第1268話・義元の決断
Side:今川義元
母上はもう清洲に着いたであろうか。まさか実の母を人質として出さねばならんとは。己の愚かさに恥じ入るばかりじゃ。
さりとて、今川家にはもう織田と一戦交える力すらない。織田と戦となれば富士浅間神社など兵を出さぬところがあってもおかしゅうない。さらに織田と戦になれば荷留をされるであろう。さすれば駿河は荒れるやもしれぬ。
「雪斎、最後くらいは共に戦場を駆けようぞ」
「御屋形様……」
駿河を出る前に母上と話をした。次を最後の戦とするとな。出しうる限りの兵をもって武田を攻める。勝っても負けても次が最後とするとな。
願わくは、織田相手に最後の一戦を交えたかった。されどこれ以上の因縁は今川を滅ぼしかねぬ。
最後の戦は今川を残す戦じゃ。織田に降ることに異を唱える者を前に出して潰しておかねばならぬ。長年忠義を尽くした者らもおるが、今川の家を潰すわけにはいかぬ。
仮に武田に大勝して甲斐信濃を切り取れたのならば、それを手土産に降ればよい。功を挙げた者は増長するかもしれぬが、甲斐信濃を平定する最中で使い潰せば良かろう。
「わしもそなたも若くはない。織田に降ったのちに出家する。共に仏門で余生を過ごそう」
彦五郎にはいささか酷なことをしてしまうが、因縁さえ終わらせれば生きていけよう。聞けば大恥を晒した西条吉良の命を信秀は助けたというではないか。情けはある男じゃ。
高野山にでも行けと言われるか、目の届くところにおれと言われるか。いずれにせよ今川の家は残る。
「久遠一馬か。ようやく会えるの」
負けを認めると楽になった。楽になったと思うと一度会うてみたくなるな。
信秀も武衛も敵ながら恐ろしい男だと思う。されど今川をここまで追い詰めたのは彼の者であろう。
「あの者らならば……、日ノ本をまことに飲み込んでしまうやもしれませぬ」
「南蛮船のみであれば、ここまで追い詰められておらぬか。わしもつくづく運のない男よ」
雪斎がそこまで言う者らが隣国とはの。
世が変わるかもしれぬ時に因縁ある斯波が隆盛した。これは定めであろう。わしの名が地に落ちようとも家を潰すことだけは出来ぬ。一戦交えてなどと考えても織田に認められることなどないのだ。
口惜しいがな。
Side:姉小路高綱
「武士から戦を奪うと、かようになるとはのう」
今川の寿桂尼殿を見て近衛公が小声で囁いた。戦を奪うとは面白き物言いをされる。とはいえ間違うてはおらぬの。強すぎる織田には、おいそれと戦を仕掛けることなど出来ぬのだ。
戦などいずこにでもあるもの。村と村の戦から国人や国主まで。ところが織田はそれを禁じておる。一戦交えれば納得するというところも許さぬとは、武士としていかがなものかとも思うがの。
もっとも吾は笑えぬがな。
飛騨の国司として所領もあり飛騨を治めるべき定めでもあった。ところが三木や江馬や内ヶ島ばかりではない。吾に従うものすら信じてよいのか分からず、織田に降ったのは、彼の者らへの怒りとせめてもの意地が理由であった。
「駿河攻めはありえるのか?」
「さて、吾は聞いておりませぬが……」
近衛公に問われるが、吾にも分からぬ。武衛様と内匠頭様は一貫してやらぬと言うておるが、六角と北畠と同盟を結べば西は安泰だ。まさか越前を攻めるとも思えぬ。
所領が広がり過ぎて忙しいというのは事実なれど、好機をむざむざと捨てるとも思えぬところがある。
「こうして見ておると人のよい男にしか見えぬがな」
近衛公は内匠助殿を見ておられた。確かに駿河攻めがあるとすれば、内匠助殿次第ではないかという噂が織田家中にはある。
人当たりはよい男だ。吾の暮らしや体裁を気にしてくれて、あれこれと珍しき品を贈ってくれる。じかに話せば学徳を治めた男だということが分かる。無理押しを好まず、皆の話をよう聞いておるほどよ。
ただ、信義に反する者や良からぬ謀をするような者にはいささか厳しい男でもある。
勅願寺である真宗の無量寿院を未だに許しておらぬのは、内匠助殿の怒りがあるのではと囁く者もおるのだ。
斯波と織田が躍進した最大の功労者であり、事実上の同盟者でもある。
まあ、今川攻めを長いこと止めておったのも内匠助殿だというくらいだからな。やるとすれば彼の者が納得せねばあり得ぬというのは事実であろう。
「主上がの。殊の外、お喜びであられた。神仏は日ノ本を見捨てておらなんだとな」
近衛公の小さき声がさらに小さくなった。とても宴の席で明かしてよい話ではない。言葉を選んでおられるが、まさか主上までもが内匠助殿のことをそこまでお認めになられたのか。
意地を通す力も覚悟も吾にはない。もっとも現状に大きな不満もないのだが。吾は世の移り変わりだと今を受け入れることとした。
今川はいかがするのであろうか。意地を通したところで名など残らぬと思うがの。
Side:斯波義統
因縁とは困ったものよな。わしも内匠頭も一馬も因縁だけは手が付けられぬ。こうしてみると一戦交えて雌雄を決すというのは、先人の知恵なのであろうな。
いや、一戦交えてと繰り返して決着がつかぬから今の乱世が終わらぬのか。倅の婚礼の祝いとして許すと言うか? 増長するであろうな。奪った者が得をするような世は良いはずがない。
悲壮よな。齢七十を超えて他国に赴き因縁を軽くしようとする宗滴も、出家した女の身で家を残すために幾度もやってくる寿桂尼も。
明日は我が身だ。
「頃合いか」
すでに家中では今川や朝倉など、いかようでもいいと聞こえてくる。ただ、一馬らはそろそろ頃合いだと見ておる。今川を降し、東海道を制す。そう考えておるのだ。
日ノ本の外から見ると狭く見えるが、それでも東は奥州から西は九州まで漏らすことなく制していかねばならぬ。長々と時を懸けておると己の命が先に尽きてしまうからの。
飯と酒は美味くなったな。塩と味噌の料理と濁酒で、我が身の不甲斐なさを嘆いておった頃とは別物じゃ。
酢の利いた醤油タレで食う蒸した魚など絶品じゃの。焼いたものより柔らかく酢の味がより魚の味を引きだしておるわ。
醤油と生姜の味が染みたこんにゃくもまたよい味じゃ。
このような飯を毎日食うておると、日ノ本の行く末などいかようでもよいとすら思えるわ。
おっと、そろそろ酒は控えるか。連日の宴じゃ。あまり飲み過ぎると後で薬師の方に叱られてしまうからの。
わしもまだまだ長生きしたいしの。新たな世を見るまで死ねんのだ。
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