第1438話・大御所様、饅頭を食べる。

Side:武田晴信


 初めて見る海は広く、遥か彼方まで続くのかと思わせるものであった。


 甲斐を出たわしは、相模の小田原にて北条に挨拶をした。織田に降ったと告げるもあまり驚きはなく、察しておったように思える。


 北条殿もまた御幸の出迎えをするために尾張へ行くということで、共に伊豆下田から黒き船にて尾張を目指しておる。


「海はいかがですか?」


 今日は海が荒れておらぬということで、『甲板』と申すらしい、露床ろしょうにて海を眺めておると船長のひとりである六花の方殿に声をかけられた。名は確か、雪乃と申したか。白き髪と着物のいで立ちに甲斐の冬を思わせる者だ。


「ああ、広いな。そして恐ろしくもある」


 甲斐の山や川とはまるで違う。同じこの世のものとは思えぬ。


「海に生きるのが、我ら久遠の定め。広く恐ろしいからこそ、海を知り、海に挑むのです。そのことをお心の片隅にでも残しておいてください。武田殿のお役に立つはず」


 海に生きる。山国である甲斐に生きるわしとは、すべてが違うな。甲斐一国さえ、まともに治められぬ愚か者だ。当然か。


 同じ船に乗る北条が羨ましいわ。北条はいち早く織田と誼を深めることで、今の世を見事に生き抜いておる。


 ふと気になったのは、小山田が北条と誼を深めることで活路を見出そうとしておることか。北条はいかがするのであろうか? あまり相手にしておらぬということまでは分かっておるのだが。


 甲斐はいかがなっておろうか。わしがおらぬことで戦になっておらねばよいが。まさか織田に降った地を攻めるとも思えぬが、小競り合いもないとは思えぬ。


「織田は、卑怯者など望んでおるまいな」


「人の上に立つとはままならぬもの。皆、理解しておりますよ。世評が気になるのならば、己が力量で変えてみせればよろしいのです。甲斐源氏たる武田殿ならば出来るはずです」


