしは桑名内部の不満が危うい様子となったことで宇治の町に逃げた。織田と争う者などが流れておると噂を聞いたのと、旧知の商人がいたからだ。


 ところが、神宮の門前町である宇治ですら居場所がなくなった。


 織田ではない。よりにもよって神宮が我らを疎んだのだ。多大な銭を献上して尽くしたというのに。願証寺といい神宮といい、坊主どもは己のことしか頭になかったとはな。仏の弾正忠を信じる尾張の民の心情を、身を以って理解したわ。


 神宮の嘆願により、北畠の大御所様が兵を挙げるべく久遠家の奥方と兵と共に霧山御所に入られたと噂になると、宇治は地獄のような様相となった。


 大店の商家から町衆や近隣の者に襲われ、わしの店も……。


「主様、ここにおられましたか」


「ああ、少し海が見とうなってな」


 家人も奉公人もりとなり、僅かな者と命からがら逃げて、なんとかここ堺までたどり着いた。


 織田に逆らった商人として、わしの手配書が尾張伊勢のみならず、畿内の町にまで回っておった。いずこの地も捕らえることまでされなんだが、留まるのは許されず堺まで流れてきた。


「さあ、仕事をするか」


 さっさと頭を下げておけばよかった。清洲におしかけて命乞いをして家財をすべて差し出して許しを請えば良かったのだ。さすれば、かようにみじめな思いをせずに済んだかもしれぬ。


 斯波様に絶縁された町故、ここからは商人も逃げ出す。そのおかげで僅かな商いをすることを許された。決して暮らしも楽ではないが、なんとか生きていける。


 ただ、ひとつ案じてならぬのは、ここもいずれ織田の地となるのではと思うことだ。


 朝廷や公方様の覚えもよい織田がもし、ここまでくれば……。


 次はいずこに行けばよいのであろうな。




Side:湊屋彦四郎


「伊勢は良いが近江は難しいの」


 六角家と誼が深まるに従い、こちらのやるべきことが増える。各々の寺社や商人が勝手をする銭と品物の流れを我らが差配するのだ。当然だがな。


 わしも縁ある伊勢は分かるが、近江は分からぬこともある。そこらに詳しい望月家の者などと共に届いた書状を確かめる。


「近頃の書状は大人しゅうものになりましたなぁ」


「まことじゃの」


 近江の諸勢力からの嘆願か。わしが御家に仕えた頃は、従ういわれもないというのに命じるような書状や、脅しのような書状など面白うものが多かったのだがな。


 殿が上洛をした頃からか、詫びを入れる書状と共に態度が一変した。


 名のある高僧が自ら謝罪に出向いてきて、己が命で責めを負うと言うた者もおったの。堺や桑名の有様を見ると、かの者らも必死だったのであろうな。


「六角家の面目は潰せぬからの」


 あまりに愚かなことをした者らは、寺社が自ら処罰しておる。近江を治める六角家もまたこの件では動いた。おかげで、今の尾張と近江の商いに大きな懸念はない。


 腹が空いたなと思う頃、時計塔の鐘が鳴った。


 忙しゅうことに変わりはないが、休む時は休むのが掟だ。昼飯を食うために食堂へと向かう。食堂というのは殿が名付けた飯を食う場のことだ。


 清洲城でも、かつてはそれぞれ与えられた場で食うておったが、今では食堂で食う者が多い。これならば温かい飯は温かいうちに食えるうえ、料理番も運ぶ者も余計な手間がかからぬからの。


 織田の大殿や守護様ですら、こちらで食うことがあるほどだ。皆は畏れ多いと言うが、ここだけの話、大殿も守護様も我が殿の考えを知ったことで変わられたからの。


「ふむ、今日はなににするか」


 日により変わる品書きには三つほど料理があり、ひとつを選ぶ。あれもこれも食いとうなるが、あまり食い過ぎはようないとケティ様にお叱りを受けるからの。


 ふむ、これにするか。


「すまぬが、煮込み黄金こがね焼きをひとつ頼む」


「畏まりました。しばしお待ちくださいませ」


 あえて細かくした猪肉を、形を整えて焼くのが黄金焼きになるが、これはそれを煮込んだもの。御家では時折食うことが出来る品になる。


 飯は白米に雑穀などを混ぜたものだ。ケティ様が自ら勧めておられるもので、これだけで体によいのだとか。


「おお、よい香りじゃの」


 春の兆しが見られるとはいえ、まだ寒い。かような日は立ち上る湯気だけで馳走に見えるわ。


 箸で黄金焼きを幾ばくか切り分けると飯に乗せて、木の匙でタレをかける。ああ、これだけでよい。飯が何杯も食えるわ。出汁の利いた醤油を主としたタレには、黄金焼きと青菜などの味が出ておる。


「美味いのう」


 一切れの黄金焼きで飯が半分なくなってしもうた。落ち着くべく大根の漬け物に箸を伸ばす。古漬けになるの。これは作る者で味に違いがあってよいものだ。清洲城の料理番も随分と上手い漬け物を作るようになったわ。


 味噌汁は豆腐とわかめか。これも数年前ならばおいそれと食える品ではなかったもの。少し啜ると、まだまだこれからだと言わんばかりの黄金焼きが目に入る。


 いかんな。飯がなくなってしもうた。もう一膳ならよいか。このままでは夜まで悔いが残る。


 長生きするためには、飯はほどほどにするように言われておるのだが。さりとて、この黄金焼きがあるというのに、飯椀一膳で止めるわけにはいかぬ。


 ああ、美味い。なんと美味いものよ。清洲城の飯は日に日に美味いものが増えるの。


「湊屋殿、ご飯はそれで終わり」


 気が付くと四杯飯を食うた。最後に残った汁に飯を入れて食いたいと思うていたが、いつの間にか後ろにおられたケティ様に見つかってしもうた。


「お方様!? 無論、そのつもりでございますとも……」


「うん。長生きしてたくさん美味しいものを食べるには我慢も必要」


「左様でございますなぁ」


 うむ。確かに長生きはしたい。わしとて見たいのだ。殿やお方様がたが導かれる太平の世が。


 今日はこのくらいにしておくか。もう一膳食えば満足するのだが……。




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