第1670話・鉄道馬車

Side:久遠一馬


 津島天王祭の前に尾張に戻ってこられた。


 個人的には半月ほど留守にしていたことで、オレたちや大武丸と希美と再会した他の子供たちが、嬉しさのあまり大騒ぎしていたことがなによりも嬉しかった。


 移動日数が短かったこともあり、戻ってすぐに留守中の仕事を片付けているけど、それより優先させることがある。


 鉄道馬車の開通式だ。オレたちが戻ってから開通させようと待っていてくれたんだ。


 今、清洲城前駅では開通の儀式が行われている。鉄道馬車の安全と繁栄を祈るんだろう。鉄道馬車は未知のものだけど、時代的な常識から自然とこういう儀式を行う形になったようだ。


 そんな儀式が終わると少し物々しい雰囲気となる。周囲には見物人の人が所狭しといて、清洲城から輿に乗った上皇陛下が出てこられると賑やかな場が一転、静まり返る。


 輿は清洲城前駅で止まり、上皇陛下が下りられると広橋さんと山科さんと丹波さんなど、数人の側近を連れて鉄道馬車に御乗車された。


「しかし、よく話をまとめたね」


「二度とないかもしれぬことでございますれば。異を唱える者もすでにおりませぬ」


 留守を任せていた望月さんが詳細を教えてくれるが、織田家の皆さんと広橋さんで上手く話をまとめたらしい。別に権威がほしいわけじゃないけど、旅立ちの前にご覧いただきたいと思ったのは事実だからね。良かったよ。


 前例がないだけにご覧になられるのか、御乗車されるのか、どうするのかということは広橋さんに一任されたようだけどね。結局、一番馬車に御乗車していただくということでまとまったらしい。


 上皇陛下が着席されたのを確認した運転手が出発の鐘を鳴らすと、静かだった領民が盛り上がり始める。


 鉄道馬車の運転手。これも馬の扱いに長けて真面目な人から抜擢した人だ。もとは織田家の奉公人だったと聞いている。


 馬もこの時代だと、まず見ない大きさだ。そんな馬がゆっくりと走ると、武士も領民も等しく喜んでくれる。


 上皇陛下と広橋さんたちは、そんな様子を窓からご覧になられているね。


 ちなみに値段的に高価な硝子窓は入れていない。雨が降ったら木窓を閉めることになっている。


 この辺りは職人たちの試行錯誤の結果を受けて検討したんだ。不特定多数の人を乗せる鉄道馬車に硝子窓は、時期尚早だろうということで落ち着いた。


 レールの上を走るだけにそこまで壊れないんだけど、不意の事故が起きることはある。特に領民が間違って壊した場合どうするんだという議論から、なくてもいいのではという結論になった。


 交通ルールも設けた。鉄道馬車の運行を妨げないことや、一定の身分の駕籠などが通る時は鉄道馬車が止まるなど、運用ルールもきちんと定めた。


 現状だと清洲城前駅から五町、五百四十五メートルの短い距離だけどね。いずれ町などの人口密集地には広まるかもしれない。


 上皇陛下はお楽しみいただけているだろうか? いろいろあるけど、いい思い出になってくれたらと思わずにはいられない。




Side:広橋国光


 山科卿が戻りて数日、吾は院と共に鉄道馬車なるものに乗っておる。輿や駕籠と違い、中が広々としておりこれならば楽に乗っておられると、ただただ感心する。


 周囲には一目鉄道馬車を見ようとする民が所狭しとおり、院は左様な光景を眺めつつ穏やかな笑みをお見せになられておる。


 山科卿が久遠の地で見聞きしたことは、院のみに口伝として伝えられた。これは院が求めたことで、外に漏れるのをなんとしても避けたいという院の強い意思によるものだ。


 院は誓紙を交わすこととして内匠頭に同行を求めたようだが、内匠頭が証を残したくないと誓紙を交わさなんだことを重く受け止められておられる。


 吾や丹波卿を疑うというよりは、院のけじめなのだろう。少なくとも吾はそう受け止めておる。


 もっとも主上からの知らせで、尾張と不和の原因が警固固関の儀だと知り得たことにより、院は公卿に対して思うところがおありのようでもあるがの。


 あの時の吾らとすると、形式だけでここまで拗れてしまうとは思わなんだのだが。幾度かこの地に足を運び滞在しておれば分かる。あれは朝廷の失態だ。身の丈以上の奉公に対して足蹴にして鄙者は別だと示したのだ。言い訳のしようもない。


 まあ、この件は都に戻るまでなにも出来ぬ。院や主上がなにをお考えかということも、すべて理解しておるわけではないのだからな。


「ちょうど良き速さでございますなぁ」


 思案ばかりしておっても良うない。せっかく乗ったのだからと外を見ていると、丹波卿が院にお声を掛けておった。馬車よりは遅いが輿よりは速い。馬車のように揺れることもなく乗り心地は良いのだ。確かにこれは良いものであるな。


「うむ」


 院は多くを語らず頷かれた。ご機嫌は悪うないようだ。


 譲位あそばされたことにより内裏を出て、御幸と尾張での日々で、院は世というものを自ら見聞きしておられる。


 吾ら公卿とすると必ずしもよいことばかりではない。中にはかようなことするべきでないと言うておった公卿がおったのも仕方なきこと。


 されど……、あのまま内裏で天命を終えるよりは良かったと思わずにはおれぬ。


 いずれ、世が変わっても院の御心と御覚悟は必ず残るであろう。それが次の朝廷の礎になろう。いや、必ずそうなるべく吾らがお支えせねばならぬのだ。


 必ずな。




◆◆


 永禄二年、六月。尾張清洲にて日本初の鉄道馬車が開通している。世界初は久遠諸島父島の鉄道馬車であったものの、久遠諸島に次いでの開通となった。


 馬車の運用は久遠家が尾張にもたらしたものであり、鉄道もまた同様である。那古野工業村や蟹江港ではこれより以前から鉄道荷車を運用しており、それらのノウハウを活かしての鉄道馬車であった。


 この少し前には人乗大八車が清洲を中心に増えていた時期で、尾張の各町では他国よりも明らかに文化水準が進んでいた。それらの町の変化と、鉄道馬車関連への技術の成熟がこの時の鉄道馬車開通に繋がったと思われる。


 一番列車には滞在中の後奈良上皇が御乗車され、沿道では鉄道馬車と後奈良上皇を見ようという領民で溢れていたと記録にはある。


 なお、日本初の鉄道馬車出発地である清洲城前駅は、清洲路面電車の駅として現在も当時と同じ場所にて現存している。今も清洲市民の足として多くの人が利用する駅である。


 路面電車から見える清洲天守と時計塔は当時のままであり、牧斎という号で有名な牧場留吉の『鉄道馬車にて』という絵画を模した絵葉書が人気のお土産となっている。


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