第1623話・不穏な甲斐

Side:穴山信友


 戦だというのに誰ひとり喜んでなどおらぬ。飢えるくらいならば奪うというのも理解する。されど、けじめは付けねばならぬ。


 相手は吹けば飛ぶような土豪と、土豪の領地の近隣の村の者が幾人か集まったようだ。百名を超える者が土豪の館に籠城しておるとのこと。


「我らもまた、かの者と立場は同じ。明日には我らが御屋形様に攻められておるのやもしれませぬな」


「意地を張るには力がいる。左様なことを我らは忘れておった」


 長年付き従う者らでさえ士気は低い。戦をしたとて武功として褒美を与える余裕もなく、得るものはなにもないと皆も理解しておるのだ。むしろ、かの者らと我らの立場が似ておるということで哀れむ者すらおる。


 同盟とはいえ相手は守護。守護を変えるべく手切れとすれば敵になるのは必定か。なんということはない。御屋形様は我らよりも斯波と織田を信じたというだけ。甲斐という国を明け渡してまでも家と意地を通そうとした。


 見誤っておったのだ。御屋形様の覚悟と力を。


「慈悲は与えられぬ。すべての者を討ち取れ。久遠寺が御屋形様に訴えれば、我らの一族郎党が根切りにされかねぬぞ。かかれ!」


「ははっ!!」


 まるで地獄にでもおるようだわ。愚か者と愚か者が互いに争い潰し合う。されど、久遠寺を怒らせることだけは出来ぬ。恨んでくれて構わぬ。それがこの世なのだからな。


 懸念はここだけではないのだ。すでに領内では、他のところでも小競り合いと言えぬほど僅かな食い物の奪い合いをしておる。このままでは無法の地となってしまうのだ。


 なんとしても収めねばならぬ。久遠寺を納得させて御屋形様にこの首で許しを請わねばならぬのだ。


 それがわしの役目だ。




Side:小山田信茂


 尾張に参らねばならぬというのに、穴山では内輪揉めか。まさかこちらを攻めるとは思えぬが、備えを欠かすわけにもいかぬ。


 尾張の御屋形様には使者を出した。遅れることの詫びと、穴山の動きに対していかがするべきかと命を仰ぐためだ。


 躑躅ヶ崎館にも念のため知らせてある。織田の者と武田家家臣がおると聞いておるが、まかり間違って我らが挙兵するなどと勘違いされても困るからな。


「殿、戻りましてございます」


「そうか。いかがであった?」


「こちらの立場はご理解いただいたようでございます。あとは穴山が攻めてくるまでは動かぬほうがよいと……。それと御屋形様から話は通っているようで、穴山がこちらの所領に足を踏み入れたならば後詰めは寄越すとのこと」


 躑躅ヶ崎館から戻った者の報告に安堵する。御屋形様の所領はすでに織田の差配する地となっておるが、守護は今も御屋形様だ。いずれが命を出すのかわしにも分からぬ。


 とはいえ、穴山と共に謀叛人として討たれるのだけは避けられたか。


「幾人かは挙兵するかと思ったがな……」


「その動きもありましたが、いずこも一族一党がまとまりませぬ」


 小山田家が武田家と同盟だったように、小山田家と領域にある国人や土豪もまた明確な主従でないところが多い。また一族の者でも気に入らぬと争うなど珍しくもないのだ。籠城も覚悟しておるが、今のところこちらの城に攻め寄せるほどではない。


 わしとは手切れだとして、己の所領を治めんと勝手をしておる者はおるがな。


「己の名で戦の采を振る。身分の低い者にとって夢のようなもの。されど、いざとなると難しきことでございまする。さらに愚か者とて御屋形様のお力は理解しており、その御屋形様が降った織田が強きことは承知の上のこと」


 年寄りがわしの顔を見て左様なことを言うた。わしと手切れとした者は、御屋形様に直に従うことを考えておるのであろうな。


 理解する。あとは勝手にすればいいとしか思えぬ。


 そもそも家臣らも勘違いしておるが、奴らは代官という名に変わり今までと同じ領地を治めることが出来ると思うておるのだろう。ところが尾張で聞いた話では一切の勝手は許されぬというのだ。


 ここで従わぬ者がいかになるか、わしも知らぬ。されど、今とおなじ暮らしを守るのは難しかろうな。




Side:久遠一馬


「甲斐は限界かな?」


「そうかもしれません」


 エルと顔を見合わせてなんとも言えない気分になる。史実ではここまで甲斐国内は荒れなかったと思うけど、その分、信濃が搾取されて荒れていた。


 武田が手を引いたことで信濃は安定に向けて舵を切ったけど、信濃から奪えていない分だけ甲斐が荒れる。まあ、これには数年前からの、今川との得るものがない戦の影響も大きいんだけど。


 そういう意味では、この世界で立場の弱い甲斐は史実にない形で荒れることになってしまった。


 ただ、この件は難しい。仮に織田が寛容に対処をして援助しても、その食料が末端の領民に届くことはまずないだろう。民の飢えも領国統治という意味では困るけど、それよりも身分や力ある者の面目と力の維持に使われるだろう。


 民草という言葉もあるように、武士にとって領民の命など草のようなものだ。大切にというと変人のように思われる。そんな時代だ。


 さらに同じ戦国時代でも比較的豊かで争い慣れている畿内と、奪えないと飢えてしまい、命を懸けて奪うことを繰り返している甲斐では価値観も動きも違う。


 元の世界の創作物のように強く織田家の最大の敵としての武田は存在しないけど、甲斐に悩まされるのは意外と同じなのかもしれないね。


「まあ、こちらもそこまで余裕ないんだよね」


「はい。甲斐では米を減らして粟と稗を増やさねばなりません」


 すでに旧武田領では、作物転換の一環として複数の土地で試験的に米を粟と稗に変えさせている。いきなり全土で一気に変えるというのは無理なので、段階を踏む必要があるんだ。歴史に残る大規模飢饉も遠くないうちにある。さらに地域や場所によって歴史に残らないような不作なんて珍しくない。


 とりあえず飢えを防ぐために、すぐにでも作付面積を増やせる作物となると多くない。甲斐の場合は領国経営の黒字どころの話じゃないんだ。


 穴山家と小山田家の心配をしている余裕ないんだよね。本当は。


 甲斐と信濃は難しいところなので、ウルザとヒルザは当面信濃統治を続けることになっている。小笠原さんとも少し話したけど、小笠原家に信濃代官を任せても治めきれないんだよね。もう少し安定させないと。


 小笠原さん自身は礼法指南とかで尾張にいたほうがいいし、不満もないみたいだからさ。


 一方の旧武田領は、織田家文官の指示を受けた武田家家臣が上手く治めている。手法が少し強引だということで反乱があるとの報告もあるが、なにより飢えさせないようにと差配した手腕は見事だった。それがないと本当にウチから人を出さないといけなくなるところだったんだよね。


 さすがは史実で甲斐を中心に勢力拡大しただけの力があると示した形だ。


「さて、そろそろ到着するかな。こっちも大切だ。頑張らないと」


 オレは今、エルと共に細かい打ち合わせの最中に少し甲斐のことを話している。


 実はこのあと、斎藤家と浅井家を招いて食事会をする予定なんだ。こういう仕事、オレ自身がするのは初めてに近い。シンディとかアーシャはたまに頼まれるらしいけどね。


 こういう仕事をずっとしていた政秀さんにも相談したし、準備はみんなでやったからね。あとは本番を上手く乗り切るだけだ。


 ただ、慣れないことだから少し緊張するなぁ。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る