 口に出す気などなかった。されど、信じられぬほど大きな船に己の愚かさを思い知らされた故か、口に出しておったらしい。


 それは慰めの言葉か、世辞か。いずれにせよ、女の身ながら船を任されるだけの者だということか。


「すまぬ。忘れてくれ」


「心得ております」


 わしはあまりに身勝手すぎた。許しも得ずに妻子を送り臣従を願い出たばかりか、貧しく争いが起きる甲斐を以って臣従をするなど。


 卑怯者の次は愚か者とでも謗られようか。


 それでも甲斐源氏を途絶えさせるわけにはいかぬ。この首を引き換えにしてもな。




Side:小笠原長時


 弟とその家臣らが尾張に来るとはな。信濃が手薄になるではないか。いささか危ういと思うが、最早、信濃で織田に逆らう者はおらぬか。諏訪神社への冷遇が効いたな。


 先日の熱田祭りにて、呆けたように初めて見る花火を見上げておった弟の家臣らの顔がすべてを物語っておる。


 足利所縁の今川の者らとて、同じような顔をしておったのであろうな。


 少し前に初めて義元と会うたが、わしとあまり変わらぬ立場であるように見えたの。二ヵ国を擁しておったとはいえ、己が力を認めさせた臣従ではないのだ。


 織田が臣従を求めることは近年ないという。望むならば受け入れる。小笠原も今川も、織田から見ると大差ないということか。


「ほう、諏訪は承諾するか」


「はっ、いささか不満はあるようでもございまするが……」


 弟は信濃から幾つもの書状を持参したが、そのひとつは諏訪分家からのものになる。小笠原家に臣従を願うというものだ。


 もう少し荒れるかと思うたがな。清洲の大殿の怒りを恐れたか。


「あと、諏訪内で少し騒ぎはあった様子。高遠を荒らした者らを処罰したとのこと」


 諏訪の隣である望月は早々に降っており、尾張望月家の一党に収まっておる。待遇がまったく違うと信濃でも評判だ。一番の勝ち組は望月だと言われるほど。


 高遠を荒らして調子に乗った愚か者があそこを荒らすと、諏訪とて許されぬからな。また勝手なことをされる前に愚か者を処分したということであろう。


「そなたは少し家臣らを連れて清洲と那古野でも見て参るがいい。二度と逆らう気など起きなくなる。あと飯は八屋というところが美味いぞ。久遠殿の店だ」


 大殿に上申せねばならぬな。あまりお喜びにはなるまいが、御幸前に片付けてやらねば諏訪が哀れだ。


 正直、信濃にはもう戻らずともよいと思える。少し前には信濃の兎川寺に託した白牡丹が届いた。忙しい最中、わざわざ人を遣わして受け取り、尾張まで運んでくれたのだ。


 少し話を聞くと、久遠殿の差配だとか。あの御仁は驚くほど細かなところに気配りをする。気難しいとも聞いたが、わしには人のいい御仁にしか思えぬ。


 さて、大殿のところへ参るか。




Side:久遠一馬


 熱田祭りは今年も大成功だった。花火は年を追うごとに見物人が増えているんだよね。その見物人があちこち観光したりしてお金を使ってくれる。


 ほんと尾張の経済は、他国と比べものにならないくらい大きくなっている。


「幾度見ても花火はよいの。費用を聞くと恐ろしゅうなるが」


 この日、ご機嫌な様子でウチにやってきたのは晴具さんだ。具教さんが上洛しているのに南伊勢に戻っていないんだよね。霧山御所を空けている。


 本来のこの時代ならあり得ない無防備な行動だけど、今の北畠家で勝手なことをする人はいないだろうなぁ。もしいたとしても嬉々として処分する名目にされるだけだろう。


「銭は使ってこそ意味がありますから。なかなか理解してもらえませんけど」


 身分が違うんだけどね、本当は。ただ、実質的なオレの立場が、もう釣り合うようになっているということだ。


「人にそれを知られる前に統一してしまえばよい。機を逃してはならぬ」


 晴具さん、理解出来ているか出来ていないか、今一つ分からないものの、どちらでもいいという感じなんだよね。


 オレが言うならそうなんだろうという感じだ。真偽よりもそれをどう使うか、そういうことに頭を使う。


「おっしゃる通りでございますね」


 公卿家である北畠の協力も大きいんだよねぇ。おかげで統一の計画が楽になった地域もある。


「院の御幸。これが厄介よの。人は欲深い故に。無論、院はよいのだ。されど院が動けば、公卿が動き公家も動く。力ある者をいかに己が味方にするかと思うのはまだ良い方じゃ。あれらが東国の者を見る心根は酷薄こくはくぞ。やっておることは古から変わらぬ。そういう意味では朝廷もまた愚かと言えような」


 さすがは公卿だね。名誉に付きまとう懸念を理解している。尾張に滞在するようになってからというものの、こちらの価値観も学んでいるようでいろいろと助言をくれる。


 家伝や口伝で伝え聞く歴史や過去。そういうのはこの時代では計り知れないほど大きいんだなと実感する。


「口を出しても喜ばれませんからね」


「出しても喜ばぬし、出さずとも不満に思うものよ。仮にだ、そなたが院に多くを話して聞かせたとしよう。院は喜ばれようが、公卿や公家は不満に思う。それはもういかようにもしようがない。上手い嫌われ方を覚えねばなるまいな」


 茶菓子として出したお饅頭を頬張りながら、ものすごく勉強になることを教えてくれる。


「嫌われ方……」


 横で話を聞いているエルが真剣に聞いているのがなによりの証だ。こういう特定の世界のコツ。オレたちにとって足りないもののひとつなんだよね。


「無論、ただ嫌われるのではない。相手に敵わぬと思わせねばならぬ。それでこそ与えるものを喜ぼう」


 ああ、お饅頭がなくなったので追加で出していると、さらにいろいろと教えてくれる。別にお饅頭が関係あるとは思わないけど。


「そなたらはあまりに畏れ多いという建前を出し過ぎる。まずはそこから考えればよいと思うぞ」


 こういうこと、本当は高いお礼を包んで教えてもらうことなんだよなぁ。あとでお礼の品を送ろう。





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