第1608話・歴史の功罪

Side:シンディ


「大殿、先ほどはわざと私にあれを言わせたのでございましょう?」


 武田殿が下がり土田御前様と顔を見合わせてしまうと、つい問うてしまいました。


「ふふふ、見抜かれておったか。あれも愚かではないが、いささか憎しみが隠しきれておらぬ。わしが言うても届かぬかと思うてな。女であるそなたの言葉のほうが届く時がある。これで少しは落ち着くとよいのだが」


 分かっていても出来ないことは多いものです。それは人も私たちアンドロイドも同じということでしょうか。


 許せない。そんな思いが今もあるのは私も感じ取りました。臣従を後悔している様子はない。ただ、きっかけとなった小山田と穴山に寛大になることも出来ていない。


 冷静になり客観的に判断を下す。いざ自分が当事者となると難しいものですわね。


「大殿、あまり損な役目を与えては桔梗殿とて困ることになりましょう。ただでさえ家中の揉め事の相談が多いと聞き及ぶというのに」


「そうであったな。済まぬ」


「この程度のことでよろしければ、いつでも構いませんわ。私たちは、大殿やお方様には実の父と母と等しいほどの情を頂いております。孝行するのも子の役目」


 少し考え込んでいると土田御前様が大殿に苦言を申してくれました。ただ、私は本当に構いません。父と母を知らない私たちに、肉親としての情を教えてくださっているのはこのお二方なのですから。


「まあ、そこまで言うてくれるとは……」


 ふと思います。武田家が憎しみを癒すには今しばらくの時がいるのではないかと。ただ、それだけの時が小山田家や穴山家にはない。


 難しいものですわね。人の感情とは。




Side:久遠一馬


「甲斐か。あそこも難儀な国だな」


 小山田信茂が来たという知らせに信長さんが軽くため息をこぼした。織田家だと、もう国人レベルが臣従を申し出ても喜ぶ人は少ないかもしれない。


 領境の小競り合いから始まり、甲斐織田領への物資輸送を襲う者たちの存在。どれも見過ごせないレベルに増えつつある。小山田家は限界なんだろう。


「小山田殿のことはまあ私が口を出すことではないですけど、あの地を落ち着かせて食わせるのは大変ですからね」


 個人的には小山田家が悪いとは思わない。そういう時代であり世の中なんだ。ただし、あの地は本当に貧しく苦労が多い。小山田は血筋もあるから晴信さんが根切りにしない限りは生き残れるだろう。


 結局、今回もトカゲのしっぽ切りならぬ当主だけに責めを負わせることで、家と家に属する者たちが残ってしまい、今までの既得権の大部分を同じ一族の者に継承させるつもりなんだろう。身分社会、血縁による権威至上主義の欠点だろうね。


 彼らの面目や意地のせいで、昨年の冬から現在に至るまでに多くの者が飢えて命を落とした。その責めを負う者はいないんだ。人権なんてものがなんの憂いもなく素晴らしいなんて思わないが、人の命より特定の人たちの面目と意地が優先されるのは好ましいと思えない。


 まあ、これは決して口に出さないけどね。世の中を混乱させるだけだから。


「西も西で相も変わらずだ。こちらから手をさしのべて統一すべきなのか。オレも迷うてしまうわ」


 信長さん、今年から仕事が増えている。織田家の家督継承を前提として経験を積むことと、権力移譲の準備段階に入っているんだ。


 今の織田家だと日ノ本を左右する力があって、それに合わせた政治をしなくてはならないからね。正直、うんざりするようなこともあるからね。かつてのように夢と希望だけで物事を考えているのとはわけが違う。


 信長さんは現実を直視した為政者として成長しつつある。


「畿内とは遅かれ早かれ争いになるのはあるでしょうね。あとはいかに血を流さず負担を減らすかでしょうか」


 罷免された蔵人たちの影響は今も大きく残る。山科さんと広橋さんの手腕と人柄で関係は改善したが、言い換えると個人の信頼と技量で一旦収めただけだ。朝廷への献上と彼らの権威を警戒する声は消えたわけではない。


「守護様と親父とそなたを信じるが故に、皆も大人しいのだ。オレとてそれは同じこと」


 今のオレに、そこまではっきり言うのは信長さんくらいだね。そういう意味では出会った頃とあまり変わっていない。


 今の尾張にとって畿内とは、遠く美しいものを近くで見ると粗が見えるのと同じだ。朝廷も寺社も武士も、リアルな存在として知ったことで綺麗事ではない現実問題として見ている。


 百年の恋も一時に冷めるなんてことわざがあったけど、それが今の尾張と畿内の関係になる。都や先進地へのあこがれも権威に対する羨望の思いも、リアルな相手として見てしまったことで変わりつつある。


 ただ、家中のそんな微妙なものを抑えているのは、信長さんでもあるんだよね。家老衆や評定衆と話をして意思疎通をして舵取りをしている。


 仲間内に対する面倒見の良さは昔からあったみたいだけど、今はきちんと大人の付き合いも出来ているんだ。


「良いことも多くありますよ。上様がお味方であることや、北畠家と六角家が信じられること。これは本当に大きい。それらがないと今頃はまったく違った状況になっていましたよ」


「まあ、それはな」


 面倒事や厄介事も増えたけど、味方も本当に増えた。津島の屋敷で酒を造って一儲けしようとしていた頃と比べ物にならないほどだ。


「甲斐も当面はこちらで命じて武田家に実行してもらうべきでしょう。小山田と穴山は考える必要もないかも。ほんとどうでもいいです」


 今ある状況で出来ることをするしかない。武田家なら問題ないだろう。なんだかんだ言いつつ史実で功績を数多く残した偉人なんだ。晴信さんはね。


 そういう意味では、実はあまり心配していない。臣従後の働きと行動も見事なものだ。東国一の卑怯者とか日ノ本一の卑怯者と言われたとは思えない有能な働きだ。


 武田家の元領地、村や土豪の反発はあるものの、思ったよりちゃんと武田家の命令には従うんだよね。穴山と小山田の領地がどうなるか知らないけど、任せられる人がいるのは大きい。





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